#ゴダール監督作品 #女と男のいる舗道  #あなたの人生を生きる #赤線地帯 #ブリス・バラン | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は Vivre sa vie ググると「あなたの人生を生きる」と出る。

邦題の「女と男のいる舗道」は街娼の含意の匂いがする。

映題は缶詰のラベルのようなものである。果たして適切だろうか?

 

以下に概要とストーリーをWikiから抜粋する。

概要

ゴダールの長篇劇映画第4作である。『女は女である』(1961年)についでアンナ・カリーナが出演したゴダール作品の第3作、カリーナとの結婚後第2作である。マルセル・サコット判事が上梓した『売春婦のいる場所』(1959年)の記述をヒントに、ゴダールがオリジナル脚本を執筆した。エドガー・アラン・ポーの短篇小説『楕円形の肖像』(1842年)も織り込まれている。

 

カリーナの役ナナの髪型は、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の『パンドラの箱』(1929年)に登場するルイーズ・ブルックスを模したショートボブであり、本作の暴力的なアンチハッピーエンディングも、同作の影響下にある。ジャン・ドゥーシェは、溝口健二監督の遺作『赤線地帯』(1955年)の影響なしには本作は存在しないと指摘する。

有名なのは、ナナが場末の映画館で、カール・テオドール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』(1928年)を観て涙を落とすショット。

1962年、イタリアヴェネツィアで行なわれたヴェネツィア国際映画祭で、本作は金獅子賞にノミネートされコンペティションで正式上映された。結果、ゴダールは、パジネッティ賞および審査員特別賞の2賞を同時に獲得した。

 

ストーリー

1960年代初頭のフランス、パリのとあるビストロ。ナナ・クランフランケンハイム(アンナ・カリーナ)は、別れた夫ポールと、近況の報告をしあい、別れる。ナナは、女優を夢見て夫と別れ、パリに出てきたが、夢も希望もないまま、レコード屋の店員をつづけている。

ある日、舗道で男に誘われるままに抱かれ、その代償を得た。ナナは昔からの友人のイヴェットと会う。イヴェットは売春の仲介をしてピンハネして生きている。ナナにはいつしか、娼婦となり、知り合った男のラウールというヒモがついていた。

バーでナナがダンスをしているとき、視界に入ってきたひとりの若い男にナナの心は動き、若い男を愛しはじめる。そのころラウールは、ナナを売春業者に売り渡していた。

ナナが業者に引き渡されるとき、業者がラウールに渡した金が不足していた。ラウールはナナを連れて帰ろうとするが、相手は拳銃を放つ。銃弾はナナに直撃した。

ラウールは逃走、撃ったギャングも逃走する。ナナは舗道に倒れ、絶命した。

 

田舎から出てきた若い女にとって、都会で生活するためには家賃や食費に加えそれなりの服装を整えなければ面接にも行かれない。

ましてやパリは世界的にも物価が高い。

多少の貯えを持っていてもそれが底をつけば、知人から借財となる。返済に行き詰まれば衣服や装飾品を質にいれるが、質草がなくなればどうするか。

生きて行くためには体を売る、という選択肢に否応なく直面する。

こうしてナナは殆ど成り行きで街娼になりヒモがつき、そのヒモに売られる羽目になる。

 

「あなたの人生を生きる」と言っても主体的に選び取った人生では無く、目の前にぶらさがった人生を成り行きのままに生きるのだ。

 

観るものを引っかけるフックが二つある。

ナナがカール・ドライヤーの名作「裁かるるジャンヌ」でジャンヌ・ダーク(ルネ・ファルコネッティ)が涙するシーンで自分も涙する場面とカフェで隣のボックスに座って本を読んでいる男にコーヒーをねだり、「どんな本を読んでいるの」とおごられたお返しに大して興味も無いのに聞くが、そこから始まる哲学者との対話の場面だ。

 

わたしも引っかけられた口だが、哲学対話の内容は、考えたために足が動かなくなって死んだ三銃士の話から始まって、話をすることに目的はいらない、人は話さずにはいられない、愛と同じように。

言葉は何も傷つけない、何も殺さない言葉を努力して見つけるべきだ。そのことをフランス哲学では理解されなかった。ドイツ哲学のカントやヘーゲルは(その努力を)誤りを通して真実に近づける。

愛は常に真実であるべきだ。純粋な愛を理解するためには、成熟が探究が必要だ。そして愛は真実であれば現実の矛盾も解決できる。

 

と概略以上のような話をするのだが、哲学者ブリス・パランに質問するアンナの台詞は脚本家ゴダールが書いたものであるが、パランの返事はどうだろうか。パラン(1897-1971)は兵役後リセを経て哲学教師の資格を取り、大学で教壇に立つ道もあったはずだが、哲学やロシア文学の出版社の編集者の道を選んだ人である。

20世紀の哲学は「ことば」が大きなテーマのひとつであり、ソシュール言語学だけで無く、ハイデッガーもウイトゲンシュタインも「ことば」に取り組んだ。パランの晩年の著作「ことばの小形而上学」を垣間見ると、ソシュールでは無く、フッサールからハイデッガーに至る道筋にいたことが伺える。

 

もう一つの「裁かるるジャンヌ」(1928)はカール・ドライヤーのサイレント映画の傑作とされるものだ。「自分は神に遣わされた者だ」と言って魔女裁判にかけられる。拷問の責め苦に身震いして一旦は自分のことばを取り消したジャンヌだが、そのことが一層悔悟され告発者の司教らを「私が悪魔に遣わされた、と仰いますが真実ではありません。あなたがたこそ悪魔に遣わされているのです、私を苦しめるために」と逆に告発する。身体の苦しみ、死の恐怖に打ち勝って、神に対する誠実に生きることで自分の魂を救出するのだ。

ジャンヌを下から撮ってあたかも神々しさとキリストの磔刑(殉教)を暗示し、身体、頭を覆う黒衣が燃える火刑のシーンで終わる。

ナナの涙はなんの涙か?

ジャンヌへの共感? ミラーニューロンのせい?

ジャンヌとナナに共通する何かがあるだろうか?

 

この二つの挿話、ナナが映画を観て涙する場面と哲学者との対話。

映画と哲学の引用は特にストーリーの上で必然性のあるもの、つまりそれが無ければ物語に重要なピースが欠けてしまう、と言うものでは無い。そしてその文脈が欠けているゆえに全体が不透明、不可視になる。カイエ派のシネフィル(映画狂)にはドライヤーの映画とパランの哲学にはそれなりの文脈(背景)があったのかも知れないが、時代と国が違えばそれらはフランスでも日本でも失われている。パランが言及しているように2500年前のプラトンをわれわれは今の時代背景の中でなんとか理解出来る。が映画、というとても多義的で、そして文脈抜きの引用が好きなカイエ派の映画であってみれば、尚更に理解は難しい。

ゴダールは制作当時そこまで考えていたとは思えない。

ゴダールとアンナは1961年ゴダール31,アンナ21才の時に結婚している。二人は65年に離婚するのだが、真実の愛には成熟が必要だ、とパランに言わせたゴダールはナナではなくアンナに言いたかったのであろうか、という気もする。

そう推測するのは、監督と女優は公私分けがたいところがあるからだ。

 

最後になるが、この物語は「娼婦」の物語だろうか、という疑問が残る。ナナは娼婦になることに特別のハードルが無かったように見える。原題のように自分の人生をあるがままに受容しているのだから、無かったといってもいいだろう。最後の死は、成り行きで選んだ娼婦の必然では無いがひとつの帰結である。そう言う視点から邦題のラベルにちょっとした違和感をもつ。

娼婦は普通の女として映画も観ればカフェに立ち寄ってたまたま哲学者とおしゃべりすることもあるのだ、とゴダールはこの挿入を選んだのだろうか。理屈っぽいゴダールが、、、

 

手元にはゴダール全集第4巻(エッセイ集)があって、その中で彼は監督溝口健二を激賞している。それについてはまた別の機会に言及することがあるだろう。