き気(Ekel)[嘔吐感、激しい嫌悪感、不快感一般を指す]」とは、人間の感性的経験のなかで、強い拒否反応をもたらす感覚である。カントは『人間学』でこれを「強烈な生命感情」と
吐き気は、感性にとって、一方における〈健全に咀嚼しうるもの、体内化可能なもの〉と、他方における〈受けつけないもの、唾棄すべき(abject)もの〉とを峻別する限界の経験、感性における危機の経験
吐き気は、瞬間的な否認の経験、もはや否と判断し言明することすらもできないようなラディカルな感性的拒絶の経験なのである
「形なきもの(不定形なもの)」が、つねにそうした吐き気に通じる嫌悪や蔑視の対象となってきた
既存の確立された秩序(美しいものの形式)に対して、カオス的に爆発するような契機(形を欠いた穢れたもの、忌まわしいもの、おぞましいもの、醜悪なもの)を対置・顕揚することで、聖と俗の弁証法(汚辱にまみれればまみれるほど、神的な聖性へと反転できる
抑圧と侵犯の二元論(形式や法を犯す熱狂的瞬間に自由と解放の希望を語る
疎外論的な思考パターン
古典主義的な美学が、良き趣味としての均整と秩序を保った形式を美の範型とするのに対し、崇高の美学は、いまだ趣味に適うものとしては確立されてはいない(それどころか悪趣味でさえある)不定形で未分化な「無形式なもの」に美を超えた表象の様態を見出すだろう。カントの『判断力批判』によれば、崇高なものは、感性的な直観によって直接には把捉できないみずからの呈示不可能性によってこそ、むしろ超感性的な理念(所与の形式を超えた無限や絶対者)が消極的に呈示可能となるよう構想力=想像力を促すことができる。20世紀の崇高の美学は、この意味で、悟性や感性の形式のいかなる既存の法則や秩序によっても規定されたことのない「表象不可能なもの」を表象しようとする点に、アヴァンギャルド芸術の命法を見出した(リオタール)。それはまさに、未曾有の出来事の到来に直面せんとする思考の命法である。
崇高の美学は、一方で、「無形式なもの」や「表象不可能なもの」に固執することで、すでに述べたような疎外論に即してカオスの物象化へと容易に転化してしまう。他方で、そのような危険を回避しようとするあまり、偶像禁止の命令のごとく「表象不可能なもの」そのものをテロスとしてしまうような否定神学の罠がある
吐き気は、感性にとって、一方における〈健全に咀嚼しうるもの、体内化可能なもの〉と、他方における〈受けつけないもの、唾棄すべき(abject)もの〉とを峻別する限界の経験、感性における危機の経験
吐き気は、瞬間的な否認の経験、もはや否と判断し言明することすらもできないようなラディカルな感性的拒絶の経験なのである
「形なきもの(不定形なもの)」が、つねにそうした吐き気に通じる嫌悪や蔑視の対象となってきた
既存の確立された秩序(美しいものの形式)に対して、カオス的に爆発するような契機(形を欠いた穢れたもの、忌まわしいもの、おぞましいもの、醜悪なもの)を対置・顕揚することで、聖と俗の弁証法(汚辱にまみれればまみれるほど、神的な聖性へと反転できる
抑圧と侵犯の二元論(形式や法を犯す熱狂的瞬間に自由と解放の希望を語る
疎外論的な思考パターン
古典主義的な美学が、良き趣味としての均整と秩序を保った形式を美の範型とするのに対し、崇高の美学は、いまだ趣味に適うものとしては確立されてはいない(それどころか悪趣味でさえある)不定形で未分化な「無形式なもの」に美を超えた表象の様態を見出すだろう。カントの『判断力批判』によれば、崇高なものは、感性的な直観によって直接には把捉できないみずからの呈示不可能性によってこそ、むしろ超感性的な理念(所与の形式を超えた無限や絶対者)が消極的に呈示可能となるよう構想力=想像力を促すことができる。20世紀の崇高の美学は、この意味で、悟性や感性の形式のいかなる既存の法則や秩序によっても規定されたことのない「表象不可能なもの」を表象しようとする点に、アヴァンギャルド芸術の命法を見出した(リオタール)。それはまさに、未曾有の出来事の到来に直面せんとする思考の命法である。
崇高の美学は、一方で、「無形式なもの」や「表象不可能なもの」に固執することで、すでに述べたような疎外論に即してカオスの物象化へと容易に転化してしまう。他方で、そのような危険を回避しようとするあまり、偶像禁止の命令のごとく「表象不可能なもの」そのものをテロスとしてしまうような否定神学の罠がある