無為とは一言にして申しますと、為にしない、ということなのです。何をしよう、かにをしよう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。
そう致しますと、無為を為すとは一体どんなことをするのかという疑問が当然起こってまいります。
頭脳で考えないで一体なにができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当たり前であります。
ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人と外れている人との相違なのであります。
凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を、唯一無二の人間と想っています。
しかし聖人は、人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、生命の現れる一つの場所であることを知っています。
それは頭で知っているのではなく、事実として承知しているのです。
そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、無限の段階において働きつづけていることも知っているのであります。
ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを駆け巡っているような想念や知識をいくら振りまわしていても、大宇宙の法則に乗り切ることはできない。
大宇宙の法則に乗って生きてゆかなければ、この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけない。と自らの体験で昔からの聖者たちは知っていたのです。
そこで、老子は無為と説き、釈尊(お釈迦様)は空(くう)と説き、イエスは神のみ心のごとく、といって全托を説いていたのであります。
無為を為し、空になり、全托の境地になりますと、肉体頭脳と奥深い大宇宙の根源の心、つまり宇宙のみ心が一つにすっきりとつながりまして、宇宙の智慧や能力が、そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。
聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。
それ程にならぬとも、人間が真剣に物事にぶつかった時には、瞬間的に想念が統一して、日頃は出もしない力がでてきたり、超越した能力がでたりしてくるのです。
これも無為や空の境地に瞬間だけでもなったことになります。
地球人間がいつまでも宇宙の法則に乗らずにいたら、いつかは滅び去ってしまいます。
ですから、出来るも出来ぬもない、絶対に宇宙法則に乗らねばならぬ時がくるのです。
その為に古来から各聖者が肉体頭脳の小智才覚に溺れずに、奥深い神のみ心に波長を合わせろと説きつづけていたのであります。
「老子講義」 五井昌久
私が大好きな本「老子講義」の一節です。
本当の人間の壮大さ、奥の深さ、素晴らしさが書かれています。
私たちは肉体が自分じゃない、宇宙そのもの、神そのものなんだってお釈迦様もキリストも聖者たちは言っていたんですね。
それを人間が知ってしまっては民衆を統制しにくい、コントロール出来ない。
だから神は外にあると言った、私の言うことに従っていればいいのだという人に服従してしまっていた。
従っていればいいのだから、楽だから、そこに甘えていた
でも、それは違っていたのです。
五感に感じない、奥の世界に入っていくと本当の自分に出会えるのです。
五感に、感じる世界に惑わされてはいけません。
これからは師匠もいらない、宗教もいらない、お金もいらない、自分だけで気づいていけるのです。
向上していけるのです。