なぜ“人の気持ちを考えているのに”うまくいかない?|本当の寛容さとは何か | 囚われの人生からの脱出!もっと自由に生きる心理学〜命のちから心理セラピー講座〜インナーチャイルドセラピー

囚われの人生からの脱出!もっと自由に生きる心理学〜命のちから心理セラピー講座〜インナーチャイルドセラピー

東京池袋の隠れ家的一軒家セラピールーム。公認心理師常駐。インナーチャイルドカードを使って心と対話をする技術を教える活動を通じて、多くの人が幼少期の体験の影響を無自覚に今も受けていると知りました。。それに気づいてもっと自由に生きられるようサポートしています。

 

私たちが人に対して寛容になろうとする時。
 
一番最初に試みるのは
「その人の立場に立って考える」
というものだろう。
 
これはみんな結構得意なんじゃないかな。
 
特に日本人は、自然とそうなる人も多いはず。
共感性・協調性の高い国民性だから。
 
 
しつけにおいても言われるもんね。
 
「相手の気持ちを考えましょう」
「自分がされて嫌なことは人にしないようにしましょう」
 
ね。
 
これ、言われたでしょう?
昔、親や先生に。
 
もしかしたら自分も子供に言ってるかもしれない。
 
これはこれで間違ってはいない。
いわゆる「思いやり」というものです。
 
 
 
 
けど、初級編とも言えるだろう。
 
 
「相手の気持ちを考えて」
「自分がされて嫌なことは人にしないように」
心掛けていても
上手く行かないことってありませんか?
 

 

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私がそう心掛けているのに
依然として私の気持ちを無視する人や
私が嫌なことを平気でして来る人がいる。
 
こういう時、逆に、
めちゃくちゃ腹が立ちませんか?
 
 
逆に、というのは、
普段「相手の気持ちを考えて」いる人の方が
考えていない人より、こういう時余計腹立たしく感じたりするものです。
 
 
そりゃそうよね。
 
自分が常日頃一生懸命相手の気持ちを考えてるのは
それが良いことだと信じているからで、
そのために多少なりとも自分は我慢をしたり犠牲をはらったりしているとしたら、
 
目の前にまるで
「人の気持ちを考えない」
かのように見える人がいたら、
そりゃあ腹が立つこととは思います。
 
 
 
でね、ここで相手のことを
ヒドイとかサイテーとか
人としていかがなものか、とか腹を立てるのは自由だし勝手なのですけど、
 
しばらくやってれば気づくかもしれないけれど、
自分が結構しんどいのですよね。
 
いつまでやっててもちっとも楽になりません。
いったいどうしたらいいんでしょうね?
 

 

突破口は一つではありません。
これはいくつかのうちの一つです、
 
そして実は上級編です。
 
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「人の立場に立って考える」
ということを、アップグレードする必要があります。

 

これまで
「人の立場に立って考えている私」
はどんな私でしたか?
 
もしかして、それは
「今の私」
ではありませんか?
 
 
もし「今の私」がシチュエーションだけ
相手の置かれた状況に身を置いて
その上で
「私ならそんなことしない」
「私ならこうする」と考えていたとしたら…
 
 
察しの良い方ならもうお分かりでしょう。
 
 
 
それは所詮
自分の常識の範囲内で
相手の気持ちを想像したつもり
になっているに過ぎません。
 
 
もちろん
初級編としてはそれくらいでよいのです。
 
 
ではなぜ、それで十分ではないか?と言えば、
「相手は自分ではない」からです。
 
 
人は個性を持って生まれて来て
固有の環境に育ち
独自の経験を重ねてひとりひとり存在しています。
 
 
生得的な資質も、置かれた環境も
ある段階までは自分で選んだものではありません。
(それすら選んだという考え方もありますが、ここではそれは脇に置くことにします)
 
 
すると、です。
今の私が「そんなことしない」
「こうする」と考えられるのは、
 
今の私を作るに至った全ての要素によるもので
相手にはまた別のそれがあるはず、ということになります。
 
 
 
例を挙げます。
 
私は常々感じていたのですが
お酒を飲みすぎて失敗してしまうような
「酔っ払い」に対して、
 
非常に厳しい目を持っている人は
たいがい自分がお酒を飲まないか
飲んでも量が飲めないことが多いように思います。
 
 
「みっともない」
「恥ずかしい」
「大人失格」
と手厳しいです。
 
 
確かに、ご意見はごもっとも。
そう、厳しい人の意見というのは「正しい」ことが多いです。
 
 
一方「寛容さ」というのは
「正しさ」とは別の話です。
 
 
人前で酔いつぶれる程に酔っ払う行為は
確かにみっともないけれども、
本人の意志の力ではどうにもならないところでそうなっている
という可能性もあります。

 
告白しますと・・・
私自身、かつて酒癖が悪かったのです。
 
 
20代の頃は何度も失敗をしました。
幸いにも致命傷を負ったことはありませんが
居合わせた方に迷惑を掛けたことは何度もあります。
 
 
この酒癖は父譲りで、大変困ってはいたものの
長年対処法が見つかりませんでした。
(後に40代後半になって、心理的な課題の解決とともにこの酒癖問題も解消しました)
 
 
そんな訳でご迷惑を掛ける側だった私は
ご親切な方々に恵まれて面と向かって批難されたことはありませんが
他の酔っぱらいの方が批難されているのを聞くたびに、
 
チクチクとこころ痛んだものでした。
 
 
 
お酒を飲まない、飲めない方からすれば
「私ならそんな風には飲まない」
というのはもっともなのですが、
 
「酔っ払っている人は私ではない」ので、その置き換え自体が意味がないんだよなー
と思ったものです。
 
 
つまり
「人の立場に立つ」の初級編が
今の私が相手の立場に身を置く
のだとしたら
 
 
上級編は
私ではないその人として
相手の立場に身を置くということなのです。
 
 
 
でもここで問題が
出てきますよね?
 
 
自分にまったく似たような経験もなく、想像も及ばないとき、
「その人として」
っていったいどうしたら分かるんでしょうね?
 
 
これには心理療法的なアプローチはいくつかあるのですが、
今日ここでは、そういうことではなく
究極の結論を書きます。
 
 
それは
「分かろう」とすることを手放す
ということです。
 
 
 
 
そもそもなぜ私たちは
「人のことを分かりたい」のかと言えば
「分かる」ということが「受け入れる」ことの手っ取り早い近道だからです。
 
 
通常「分からないもの」は
「浮け入れがたい」です。
 
 
得体のしれないものは排除したくなるのは
人間の本能に近いです。
 
なので、何もすべての分からないものを受け入れる必要などありません。
 
 
今話しているのはあくまでも、
ある人に対して寛容になりたいと思ったときの
究極の方法です。
 
 
なんでも分かるはず!
という思い込みを手放し、分からないものを分からないままに尊重する気持ち。
これが寛容さに近づく構えとなります。
 
今日も最後までお読みくださってありがとうございました。

 

 
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