「私」とは一組の任意の男女の関係から生まれて、全く蓋然性のない存在であるすぎない。哲学は、この存在を問うことができず、せいぜいそれを価値の基準に作り替えてしまうことをしてきただけである。この非蓋然的な存在は、異質なものとして世界の形成から排除されるが、他方でこの異質性のために途方もなく自由であって、世界のうちにあるものの限界を越え出て行くことができる。
〈ただ死という限界において、この「私」の本性そのもの――途方もなく自由で「そこにあるもの」を超越して行くところの
暴力的に露わになる〉t.1-p.91。明らかにされるこの「私」は、抽象的でも、個体的でも、中性的でもない。なぜならそれは「死にゆく私」だからである。そして〈「私」は、ただ「死にゆく私」というかたちにおいてのみ、「私」の特異性に、「私」の完全な超越性に接近する〉
〈けれども、「死にゆく私」がこのように明らかになるという出来事は、死が単に苦悩に対して示すされるたびごとに起こるのではない。このような出来事があるということは、存在は、それが死の非現実的な時間の中へ投げ込まれる瞬間に、強権的な完成を遂げ、至高のものとなることを想定させる。それは、生が強権的imperatifとなることが要請されること、同時にそのような生が衰弱することdefaillanceを想定させる。この生とその衰弱は、「私」というものが純然たる誘惑を受け、その結果英雄的な形態を取るに至ったことの結末である。こうして、それは「死にゆく神」という引き裂くような転倒に接近する〉
人間は、死を意識することによって、死んでゆく自分を意識する。おそらくこれが自己を意識する最も重要な方法である。
人間は、死にいっそう近づくことで、自分をいっそう完全に意識することに接近する。だがこの度合いがさらに進むと、この意識は人間の自己としての存在を意識することを超えてしまう。これが「完全な超越性」と言われているものだ。そして、このような超越性は、人間の存在の限界を超えるものであるゆえに、死につつあるという属性を持つことを条件として、神性を帯びる。これが、「私」は「死にゆく私」となることで「死にゆく神」となるという「引き裂くような転倒」の意味であろう。
生が完成して強権的となり、同時に衰弱するdefaillance
自己意識がその極限で完結しながら、同時に崩壊する出来事
清浄でも不浄でもある「至高のもの」が倒錯と固着によってイデアリスト的な支配力を持つようになり得る
だが、それはすぐさま衰弱に向かうと述べられていることは、この固着を逃れるということだ。そしてこのように逃れ得るのは、この「至高のもの」が「死んでゆく」ことによってである。すなわち、出現した「神」は、本当の神であるためには「死んでゆく神」でなければならないということだ。こうして、アズテカの神々は、自ら死に、かつ同時に常に死を要求する神であったし、ニーチェが神の死を宣告するのは、自分自身が神となり、ついで神として死ぬためであった
しかしながら、「死にゆく神」は、本当は、神話にすらならずに死んでゆくのがもっと望ましいのだ。
しかしながら、「死にゆく神」は、本当は、神話にすらならずに死んでゆくのがもっと望ましいのだ。バタイユは、神を、ユベール/モースの言う〈神秘的で、想像上の、そして理想的な〉存在から引きずり降ろす。「死にゆく神」は、荘厳な神ではない。それは惨めに虐殺されてゆく神である。
〈恍惚としたヴィジョンの流れのうちで、盲目的に生きられた十字架上の死とラマ・サバクタニの限界において露呈してくるのは、ついに物体objet、光と影のカオスのなかで、けっして神としてでも虚無としてでもなく、破局として現れる物体である〉
残酷と汚辱のなかで、神でも虚無でもなく破局となって最後に現れるのは、ただ物体である世界だ。この物体objetという表現は、「低次唯物論とグノーシス」から異質学の探求のうちに彼の関心を惹きつけた「物質(matiereあるいはmateriel)」という言葉と通底しているだろう。このような世界をもたらす「神の死」を、バタイユは直截には、〈犬のように死ぬ〉t.1-p.93ことでなければならない、と言っている。犬のように死ぬとは、日本語の直訳でもそのニュアンスは伝わるだろうが、フランス語で惨めに死ぬことを意味する。このテキストが献呈されたマソンの作品には、〈犬のように死ぬ〉神が描かれている。画集「供犠」には十二の作品が収められているが、その一
上品と言うのは一本筋が通っている、姿勢のよさのことである
こわいものはさいごまでしらなきゃもっとこわい?
「内的体験」
〈ただ死という限界において、この「私」の本性そのもの――途方もなく自由で「そこにあるもの」を超越して行くところの
暴力的に露わになる〉t.1-p.91。明らかにされるこの「私」は、抽象的でも、個体的でも、中性的でもない。なぜならそれは「死にゆく私」だからである。そして〈「私」は、ただ「死にゆく私」というかたちにおいてのみ、「私」の特異性に、「私」の完全な超越性に接近する〉
〈けれども、「死にゆく私」がこのように明らかになるという出来事は、死が単に苦悩に対して示すされるたびごとに起こるのではない。このような出来事があるということは、存在は、それが死の非現実的な時間の中へ投げ込まれる瞬間に、強権的な完成を遂げ、至高のものとなることを想定させる。それは、生が強権的imperatifとなることが要請されること、同時にそのような生が衰弱することdefaillanceを想定させる。この生とその衰弱は、「私」というものが純然たる誘惑を受け、その結果英雄的な形態を取るに至ったことの結末である。こうして、それは「死にゆく神」という引き裂くような転倒に接近する〉
人間は、死を意識することによって、死んでゆく自分を意識する。おそらくこれが自己を意識する最も重要な方法である。
人間は、死にいっそう近づくことで、自分をいっそう完全に意識することに接近する。だがこの度合いがさらに進むと、この意識は人間の自己としての存在を意識することを超えてしまう。これが「完全な超越性」と言われているものだ。そして、このような超越性は、人間の存在の限界を超えるものであるゆえに、死につつあるという属性を持つことを条件として、神性を帯びる。これが、「私」は「死にゆく私」となることで「死にゆく神」となるという「引き裂くような転倒」の意味であろう。
生が完成して強権的となり、同時に衰弱するdefaillance
自己意識がその極限で完結しながら、同時に崩壊する出来事
清浄でも不浄でもある「至高のもの」が倒錯と固着によってイデアリスト的な支配力を持つようになり得る
だが、それはすぐさま衰弱に向かうと述べられていることは、この固着を逃れるということだ。そしてこのように逃れ得るのは、この「至高のもの」が「死んでゆく」ことによってである。すなわち、出現した「神」は、本当の神であるためには「死んでゆく神」でなければならないということだ。こうして、アズテカの神々は、自ら死に、かつ同時に常に死を要求する神であったし、ニーチェが神の死を宣告するのは、自分自身が神となり、ついで神として死ぬためであった
しかしながら、「死にゆく神」は、本当は、神話にすらならずに死んでゆくのがもっと望ましいのだ。
しかしながら、「死にゆく神」は、本当は、神話にすらならずに死んでゆくのがもっと望ましいのだ。バタイユは、神を、ユベール/モースの言う〈神秘的で、想像上の、そして理想的な〉存在から引きずり降ろす。「死にゆく神」は、荘厳な神ではない。それは惨めに虐殺されてゆく神である。
〈恍惚としたヴィジョンの流れのうちで、盲目的に生きられた十字架上の死とラマ・サバクタニの限界において露呈してくるのは、ついに物体objet、光と影のカオスのなかで、けっして神としてでも虚無としてでもなく、破局として現れる物体である〉
残酷と汚辱のなかで、神でも虚無でもなく破局となって最後に現れるのは、ただ物体である世界だ。この物体objetという表現は、「低次唯物論とグノーシス」から異質学の探求のうちに彼の関心を惹きつけた「物質(matiereあるいはmateriel)」という言葉と通底しているだろう。このような世界をもたらす「神の死」を、バタイユは直截には、〈犬のように死ぬ〉t.1-p.93ことでなければならない、と言っている。犬のように死ぬとは、日本語の直訳でもそのニュアンスは伝わるだろうが、フランス語で惨めに死ぬことを意味する。このテキストが献呈されたマソンの作品には、〈犬のように死ぬ〉神が描かれている。画集「供犠」には十二の作品が収められているが、その一
上品と言うのは一本筋が通っている、姿勢のよさのことである
こわいものはさいごまでしらなきゃもっとこわい?
「内的体験」