ローマ人への手紙8章、神様とわれわれの願い | 楚と鶴

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「楚」とは北斜面(日が当たらない場所)で咲く棘のある花のことです。
文鮮明先生のすばらしいみ言葉を掲載していきます。

 日本人の宗教的基盤やキリスト教の基盤がないことをお父様は嘆かれていました。「日本人には話が通じない。」と言われていることも頻繁にあります。せめて引用されている部分だけでも「理解したい」という想いで記事にさせていただきます。

堕落論、「人間堕落の結果」で引用されている聖書「ローマ人への手紙8章」

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1)こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。

:2)なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は罪と死との法則からあなたを解放したからである。

:3)律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。

:4)これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

:5)なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。

:6)肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

:7)なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

:8)また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

:9)しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

:10)もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。

:11)もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

:12)それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。

:13)なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからであるしかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

:14)すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

:15)あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

:16)御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

:17)もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

:18)わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

:19)被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。

:20)なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、

:21)かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

:22)実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。  

:23)それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

:24)わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

:25)もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

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学説的に「紀元58年にパウロが書いたもの」、となっています。

堕落論「人間堕落の結果」

人間始祖の堕落によって、その子孫が、一人残らず、神の血統を受け継ぐことができず、サタンの血統を受け継いでしまったからである。

 アダムとエバが完成し、神を中心とする四位基台をつくったならば、そのとき、神の主権の世界は成就されるはずであった。しかし、彼らが未完成期において堕落し、サタンを中心とする四位基台をつくったので、この世界はサタン主権の世界となってしまったのである

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編集後記

 恥ずかしい話ですが、「聖書に「体の思い」のことを記した部分がある。」ということを初めて知りました。キリスト教って「愛の宗教」というイメージがあり、戒律的なことは無いと思っておりました。僕は幼少のときは創価学会だったので、聖書は全く見たこともありませんでした。

しかし、この体とまだまだ、霊界に行くまで付き合わねばなりません。先祖から受け継いだ、おぞましい遺伝子のプログラムを「心も体」も善なる方向へ導かねばなりません。

深く知り、実践するところに「勝利の鍵」が存在します。

25節に「忍耐」ってありました。元気が出ました。


※われわれは「世界基督教統一神霊協会」です。この名前の意味は「キリスト教を統一する」という意味の教会です。

「そんな名前のところに行ってるの?」と笑われる人があまりに多くありませんか?「聖句の一つぐらい教えてよ。」って皮肉言われるようなひとがあまりに多くいませんか?お父様は大きな願いを私たちに託されて霊界へいかれました。

今こそ、レベルアップを考えていただきたい。

カムサハムニダ、アージュ


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