先日、知人に突然こう聞かれた。
「ろこさんは、自分のことを嫌いとか思わないんじゃないですか?」
私「ああ、そうですね。確かに。自分を嫌いとか思ったことないかもしれない。」
そう答えてから更に付け加えた。
私「あ、でも。だからって別に自分のことすごい大好き♪みたいのもないですけどね。」
するとその知人は言った。
「そりゃあそうでしょう。極端な自分大好きは自己否定の裏返しだもの。」
ただそれだけの、何気ない世間話だったが、後でふとこの会話が思い出された。
そして考えた。
私の自分に対するこの感覚はなんなのだろう?と。
別に私は自分の性格やら容姿やら能力やらのすべてに不満がないわけではない。
気に入らないことや、こうじゃない方が好ましい、と思うところだってなくはない。
でも少なくとも、
「自分を嫌い」と思った記憶はない。
なぜだ?
それで思ったのは、
私にとって自分とは、そもそも「好き嫌い」の対象にはなり得ないのだ。
私にとって「好き嫌い」とは、自分からある程度切り離された対象に対して、近づくか近づかないかを判断するセンサー的な役割のもの、な感じがする。
だから、切り離すことの不可能な自分に対して、好きとか嫌いとか思うこと自体がナンセンス。
自分を嫌いとか言ったって始まらんじゃん?
という感じなのだな、と気づいた。
誤解のないように言っておくた、別にこれが正しい、とかいうつもりの話ではない。
感覚に正しいも間違いもない。
「自分が嫌い」「自分を好きになれない」というを思いに苦しむ人が少なくないことはよく知っている。
その人たちに「あなたの悩みはナンセンスだ」と言いたいわけでは毛頭ないことを先に伝えておきたい。
その上で、自分を考察するこたによって、「不満はあっても嫌いではない」感覚がどこに由来するのか?を知りたいと思ったまでだ。
話を進めよう。
私の中に強くある感覚は
「そんなこと言ったって始まらんじゃん」
であり、これはイコール
「しょうがない」
である。
世の中にはしょうがないことがある。
人生にはしょうがないこたがある。
「しょうがない」は自分の力では変えることの出来ないもの、のことである。
自分の力で変えることが出来るものなら、いくらでも変えるように動けばい。
変えることの出来ないものなら、それは「しょうがない」のだから、受け入れて、その環境の中で最善を求めればいい。
そう、自分に、現状に不満を抱くとき、
自分の力で変えられるものは頑張って変えて、
自分の力ご及ばないものなら「しょうがない」と受け入れてそこから最善を目指す。
私の内側で起きているのはそういうこと。
で、自分は自分から切り離しようない、生きる主体そのものなので、かけがえのない存在。
嫌ったり好きいたりが意味をなさない、大切な存在。
私にとって自分とはそんな存在のようだ。