「あ、六階にきてしまった!」
ボクは、エレベーターから急いで降り、第一内科と書かれたミドリのプレートを上目使いで見なが ら真っ直ぐの廊下を歩いた。この病棟は咳も禁止されているようだ。
清潔感のある看護室では、赤い頬の看護師が活発に動いている。体が丈夫なことが病人を看護する大切なことなんだ。
廊下中央のステンレス製配膳車に、昼ご飯をぺろりと食べたお膳にまじって、全然食べないお膳もある。きっと体調が悪いのだろう。
ステンレス面に映った、ほっぺたにできた二個のニキビを指先でぎゅっとつぶし、黄色のウミとわずかな血をグレーのTシャツにぬぐった。
廊下の奥には、個室が左右に二つずつ並んでいる。
突然、その中の一部屋から「おとうさ~ん おとうさ~ん!」と女の人の叫び。続けて前より一段と強い叫びが廊下にひびいた。
と、医者と看護師数人が強い靴音をさせ駆けてきた。ボクは思わず固まってしまった。きっとこの中に重体の人がいるんだ。
怖くて、廊下の突き当たりをどっちに曲がろうか迷っている時、
「坊や、どうかしましたか。入院しているんですか?」
びっくり、でもよかった。あの異様なふんいきから逃れ、何かボクの味方になってくれそうだ。
女の人は、濃いグレーの品のよいワンピースを着て、手にはごま塩模様のは虫類のバッグと、片方の手に黄色い花束をさげている。
「いえ、友だちの見舞いで五階に行くよ」と言った。
「あー、そうですか小児科ですね。よろしければ入りませんか?」
と言われても、どうしようかともじもじした。
ボクより少し背が高く、ふくよかで年令は四十代半ばのようだ。
「初めてお会いしたんですものね。でも遠慮はしなくても結構ですよ。どうぞどうぞ」
と角の方へ二、三歩歩いた。
個室の叫びから逃れたいボクは、言われるままについて行った。右に曲がって少し進むと、りっぱな濃い茶色のドアがあり、ここが病室とは思えなかった。女の人はドアを押し軽やかな声でベッドに、
「貴男、めずらしいお客さん、あー、いけません。初めての方ですね。坊や、どうぞこちらに」ボクはスニーカーを少しきゅっきゅっとさせ、ベッドの横に立ってお辞儀をした。
男は、うつむいて殆ど白に近いグレーのパジャマ姿で、ベッドにあぐらでどっぷり座っていた。
ひげ剃りあとが青く、太い眉でぼってりし、まるでぬいぐるみのホッキョクグマに見えた。
女の人は、「坊や、お名前を知らせてくれますか?」
ボクは勢いよく、「綾田(あやた)第一小学校五年新海啓太(しんかいけいた)ッ」と。
「五年生の新海啓太さんっていうのね。私は南野久美(みなみのくみ)っていいます」
にこにこしながら、小鳥がさえずるみたいに話した。
女の人が男に「貴男、お名前は」、一瞬どきっとした。まるで子どもに話しかけるように、軽く肩に手をやった。
男は「…み…や…」
「貴男それではわかりませんよ。私が言いますね、八潮(やしお)っていうんですよ」
男は無表情だ。これだと耳元で叫んでも何も聞こえないだろう。
「はい、こちらにどうぞ」とすすめられ、この病室には不釣り合いなパイプ椅子に座った。
「坊や、ここにはあまりありませんが、何を召し上がりますか」
「ボクは、好き嫌いはありません」と、きっぱりと。
「そうですか、ではこれがいいですね」、と言いながら冷蔵庫の方から、楕円の真っ赤なお盆に乗っ たジュースと木製の小皿に鯉のぼりみたいに並んだクッキーが出された。ストローを使わないボクは、きれいなコップに口を付け一口飲んだ。
「うまい!」、オレンジジュースだ。二口目からは一気に飲んだ。
こんなに美味しいジュースを飲んだのは初めてだ。ジュースの美味しさが体の隅々に行きわたり、ボクは幸せな気持ちになった。
「お口に合ってよかった、主人も私も好物なんですよ」
食べ物も話したかたも上品で、猫目が二、三度まばたいた。
花びんの花を、五本のミニヒマワリに取り替えている。あの赤やだいだい色の花をどうするんだろう。捨てるのかな。勿体ないというより、小さな残酷を見た。
お知らせ。
これは短編小説の冒頭部分です。
長さは400字原稿用紙、約23枚の掌編になっております。
よろしくお願いいたします。
尚、「紙の本と電子書籍」のページでも、他の本と一緒にお知らせしております。
上記の記事と併せて読んでいただければ、大変ありがたいです。よろしくお願いいたします。
https://ameblo.jp/good-image-story/entry-12134153414.html
朱色の橋No1を下記アドレスにて、公開しております。こちらと追わせて読んでいただければ幸いです。
↓
https://ameblo.jp/good-image-story/entry-12347090034.html
尚、「的外れとど真ん中」は、他の三作と掌編集として、電子書籍出版します。それまでの間お読みくださればありがたいです。
拙著です。
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