原理講論で堕落論がありますが、普段「堕落に関してのみ言葉」をたくさん語ってくださっている内容をまとめてみました。
まだ、へたなまとめ方ですが読んでください。
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堕落論まとめ
1.「.生殖器」は、神様と人間の最も貴い愛の至聖所
アダムとエバがどこで出会うのかといえば、垂直線に行って出会うのです。出会うには愛を中心として一つになるのです。愛をどこに合わせますか。中心、中心に合わせるのです。それが何かといえば、男性と女性の生殖器です。そこに合わせるのです。男性と女性の生殖器はそのように貴いものです。ですから男性と女性は一生の間、それに侍って生きなければなりません、神様のように。それが「至聖所」だというのです。
2.神様の創造の「お手伝い」のために参謀「天使」が存在していた。
宇宙の根本は脱線があり得ないのです。しかしこの悪魔が、大きくなる前、未成年の十五、十六歳と見て、十代の時に……ちょうどその時です。その時に、エバが天使長ルーシェルをじっと見ると、天地の理致(道理)をみな知っているのです。神様のお使いをして天地創造に対しても話すことができるのです。
3.天使は何をしたのか?
僕である天使長が神様の娘、「未来には神様の王妃になることができ、神様の外的な体になることができるエバ」を強姦してしまったのです。血筋をひっくり返したのです。
※イザヤ書14章12節)黎明の子、明けの明星よ(=ルシュファーと言われる天使)、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
4.「血筋をひっくり返したのです。」 とあるがそれが何で悪いのか?
人類始祖の堕落の起源になった善悪の実とは何か分かりますか。男性と女性の生殖器です。それを正しく使えば国が栄え、間違って使えば国が滅びるのです。それが善悪の実です。
王様でも正しく使うときには国が栄えますが、間違って使えば国が滅びます。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、すべてのものが地獄と天国に分かれます。
善の実が結ばれるべきところに悪の実が結ばれたのです。それが善悪の実ではありませんか。善悪の実はみなもっていますか。もっていませんか。男性の生殖器、女性の生殖器が善悪の実です。
毒蛇の頭です。イエス様がなぜサタンをまむしだと言ったのですか。サタンをなぜ蛇だと言ったのですか。それが蛇の頭です。それを知らなければなりません。毒蛇の頭です。女性も男性もみなそれをねらっているでしょう。女性も男性も、みなそうではありませんか。
[天聖教、罪と蕩減復帰、善悪の実は命と死亡の分かれ道]
5.サタンは何を主張したのか?
サタンは何を主張するのでしょうか。「あなたは神様ですが、私は悪魔になりました。それを認めます。私は悪魔です。それではあなたの原理を見れば、天使長を造ってアダムとエバを造るとき、天使長であるルーシェルという存在を永遠の愛の標準のもとで造りましたか?ちょっと一時的な愛の標準として造りましたか?」と質問するのです。
そのとき、神様はどのように答えなければならないでしょうか。「臨時に愛する標準のもとでお前を造った」と言うでしょうか。言うまでもなく「永遠を中心として造った」と言うのです。
そうするとサタンが「私は変わったとしても、あなたは変わることができないのではないですか?」と言えば、神様が「そうだ」と言うのです。「私が変わって破壊的行動をしたとしても、あなたは破壊されてはいけないのではないですか」と言えば、「そうだ」と言うのです。たった一つ、これをつかんでいるというのです。
6.男にぶら下がっているものは「毒蛇の頭」、女のものは「毒薬の壷」と思え
その堕落について知ったときからです。これは、すべきでないことをすると言いながらするのはいけないのです。ですから、徹底して教えるべきです。堕落論を聴けば、あなた、君は、このような・・・。さっき言ったように、男にぶら下がっているものは「毒蛇の頭」であり、女のものは「毒薬の壷」だというそういう思想をぶち込めというのです。
皆さん、それを思うとき、気分がいいですか? それは言葉だけでなく、事実がそうなのです。それよりもっと恐ろしいのです。
一度誤ったら自分の子供まで全部滅びるのです、全部。世の中でも、病気のようなものにかかれば皆滅びるではないですか。そうではないですか? それをはっきりとぶち込むべきです。
それゆえ、皆さんから行ってこれを中心として実践しなければならないのです。それで今から、この伝統をもって全国的にきれいに洗わなければならないのです。きれいに。それから、
( 「堕落論を聞いていつから堕落したらいけませんか?」という姉妹の質問に答えられた答え。)
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編集後記
私たちの2世の女の子は「未来には神様の王妃になることができ、神様の外的な体になることができるエバ」です。上記の内容をしっかり教育していただきたい。
私たちの血の中に「堕落した血」が入っている、と思わない限り「メシヤ」や「救世主」は必要ないのです。
というみ言葉があります。
これを逆に言えば、「メシヤ」や「救世主」は、「自分は堕落している。」と自覚できてない人にどんなに訴えても全く無視されるのです。
「心に愛がなければ何も響かない。」と聖書にあります。
「自覚すること」と「愛」は、愛の方が先、ということなので、「知的にわかりやすく発表する。」という愛の力による行動が必要なのです。
なので、納得いかないまとめ方のまま記事にさせていただきました。カムサハムニダ、アージュ
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