#エゴン・シーレ展 #東京都美術館 4月9日まで | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

花粉飛散のシーズンを迎え、症状悲惨にならぬ前に、と出かける。

ウイーンのオーストリアギャラリーでシーレやクリムトを鑑賞したのは

1999年9月だから、概ね四半世紀前、しかも当時はレオポルド美術館は

存在しなかった、ということもあって都美へ。

 

展示はシーレのみならず、ウイーン分離派の画家達、クリムトやココシュカなど

の絵も展示されているので、何となく世紀末ウイーンの新進気鋭の画家達の

意気や興奮が伝わってくる。

 

さて例によって今回も3点取り上げる。

「頭を下げてひざまずく女」と題するシーレ1915年の作品。

 

ご存じのように、1890年ウイーン郊外の鉄道官舎で生まれたシーレは

画才を励まされ、援助も受けた師クリムトを失ったのは1918年2月。

その年の秋10月、妊娠中の妻エディットがスペイン風邪にかかり

シーレの徹夜の看病も実らず亡くなって、自分も感染し三日後に亡くなった。

前年にはアムスやコペンハーゲンの展覧会に自作を出品し、これから、という時の

28才の余りにも悲劇的な死であった。

 

シーレの作品は、自己の有り様をむき出しに提示した自画像と、性器特に女性の

性器に対する執着が生々しい裸体画で印象が深い。

上の作品は長年のモデル ヴァリーと別れて、エディット・ハルムスと結婚した頃の

作品であろうか、相変わらずのエロティックな中にも少しやわらかさが出てきたかな、

と思う。

エディットはシーレのアトリエの向かいに住む、フランス語も英語も堪能な

ブルジョワ娘であった。

しかしシーレは1915年6月の結婚式の4日後に徴兵されプラハに赴く。

幸い上官が芸術に理解があり、プラハで短期の訓練を受けた後、ウイーン近郊

での監視業務や事務の仕事をする職務を与えられた。

シーレの人生の中で始めて安逸な生活が訪れ、そのせいかこの時期作品も少ない。

 

次の絵は妻エディットである。

 

下から画家を見上げる視線はまっすぐでゆったりとした着衣のせいか、

若妻の雰囲気が漂う。やわらかさは上腕から手に至る円い形、

少し頭を右に傾げたポーズから来るものなのかも知れない。

しかし特筆すべきはわずか8年前後でかくも女性像が変化したことだろう。

 

今回の展示会の興味は、若くして夭折したシーレが、もしその後も絵を描いていたなら

どんな方向性だろうか、と言う 解が難解な点にもあった。

それ故に彼にとっては晩期の絵を2点取り上げたが、二つの絵から推察するに、

やわらかな線に象られた絵が自然な方向性であるように思える。

そして画題は人間の実存的不安を抽象的に追求したものになるだろうか。

ムンク 生命のダンス

 

あるいは生の喜びに満ちあふれた絵を描くのかも知れない。

そしてムンクのように日々の糧のために依頼されて

肖像画をたくさん残したかも知れない。

 

最後はオスカー・ココシュカの「裸体の少女」である。

この絵はシーレの風景画の展示室の次にあり、ざっと全体を見渡したとき、

最初に目を引いた絵である。

1886年生まれのココシュカはウイーンで育ち、クリムトと同じ工芸学校で学んだ。

シーレの4才年上の彼は詩人であり劇作家でありその内容はシーレに劣らぬ

スキャンダラスなもので、彼には「シーレは自分のマネ」と考えて居た節もある。

 

この絵は彼の展示室に入って真っ先に目をひかれた。

正面から、というより少女の視線の先、左側30度前後のやや遠くから見ると、

少女の目が光る。

その光を、適当な例を引くことが出来ないので、おなじココシュカのネコの絵を貼る。

人間の目はネコのようには夜目が利かないが、その動くものを捕らえる点において

人間とネコは同じ能力があるそうだ。

(参考)

(5両眼眼球運動の項)

 

19世紀末の絵画は印象派から表現主義へと変化していった。

それはざっくり言えば絵画のパトロンであった「教会と王家」の衰退と軌を一にしている。

それを決定的にしたのは、第一次世界大戦(1914-1918)である。

英仏を中心とした協商国とドイツやオーストリア・ハンガリー帝国を中心とした同盟国が

ヨーロッパ全土を戦場に戦った。

その結果として勝利か敗北かに関わらず、多くの「王家」が消滅した。

協商国ではロシア帝国(ロマノフ王朝)イタリア王国、同盟国ではキリスト教の

守護ハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国

などであり、

その崩壊が1917年のロシア社会主義革命、ドイツやイタリアのファシズム

を生んだ。

動員された兵力は双方合わせて7千万人。戦死者は戦闘員が900万人、非戦闘員が

7百万人という規模はヨーロッパの国民全部を巻き込んだ最初の戦争であった。

そして絵画のパトロンが、新興のブルジョワジーに移るとともに、彼らの嗜好、

需要に応じて「個性」が尊ばれることになり、それは必然的に多様性を意味した。

表現主義の背景にはそうした「うねり」があったし、スキャンダラスなものは

「個性化」「多様化」のなかで許容されるものとなったのである。

 

個の実存、その不安、欲望、衝動、解放、発散はその表現を求めて開散する。

印象主義と表現主義の違いは英訳するとわかりやすい。

印象(主義)は Impression , 表現(主義)は Expression.

印象は対象の刻印であり、表現は内なる自己の発露である。

そのうねりは大きく言えば現在も続いている。

コンセプチャルアートもそのひとつと捉えることができる。