大河ドラマ『光る君へ』第32話「誰がために書く」見ましたー。

 

 

『源氏物語』が認められ、ついに「紫式部」が女房の階段を1段、上がりました。

 

 

で、結局のところ…誰のために書くんです?(出オチ)

 

 

というわけで、今回の気になった所などを挙げていきたいと思います。

 

 

◆一条天皇の執着と牽制

 

寛弘2年3月27日(1005年)。定子の遺児・脩子内親王さまの「裳着の儀」は、大雨の中執り行われたそうです(『御堂関白記』)。

 

脩子内親王はご存知の通り、「長徳の変」が起きた長徳2年(996年)の年末(新暦では997年)の生まれなので、この年で8歳。

 

「裳着の儀」は成人式ですが、『光る君へ』は13歳で大人バージョンになるルール(らしい)ので、子役の井上明香里さんが演じておられます(かわいい)

 

この儀式では、「腰結」はドラマの通り道長、そして「理髪」は橘徳子(一条天皇の乳母)、「結髻」は藤原尊子(道兼の元妻。第13話「進むべき道」にも出ていましたね)が務めています。

 

いずれも、この大河では顔出し済み…ですが、その姿はここでは確認できず。かつて登場しているからといって、その後も史実通りに登場するとは限らない…ってのは、想像を斜め上に行っていてビックリですね(^^;

 

ナレ「一条天皇の亡き定子への執着は強く、未だ公卿に復帰していない伊周を大臣の下、大納言の上に座らせるよう命じた」

 

「定子への執着は強く」という言葉の是非は置くとして、伊周を「大臣の下・大納言の上」というのは、重要なところ。

 

いわゆる「准大臣」。

 

伊周は失脚前「内大臣」だったのですが、その座は藤原公季が占めていました。上の「右大臣」は藤原顕光、一上の「左大臣」は道長で、大臣席は満席状態。ここに復帰させたくてもできません。

 

ならば、道長を「太政大臣」にして1つあければ、どこかに空席ができる計算にはなるのですが、「太政大臣」になると「陣の座」に出席する権限を失ってしまうのです。

 

道長がいなくなると「陣の座」の主宰は、おそらく顕光…。今回、道綱に「右大臣が帝を諌めてよ!」と叱られていたように、仕事ができない顕光を、そんな重要なポストにつけるわけにはいきません(笑)

 

そこで選ばれた苦肉の策が「准大臣」の新設。とりあえずは脩子内親王の「裳着」のための特例…ということで、公卿たちの了承を取り付けたわけです。

 

席次を巡っては、道綱と伊周が場所取り争いをする…という演出が挟まりました。

 

しかし、この席次の宣旨は寛弘2年2月25日、1ヶ月ほど前から出ているので、道綱が知らずに席を埋めて「譲られよ」と高圧的にどかせ「えっ、えっ」と戸惑う…ということは、あり得なかったはず。

 

制作陣による何かしらの印象操作か、何も考えてないか、どちらかです(笑)
 

ナレ「一条天皇は表向き、伊周の昇殿は脩子内親王の裳着に参加させるためとした。真の目的は道長への牽制であった」

 

ほらね。さっそくほころびが出て来た(笑)

 

先程のやり取りから、道長ではなく道綱への牽制になってしまっているじないですか…という意味じゃないですよ(それはそれで、面白いけれども)

 

「定子への執着」と「道長への牽制」って、まったく繋がらないでしょ…ということ。

 

定子が亡くなったのは(ホワイト道長の『光る君へ』では尚更に)道長は関係ないから、「定子に執着」していたとしても「道長を牽制」する必要は全くないわけ。

 

伊周を復権させようとしているのは、敦康親王のためですよね?

 

この子が、次代の天皇の皇嗣に選ばれるようにする。そのためだったら何でもやる…というのが、この頃の一条天皇の本性のはず。

 

そのための「中関白家」の復権なのです。だから「定子に執着」ではなく「敦康親王のため」なんですよね(遠回しに定子に執着ではあるかもですが)

 

史実では「中関白家」の復権に道長も協力的だったようなので(道長は「恨まれたくない」だったらしい?)、このあたりはドラマ独自の雑な解釈と演出、そしてナレだった…となりそうですなー。

 

主上が道長に「伊周を陣定に復帰させたい」と意向を示した時、「おそれながら、難しいと存じます。陣定は参議以上と定められておりますゆえ、誰かが身罷るか、退かねばありえませぬ」と先例をもとに理路整然と見解を述べるシーンは、よかったですねw

 

冷静な道長に対し、一条天皇はイラつき気味。これも「道長は自分を牽制しようとしている」と思っている…ということ?

 

「そなたならば如何ようにもなろう」という反論は、「左大臣は権勢を恣にしてやりたい放題ではないか!」という揶揄が入っているのでしょうか?これを言わせたいんだったら、ホワイト道長にしたのは失敗でしたね…。

 

 

◆儀同三司

 

「土御門第」で伊周と隆家も招いて「漢詩の会」が開催。

 

伊周の漢詩が詠まれて「儀同三司」の名乗りが登場しました。

 

 

『花落春帰路 以深為韻』儀同三司

春帰不駐惜難禁

花落粉々雲路深

委地正応随景去

任風便是趁蹤尋

枝空嶺徼霞消色

粧脆渓閑鳥入音

年月推遷齢漸老

余生只有憶恩心

春帰りてとどまらずえ難きを惜しみ(春に帰ると、ここ離れてしまったことが惜しまれる)

花落つること紛々として雲路深し(花は落ちて散っていき、世を去った人々の記憶も遠くなる)

地にむやまさまさに景をしたがへて去るがごとくなるべく(馴染みの場所を訪ねれば、かつての景色が重なって来る)

風に任するや便すなはち是れあとみて尋ぬる(もしかしたら歩んだかもしれない道を風が吹き抜けて行く)

枝空しく嶺をめぐりて霞色を消す(峯が視界を遮るように聳え立ち、霞は色を失う)

粧ひは脆く渓閑かにして鳥音を入る(春の装いはもろくも崩れて、谷は静かに鳥のさえずりも消える

年月は推し遷りて齢漸く老ゆ(年月は移ろい、私も次第に老いてゆく)

余生は只だ恩を憶ふの心有り(残りの人生、天の恩顧を思う気持ちばかりが募る)

 

(訳は、半分ワタクシの勝手な解釈です…中国の漢詩は豊富に紹介されているのに、日本人の漢詩となると、途端に検索結果に出なくなりますね)

 

大河では斉信が「けなげと思ったのに、騙されるところだった」みたいな解釈になっていましたが、実際には「一昨 左府の作文 外帥の詩 述懐有り 上下 涕泣す」(『小右記』寛弘2年4月2日条)というように、皆が涙した…と絶賛されています。

 

劇中では「天子の恩顧」と語っていましたけど、これは「土御門第」で詠まれていますし、道長も「中関白家」の復権に一所懸命だったので、本来は「道長の恩顧」を頼っていた…のかもしれないですよね(『光る君へ』では無理ですが)

 

 

この場で名乗っていた「儀同三司」は、古代中国の官名。

 

古代中国では「開府」という、朝廷から半独立した自分の役所「幕府」を開く権限があったのですが、これを与えられるのは「丞相」「大司馬」「御史大夫」らの最高幹部「三公」たちだけ…とされていました。

 

後に「丞相」は「大司徒」、「御史大夫」は「大司空」と改められ、「大司徒」「大司馬」「大司空」の三公は、ご覧の通り3人とも「司」の字があるので「三司」とも称されました。

 

間もなく「開府」は有力な将軍にも認められるようになっていくのですが、やがて有力な文官にも「開府」の権限を与える…という例が出現するようになりました。

 

こうした「開府」の権限を与えられた文官(ほぼ「一品」の高官)のことを、「三司と同じく開府できる」という意味で「開府儀同三司」と呼びます。

 

と、ざっくり簡潔に(乱暴に)解説すると「儀同三司」というのは、そんな経緯をたどったものでした。

 

どーでもいいことですけど、「儀同三司」もさることながら、「丞相」とか「司徒」とか「司空」とか、あちらの官名って何でこんなカッコいい響きなんだろう。藤原仲麻呂が惚れ込んだのも分かる気がしますな(笑)

 

ちなみに、日本では古墳時代の人物に当たる「倭の五王」の最後・倭王武は、劉宋王朝の順帝に使節を派遣していますが、その目的は「開府儀同三司を認めて欲しい」というものだった…とも言われているようです。「自治政権を持ちたい」という訴えだったんですね。

 

結果、認められたのは「使持節 都督 六国諸軍事 安東大将軍 倭王」で、「開府儀同三司」は認められず…それでも外交上の大成果ではあったんですけどね。

 

で、伊周は劇中でもあった通り、脩子内親王の裳着のために「大臣の下・大納言の上」という「准大臣」に収められています。

 

「左大臣・右大臣・内大臣と同じ権限(で儀式に参加する)」という事情から、「大司徒・大司馬・大司空と同じ権限(で開府する)」という「儀同三司」の言葉を連想して、名乗った…というわけなんですねー。


伊周の学識の高さが伺える一件でもあるのですが(本編でも解説すればいいのに…)、こうして見れば分かる通り「儀同三司」は官職ではありません(伊周が引っ張って来ただけで、本来は「准大臣」とも関係のない名称です…たぶん)

 

伊周の自称でしかないので、当時の人は誰も「儀同三司」とは呼んでなかったのでしょうね(准大臣さま…とは呼んでいたのかな?)

 

儀同三司といえば、伊周の母・高階貴子が『百人一首』で採られている詠み人名が「儀同三司母」となっていることでも有名。

 

この経緯を見れば一目瞭然、貴子は生前「儀同三司母」と呼ばれたことは一度もなく、もし泉下の彼女が聞いたら「え、それ私のこと??」ってなるでしょうなw

 

しかし、これ以前から疑問なんですけれど、どうして彼女は「一条院皇后宮母」ではなく「儀同三司母」なんでしょうかね…?「准大臣の母」よりも「皇后の母」の方が、格式が高そうな気がするんですが…(「皇后」も「儀同三司」も、彼女の没後の出来事ではありますが…)

 

 

後日、土御門第では、隆家と行成が道長の前で接触。

 

行成が隆家に口論を挑み、不仲で険悪な関係になって衝突寸前。

 

行成はかつて、宮中で「烏帽子」を掴み取られて投げ捨てられた…という恥辱を受けた時、冷静にふるまって一条天皇を感動させた…というエピソードが語られるほど、温和で冷静なイメージなので、これはちょっと頂けない演出ですな。

 

隆家は「中納言」で、行成は「参議」に過ぎないわけで、身分的にもありえません。何なんだろう、このシーン(さすがにワタクシも怒りますよ?)

 

 

◆女房スカウト

 

彰子のもとを訪ねる道長。

敦康親王に「投壺」をプレゼントするためでした。

 

思いのほか、およろこびになる親王さま(かわいい)

「書の稽古の時間です」「イヤじゃ!」(かわいい)

 

不意に予告なく、主上が「お渡り」に。

 

何事かと思ったら、道長に『源氏物語』について話したくて…というご様子でした。

 

「あれは朕への当てつけか?」

 

帝が道長を牽制しているものだから、道長も自分を牽制していると思ったのでしょうかね。意表をついて登場して、強めの言葉を持ってくる。一条天皇の勝負所だった…というかんじがありますな(「あれ、俺のこと?w」みたいな、冗談めいて…というかんじは、あまりしなかったですが)

 

「あれを書いたのは誰だ?」

 

「前越前守藤原朝臣為時の娘でございます」

「以前、帝にお目通りが叶ったと伺っております」

 

「?……ああ…あの女であるか」

 

と、かつて清少納言が連れてきて『新楽府』の志について語った女のことを思い出す、知識ロ-ルに成功。

 

ちなみに、以前に会ったのはいつだったかな…と探してみたら、19話「放たれた矢」でのことでした。

 

道隆の没後。「花山院奉射事件」の直前。為時が「従五位」となり「淡路守」になるかどうか揺れていた頃。

 

長徳元年(995年)なので、10年前…月日は過ぎ去りましたねぇ(^^;

 

(今回「裳着」を行った脩子内親王が、翌年に誕生…という頃ですからな。子供の成長は早い)

 

10年も前に1回会っただけの娘を覚えている?とともに、あの時は「前式部丞藤原朝臣為時の娘」だったので、「前越前守藤原朝臣為時の娘」と言われて「ああ…あの時の…」は、ちと無理があるような気ががが。

 

(前に会った時と今回とで名乗りが違うのは日常茶飯事だから慣れていたとか、そういうかんじ?)

「書き手の博学ぶりは無双と思えた」

「その女にまた会ってみたいものだ」

「会うなら続きを読んでからとしよう」

「あれで終わりではなかろう」

一条天皇から飛び出す、主人公補正を賞賛する言葉の数々。

そして『源氏物語』連載のGOサイン!

 

さっそく道長は、まひろの元へ「中宮さまの女房に」とスカウトに向かいます。

 

「私は"おとり"なのでございますか?」

 

出たーーー…『光る君へ』の醍醐味の1つ、意味深で空っぽな謎ネガティブワード(笑)

 

「いけにえ」以来久しぶり…?いや、今回も「執着」という謎ネガティブワードがありましたかw

 

 

順番が逆だと思うのですが、まひろを女房にスカウトしようと思う…ということを、晩酌の時に倫子に相談。

 

「どうして殿は、まひろさんをご存知なのですか?」

 

次回予告にもあった、この台詞。「公任から聞いた」と答えるかな…と予想していたのですが、「公任から聞いた」と答えておりましたw

 

「私も まひろさんは存じております」

 

この倫子とのやり取りって、何かおかしくありません?

 

だって、まひろの父・為時は、頼通の指南役として「土御門第」に通っているんですよね?為時が「御方様」倫子に挨拶してないなんて、あり得るのかな。

 

そして、挨拶していたとしたら、為時から まひろ の近況を聞いていてもおかしくないですし、「頼通の先生、実は私の昔の知り合いのお父様でして…」みたいな夫婦の会話が、これまで全くなかったというのも考えにくくて…。

 

これも史実を捻じ曲げて「為時を頼通の先生にした」弊害が出てしまったのかな…という印象になってしまいました(^^;

 

 

一方、まひろ宅の方での、あの名台詞。

 

「お前が女でよかった」

 

すごいカタルシスを感じる部分なんでしょうけど、まひろが左大臣の恋しい人であったがゆえに、為時は「越前守」になれたんだよね…すでに「女でよかった」ってなっていたでしょ…と、どうしてもこれが脳裡から消せませんでした…残念。

 

 

◆晴明の小宇宙(コスモ)

 

寛弘2年9月26日(1005年)、安倍晴明逝去。「従四位下 左京権大夫」。

 

第1話から不思議な存在感を発揮しながら登場し続け、ついに85歳で没しました。

 

「光を手に入れられましたな」

 

安倍晴明が紫式部の登場と入れ違いに歴史から去る…というのは、もっと意味深に使えたような気もするのですが、でも交わることがなかったのは、結果良かったかもしれない…(褒めてない)

 

「長い間、世話になった」

 

道長が深々と頭を下げ、最後の別れを惜しみました。

 

「呪詛も祈祷も人の心の有り様なのでございますよ」

 

史実の晴明は、陰陽寮の仕事をやっていた後に、「主計助」などを務めていたらしい形跡があります。

 

「主計助」は税収を司り、監査する「主計寮」の次官(長官は「主計頭」)。

 

陰陽道と収税吏…全く関係なさそうなかんじがしますが、天文学に必要な高度な計算能力を、税収の方でも役立てた…という繋がりがあるわけですね。

 

ここからも分かるように、高い計算能力を持つ稀有な人物だった…というのが、リアル晴明の人物像と言うことになりそう。

 

『光る君へ』の晴明も、オカルト系魔術師な晴明ではなく、計算高さをうまく使う策略家だった…という印象ですね。そこに胡散臭さがマッチしていてw

 

その後、晴明の目に、満天の星空。

 

ワタクシ天文学的なことはサッパリですが…何か意味ある星空なんですかね?

 

 

◆寛弘2年の内裏火災

 

寛弘2年11月15日(1005年)、内裏が焼失する火災がありました。

 

新暦に換算すると、1005年12月18日のこと。

 

日月食等データベースによると「皆既月食(日本から見える)」で、ばっちりビンゴ。

 

月蝕の穢れを怖れた公家たちが引き籠もっていたために内裏にはあまり人がおらず、一条天皇は彰子とともに、伴廻りがいない状態で逃げることになった…とされています(つまり、2人で火災から逃げたあのラブロマンスは、史実)

 

とはいえ、ナレでもあった通り火災は「温明殿と綾綺殿との間から出た」というので、一条天皇がいる「清涼殿」や、彰子がいる「飛香舎(藤壺)」からは、「仁寿殿」を挟んで反対側。あんな風に火の粉が舞う中を…ということは、なかったでしょうねw

 

 

一条天皇は在位中、3回の内裏火災に遭っています。

 

1回目の長保元年6月(999年) の内裏火災の時、一条天皇は定子の元へ向かおうとするのですが、道長が体を張ってブロックして阻止し、避難させて定子も救出。

 

「お上と定子を会せないようにするために阻止した」と言われたりするのですが、この時は敦康親王を身籠っていたので、一緒にさせないメリットって…?

 

火中に飛び込もうとする帝を頑張って阻止するのは、当然のことですよな。

 

2回目の長保3年11月(1001年)の内裏火災の時、「敦康親王家別当」だった行成が、一条天皇が避難したのを確認した後、敦康親王のもとへ馳せ参じています。

 

敦康親王は「飛香舎(藤壺)」で、彰子と一緒におられたそうな。

 

行成は、この年の8月まで「蔵人頭」として天皇の側近くに仕えていたので、その経験が活きて、素晴らしい対応に繋がったのでしょうかね。

 

という過去例を見ると、「寛弘2年の内裏火災」は一条天皇と中宮の周囲には誰もおらず、2人とも徒歩で一緒に逃げるという体たらく。

 

「帝と中宮様に地面を歩かせるなんて…蔵人は何をしていたのだ!」と、行成くんも怒りをにじませたそうな。

 

(そして、「中宮大夫」斉信の失態でもありますね)

 

 

「温明殿と綾綺殿との間から火の手が上がった」と言われていますが、この「温明殿」というのは南北に建物が分かれていて、北舎は「内侍」が詰める候所、そして南舎は「賢所」になっています。

 

「賢所」は、「三種の神器」の1つ「神鏡」を安置し、祀っているところ。

(ちなみに「神剣」と「神璽」は、「清涼殿」にあったようです)

 

火元から近かったせいか、「神鏡」は運び出すのが間に合わずに火災に巻き込まれてしまい、焼け跡から原型を留めない「金属の玉」になっているのを発見されました。

 

三種の神器の1つが焼失。

 

道長は実資たちの反対にも拘わらず、「新鋳」させようとしたそうな。

 

しかし「白蛇を目撃した」という奏上が「伊勢神の神威である」として沙汰止みになり、回収した玉を唐櫃に収めて、新造の形代と等しく祀ることになったそうです。

 

なお、この時に焼失したのは「八咫鏡」ではなく「神鏡」。

 

「八咫鏡」は伊勢神宮に収められ、現在も伝わっていると言われています。その「形代」ということですね。

 

なお「形代」というのは「分身」とも言うべきもので、「模造品」「偽物」とは、ほど遠い存在です。

 

道長や一条天皇の衝撃は、計り知れないものがあったでしょうねー。

 

流転の神器(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12744391887.html

 

「月蝕で人の気配がない」→「内裏炎上」→「帝と中宮が2人で避難」→「神鏡焼失」

 

こんなよくできたストーリー、ファンタジーでも書けないですな(^^;

 

 

 

内裏火災後、11月27日になると一条天皇と彰子は「東三条殿」に遷御。

 

12月29日、紫式部が初出仕(寛弘2年初出仕説)。

なので、今回のラストシーンは、実は「東三条殿」だったことになりますねー。

 

翌年の3月4日、紫式部のメインステージとなる「一条院」に還御となります。

 

 

紫式部の宮仕えの幕開けが「怖い」とネット記事でも言われた、あの女房たちの群像。

 

 

いよいよ最終章がスタート…というかんじになってきました…かね?

 

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html