五井先生の言葉
1.或る日こういう質問をした人がいた。「先生、何故この世に迷いがあり、悪があり、苦しみがあるのでしょう。神が完全であれば、何故人間を迷わない、苦しまないように造らなかったのでしょう?」この質問はよくされるものであるが、その時、五井先生は次のように答えられた。
「それは心の持ち方ですよ。登山者は山に登る苦しみをへて頂上にたどり着く。その喜びはそれは大変なものです。その場合、苦しみは悪いことだろうか?その人にとってただ単に苦しいことか?あるいは喜びであろうか?楽しみであろうか?
...
或る人がお酒を止めようと思ってもお酒を止めることが出来なかった。その人はついに病気になってしまった。それが動機となって信仰の道に入り、病気も治るし、お酒ものむなんてコリゴリだと思い、ピタリと止まり、清らかな生活に入っていった。
この場合、この人にとって病気は悪いものでしょうか?その人にとって善なるものでしょうか?その人にとってよかったわけですね。よいからこそ守護霊さんがそう導いたわけです。赤ん坊が最初から大人のように大きかったら、育てる楽しみがなくなってしまいますね。
赤ん坊がだんだん大きく生長して、完全になっていく、というところに人生の妙味があるのだし、よいところがあるのです」
感想・・・・肉体人間の想っている幸せと、守護霊さん守護神さんが自分の守っている孫、ひ孫になって欲しいこととは、かなり乖離(かいり)している、離れているのです。
私たちは、病気無し、貧乏無し、人間関係のいざこざ無し、家族、知人、友人の健康、幸せ、平穏無事を願っています。 当然です。
みんな辛い試練は嫌です(笑)
が、しかし現実はそうはならず、これでもかこれでもかと問題が生じます。
でもここで不思議なのは、その試練を平気であたり前のように受け止めている人もいるのです。
反対に「自分は不幸だ、ついていない」と言っている人がいる。
どちらが幸せそうに見えるかというと明らかですね。
心の持ち方と言ってしまえばそれまでですが、自分の正体、ほんとうの姿は「神の子」だったとしたらどうでしょう!
お釈迦様やキリスト様と同じ魂だったとしたらどうでしょう!
奇跡を起せるとしたらどうでしょう!
肉体界、3次元という次元を超えて一段上から客観視できたとしたらどうでしょう!
そうなると景色がまるで違ってくるのです。
苦労が苦労で無くなるのです。
そのメソッドがいわずと知れた『世界平和の祈り』の中に自分の全想念を投入することなのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命がまっとうされますように
守護霊さまありがとうございます
守護神さまありがとうございます
*この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。