この記事は
の続きです。
彼女に「再び会える日が来たら、連絡がほしい」とメールを送った後、
私はどうにも不思議な自分の内なる感覚に気づいていました。
それは、本来ならこの場面で感じるはずであろう感覚がまるで湧かないこと。
「彼女の誤解を解いて、分かってもらいたいという気持ち」
それが微塵も湧いてこない。
彼女は私の最も大切な友達なはずなのに。
それは不思議を通り越して、不気味なほどでした。
私の内側は、不気味なほどに静まり返っていました。
そうこうしているうちに、学校の宿題であるカウンセリングの日がやって来ました。
その日、約束の時間に私はカウンセリングを受けに行きました。
これが人生初の心理カウンセリングです。
※労働相談とか育児相談等を受けたことは何度もありました。
授業でお会いした時と同じく、穏やかで優しい雰囲気をたたえたM先生。
「今日はどんなお話でいらっしゃいましたか?」
と尋ねられ、私は話し出しました。
「実は特に相談すべきことがないかなあ、なんて思っていよしたら、ちょっと事件が起きてしまいまして。そのことをお話したいと思います。」
正直なところ、それは相談してどうなるとかどうしたいという話でもないような気がしていたけれど、でもそれ以外に思いつかなかったのです。
私は、事の顛末を、この記事の1〜3のようにお話しました。
自分では、なので、正確にはわかりませんが、かなり淡々と話したと思います。
最後に、自分の心の中が不思議に静かで、誤解を解きたいという意欲が微塵も湧き上がらないこと、それが不気味な感じさえすることを付け加え、私は話を終えました。
その間、ただただ静かに、穏やかな表情で私の話を聴いていたM先生は、こう言いました。
M「分かってもらえなくて、哀しかったんですね。」
私「え?哀しかった?」
私は、意外な言葉を聞いたかのような気分で、先生の言葉を繰り返していました。
M「そう、哀しかった。20数年来の一番仲が良いと思っていた友達に、自分を分かってもらえなかったと感じて。」
先生の言葉を聞きながら、自分の目から涙がせきを切ったように溢れ出すのを感じました。
なんて泣いているんだろう?私。
と思いながら一方で、
ああ、私は哀しかったんだ。
と思いました。
20数年も仲良く付き合っていても、私が何を大切に生きているか、
私がどんな人間か、
伝わらなかったんだなあ。
私にとって、
子育てが大変なら仕事は辞めればいい、そんな簡単な話じゃないってことが、
どちらも大事だから悩んでいるということが、
私はそういう人間なんだということが、
20数年も付き合っていて、
私は伝えられていなかたったんだなあ。
彼女のメールの最後の
「あなたは結局○○なんでしよう」
を読んで、
私はそんな風に思って、
その哀しみの深さのあまりに心の感覚をシャットダウンした。
それがあの、何も感じない、不気味なまでの静けさの正体だった。
ボロボロと泣きながら、そう気づいた。
私の涙が止まるのを待って、M先生は再び口を開きました。
M「お話を聴いていて私が気づいたのは、彼女の中にある支配欲です。自分の価値観をあなたに押し付けようとした、そしてあなたがそれに従わないことに腹を立てた。それは彼女の中にある偏りです。」
あー、そうか。
それは支配欲なのか。
当時の私にはそれは新鮮な視点でした。
先生はこのカウンセリングで、彼女の偏りを指摘し、私の隠された哀しみを見つけてくれました。
そして私は救われた。
私にもきっと偏りはありました。
今ならよく分かります。
「分かってもらえない」と嘆きながら、どれだけ分かってもらうためのコミュニケーションをして来たのか?とか、私だって彼女の本心に気づかなかったよね、とか、今の私の視点なら、あの頃の私はツッコミどころ満載です。
でも、M先生はそこには触れず。
彼女の偏りを指摘し、私の哀しみを見つけ出して、シャットダウンした心を再起動してくれました。
きっとそれが、あの日あの時に私が受け取れるビッタリの量だったのだろうと思います。
M先生のカウンセリングはこの時一度きりでしたが、この体験から、図らずも私は、友達にではなくカウンセラーに相談することの意義は何か?という、自分に投げかけられた問の答えを導き出すことになったのです。
長いので次に続きます。
次回最終回になる…かな?(笑)
ここまでせっかく長々とお読みくださったあなたは、次回も是非ともお見逃しなくお読み頂けたら嬉しいです。
多分一番役に立つこと書いてあると思うし(笑)