1956年公開後、溝口は体調を崩し8月に死亡、結果的にこれが遺作となった。
ジャン=リュック・ゴダールはこの作品を見てパリの娼婦の物語「女と男のいる舗道」(1962年公開)を制作した、と言われる。
先ずはあらすじををWikiから借用する。
売春防止法案が国会で審議されている頃、吉原の「夢の里」では娼婦たちがそれぞれの事情を負って生きていた。より江(町田博子)は普通の主婦に憧れている。ハナエ(木暮実千代)は病気の夫と幼子を抱えて一家の家計を支えている。ゆめ子(三益愛子)は一人息子との同居を夢見ている。やすみ(若尾文子)は客を騙して金を貯め、仲間の娼婦に金貸しを行って更に貯金を増やしていた。不良娘のミッキー(京マチ子)も加わり「夢の里」は華やぐが、結婚したより江は夫婦生活が破綻する。ハナエの夫は将来を悲観して自殺未遂を起こす。ミッキーは自分を連れ戻しに来た父親を、女癖の悪さを責めて追い返す。ゆめ子は愛する息子に自分の仕事を否定されて発狂する。やすみは自分に貢ぐために横領した客に殺されかける。
ラジオが法案の流産を伝え、行き場のない彼女たちは今日も勤めに出る。しかしやすみだけは倒産して夜逃げした元客の貸布団屋を買い取って女主人に納まった。退勤したやすみに変わって、下働きのしず子(川上康子)が勤めに出る事になる。着物を換え、蠱惑的な化粧を施されるしず子。女たちがあからさまに男たちの袖を引く中、ためらいながら、しず子は男を誘いかける……。
娼婦は、言うまでも無く男の欲望の対象である。
身体各部、言葉、脂粉の匂い、仕草、衣装などへのあらゆるフェティシズムが様々な欲望をかきたて、苦界に身を落とした理由、つまり親の借金返済のため、あるいは弟の学費を稼ぐため、、、
などの薄幸な身の上と それに立ち向かう健気な物語が男の欲望=幻想を育むのだ。
しかし、溝口は、そうした男の幻想を解体する。
男に貢がせて搾り取りそのカネで貢がせた男のふとん店を手に入れるやすみ(若尾)
男親に反抗しその顔に泥を塗るために娼婦になる勝ち気な女ミッキー(京マチ子)。
田舎の一人息子の成長を楽しみに仕送りをしていた大年増のゆめこ(三益愛子)
生活力の無い男と所帯を、子供を持って苦労するハナエ(木暮)。
男の娼婦に対する幻想を解体したからといって、男の欲望が消失するわけでは無い。
解体した断片を再び拾い集め、再構成して新たな欲望を生み出すのだ。
フェティシズムはその最強の道具である。
ピカソが「女、女、女の画家」(集英社新書ピソソ)ならば、
溝口は「女の生と性」を描いて精彩を放った監督である。
かれはスランプを女、とりわけ紅灯の巷の女を描くことで脱した。
「祇園の姉妹」「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒太夫」そしてこの「赤線地帯」。
一方「お遊さま」や「楊貴妃」など上流の女を描いた作品はなにか不器用だ。
つまりテンポも悪く、説得力、あるいはリアリティが乏しい。
溝口にとって、精彩を放つ映画は、浅草の三業地であれ、祇園乙部であれ、
自分が浸った世界、馴染みある世界の映画である。
確かに実姉は松平の殿様の二号となり、終には正妻になった。
それ故に溝口も居候で糊口をしのぎ、かつ彼の運命も開けた。
しかし彼の遊興の世界はあくまでも庶民の世界なのである。
そして彼女たちの仕草、ふとした時に現れるリアリティにうるさかったらしい。
手元には今、溝口の弟子、新藤兼人の「ある映画監督の生涯」
と佐藤忠男の
がある。
佐藤は本作について
「女たちはどんなに惨めな状況におかれても勇敢に生きる。
そして男はすべて下劣であり、卑怯である。
溝口は生涯描き続けたことをここでまた、じつに念入りに描いた。」
と述べているが男は下劣、というより哀れである。
女に対する欲望=幻想は形は異なれど全ての男に在るものであり、
溝口にも佐藤にもあるものであり、男の品性の問題では無い。
欲望の強さは幻想を膨らませ、現実との乖離のゆえにそれが満たされることは無い。
しかし尚追い求めずには止まない。そこが男の哀れさの所以である。
一方新藤の若尾文子に対するインタビューには、
新藤「溝口さんの演技指導は、具体的にああやれこうやれと言わないんだから
汗をかくわけですよね」
若尾「ようするに君、人間になればいいんだよ、こうなんですからね。
手も足もね、女優というのは何よりも官能的であれ、、、と言われました。
ところが分らないわけです、その頃、官能的ってどうやったら官能的になるものやら」
ちなみに1933年生まれの若尾は22~3才、主要出演者の中では最も若い。
若いが臆すること無く てらうこと無くがめつい娼婦を演じている。
1953年の「十代の性典」が大ヒットし、性典女優と揶揄されるも、
すぐ同年の溝口作品「祇園囃子」でその蔑称をくつがえす演技をみせ、
可憐な中に強い芯をもった女性像を表現した。
後に1934年生まれの世界的に著名となった建築家黒川紀章と結婚するが、
恐らくは、永らく紀章の心のミューズだったに違いない。
ところでこの映画は「溝口健二 大映作品集】の中のDVDで鑑賞した。
コロナ禍以降、映画館で映画を見る機会がめっきり減って、
いわゆる新作との縁が薄くなり、殆どDVDか amazon prime による鑑賞だから、
当然旧作になる。
しかし、DVDの鑑賞体験は映画館のそれとはかなり違うものだ。
暗闇の、包まれるような大画面と音響、他の観客とのシンクロナイセーション
同行者があれば、必ずしも感想などが違っていてもその場面を指摘することが出来る。
一方DVDでは独りで大概はパソコンの画面で、停止して、興味のある点、要素を
あれこれと考えたり、巻き戻して関連する場面に戻り確認したりする事もできる。
早送りして次に見たい場面に跳ぶことも出来る。
つまり映画のアナトミーを自分の意に沿って可能になるのだ。
そうした見方はフィルムの時代には限られた映画研究者のものだったらしいが、
いまでは、一鑑賞者でも可能である。
米国では「映画哲学」ないし「Philmsophy」がとても盛んで著作も多い。
その一因にDVDやAmazon Prime,NETFLIXなどの普及があるのだろうと思う。
追記:こうしたDVD体験を Laura Mulvey という研究者が「Death 24X a Second」
という著作で追求しているが、とても興味深い。が未読である。





