#トリュフォー監督 #アメリカの夜  #1973年ニューヨークフィルムフェスティバル | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

「アメリカの夜」というタイトルは、昼間カメラのレンズにフィルターをつけて

夜のシーンに変換する、多分フランス映画界の独自用語。

英題では「Day for Night」。邦題には「映画に愛をこめて」と副題が付いている。

 

この映画は端的に言えば自らシネフィル(映画狂)であったトリュフォーが

われわれ映画愛好者に向けて、ロケ現場の様々な出来事、なかには愛とセックスも

あり、映画監督を始め猫の演技?に苦労する小道具の役なども登場し、映画製作の

徒然を見せてくれる。Day for Nightもそうだが、映画を撮る時のいろいろなトリック

まで披瀝し、極めつけはトリュフォー自身が「フェラン監督」として出演する.

まことにサービス精神に溢れた映画だ。

 

そのせいか、1973年のAFFではテリーの「Badland」やスコセッシの

「Mean Street」より映画ファンの喝采を浴びたらしい。

 

よってあらすじがどうだの、あのシーンの意味はこうだの、、

などといった詮索は抜きにして、

先ずは楽しめ!

というのがトリュフォーのメッセージだと思う。

 

トリックの手始めは、

向かいの建物の男女と、同じ高さの階の部屋から会話しているシーン。

実はこちらの側は、仮枠に設けられたフレーム外は何もない部屋。

女優は時々こちらを見て部屋内の男性と対話している「フリ」をしているのだ。

他にも外は雨、の部屋の中のシーンを雨と見せかける方法もある。

 

余談だが、「映画製作」とは「先行投資」である。

封切り前に出演料や機材やスタッフの人件費などのかかった全費用、投資額を、

興行権の売却などで回収するために、デモンストレーションをして

なるべく高く買ってもらう。

もちろんその中には外国の映画配給会社も含まれる。

だから各国の映画祭カンヌもNYFFも勿論、「投資回収の場・プロモーションの場」なのである。

勿論「投資額」は少ない方が回収しやすく、当ったときの儲けも大きい。

この映画でトリュフォーは別の映画のセットをそのまま借りて撮影し、省投資に努めている。

またトリュフォーは日本を含む海外の批評家達にインタビューには快く応じ、

あれこれと便宜を提供し、丁寧に接している。(トリュフォー最後のインタビューは好例)

それもまた、自分の映画の評判を高めるための涙ぐましい努力なのだ。

ついでだが、マリックの「Badland」は30万ドル、スコセッシの

「MeanStreet」は50万ドルと安上がりで制作している。

 

次は監督が、主演女優に演技をつけているところ。

監督は女優の「親密距離」つまり男女であれば、恋人や愛人など肌を合わせた者同士で

あってはじめて抵抗ない距離にずけずけと入り込み、身体の一部を触れ合っている。

この関係性がしばしば監督と女優の実際の親密感をもたらし、一時的であれ

愛人関係であれ結婚であれ実際の親密な関係をもたらす。

トリュフォーもジャンヌ・モローやカトリーヌ・ドヌーブと秘密の関係を

もった、と言われるし、ベルイマンは監督として女優との演技での接触が

その後の関係に発展したことを自伝で告白している。

 

余談だが、トリュフォーは主演女優のジャクリーヌ・ビセットに興行収入の

20%提供という気前のよい契約をし、ビセットと共にアメリカ国内をセールス・

プロモーションで一緒に旅行し、カリフォルニアではビヴァリーヒルズホテルと

ビセットの邸宅に交互に泊まっている。

不実、といえばその通りだが、それはドンファンの所業というより

「誘惑したい、愛されたいという欲求がはるかに強い。行きずりの相手、仕事仲間、

外国の記者、あるいはプロの女性達、、そして何よりもまず、自分の映画の主演女優

みんなだった。まず映画を愛し、監督として、自分の作品に起用した美しい女優達を

愛することで彼の人生は楽になった。それは何よりも子供時代を永続させる方法だったのだ。

女性は母親であり、お人形さんであり、婚約者であり、、」なのだ。

(フランソワ・トリュフォー)原書房416p他

母親の胸元が恋しいときに引き離され、多分乳幼児の時代の不安と恐怖を、その絶望感を

埋め合わせて行く切ない気持ちの表れなのだ。

 

もう一つ映画ファンのために付け加えなければならないのは、この映画を機に、

ゴダールと修復不能なケンカをしたこと。

これについては、以下のブログで述べたからここでは繰り返さない。

 

ところで、この映画はドキュメンタリー風なところが随所にある。

冒頭のトリックを公開している点もそうだし、ビセットに演技を付けるシーンも

そうだ。トリュフォー映画のスタッフ達が役名はともかく自分のいつもの職務で出演している。

トリュフォーも「フェラン監督」となってその部分は(虚)だが、監督としての

振る舞いは(実)である。トリュフォーは準備に実に細かいところまで気配りし、

きめ細かに演技指導し、スタッフ同士の人間関係をよくする事に腐心する。

それは実際トリュフォーはそのような監督だ、と観るものに伝える。

あるいはこう言ってもよい。

「ある若者が父親に婚約者を紹介したところ、父親がその女性と恋に落ち

一緒に出奔してしまう」という映画の中の唯一の筋について

それぞれの役者が演技(虚)する部分以外は、(実)なのだ、と。

 

この一風変わった虚実皮膜もまた、この映画の魅力と言ってよいだろう。

だから、ゴダールはトリュフォー(フェラン監督)が精神不安定なレオ(アルフォンス)

に助言する、その内容を(実)だとみなし、それに激怒したのだ。

つまり ゴダールもまたその虚実皮膜のワナにまんまと嵌ったのだ。

そこがなんとも愉快だ。