本日も『元伊勢』伝承の続きを。

 

これまでをまとめると、初めは崇神皇女「豊鋤入姫命(とよすきいりひこ)」に「天照大神」の遷座が託され、6か所を巡って「三輪山」に戻りました。

 

そこで年齢を理由に引退を表明し、姪に当たる垂仁皇女「倭姫命(やまとひめ)」が「御杖代」を継ぎ、遷座の役目を担います。

 

「元伊勢」の歴史(豊鋤入姫命編)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12866562550.html

 

倭姫命は、倭国から伊賀、甲賀、近江、美濃、尾張を旅して9か所を巡り、いよいよ「伊勢」へ。

 

「元伊勢」の歴史(鈴鹿山迂回編)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12866922752.html

 

というわけで「元伊勢26」+「今伊勢1」の27か所のうち、15か所をご紹介してきました。

 

今回は「伊勢国」に入ってから巡幸した、残りの12か所をご紹介していきます。

 

最後が皇大神宮(内宮)ということは、今回は完結編。

 

「前編・後編」になるかなー…と思っていたのに、やってみたら「三部作」になってしまった(汗)

 

だらだらやるのがいけないんですけどね…。でもやめられない止まらない(笑)

 

 

No.16桑名野代宮くわなののしろのみや

 

「中島宮」に奉祀した同年。

 

垂仁14年。「天照大神」の遷御が再開され、伊勢国は「桑名野代宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「尾野神社」「神館神社」「野志里神社」など。

 

ここでは「野志里神社(のじりじんじゃ)」としておきます。

 

 

いよいよ「伊勢国」へ到達。最初は交通の要衝・桑名。

 

「白山信仰」の地「大日ヶ岳」に源を発する長良川を見晴らす地に鎮座…というロケーションが影響しているのか、主祭神には「天照大神」や「豊受大神」の他に、「白山神」も数えられています。

 

白山神はイザナギ、イザナミ、あるいは菊理媛神(きくりひめ)、もしくはその3柱の総称とも言われます。

 

このあたりの地名は「多度(たど)」。伊勢国二之宮「多度大社」のお膝元。

 

「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」

 

と謡われる「多度大社」からは、南へ4kmというアプローチ。

 

多度大社といえば白馬。白馬さん撫でてみたいですな~(←参拝した所で撫でられるのかどうか)

 

現在「野志里神社」は神主がおらず、「多度大社」が兼務しているそうです。

 

 

「元伊勢伝承」は、「桑名野代宮」から趣が変わって「倭姫命が地域代表者(=首長?土地神?)に名を問う」という形式が定例化していきます。

 

『国造建日方命(たけひかた)が現はれ参上したので「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げた』←こんなかんじ。

 

古代の日本では「名」というのは呪術な力を持つとされてきました。

 

例えば、『万葉集』の全歌の巻頭を飾る、雄略天皇の歌。

 

もよ み籠持ち
ふくしもよ みぶくし持ち
この岡に 菜摘ます児
らせ 名告らさね
そらみつ 大和の国は
押しなべて 我こそ
敷きなべて 我こそ居れ
我こそば 告らめ 家をも名をも


雄略天皇 / 万葉集 巻1-1

 

「そこの籠と掘串(ふくし。スコップ的な?)を持って野草を採っているお嬢さん。家の名を教えてよ。あなたの名前を教えてよ。私は大和国の大王だよ」という意味。

 

「お嬢さん、あなたの名前を教えてよ」と言っていますが、単純に「名前が知りたい」のではなく、実は「求婚の歌」。

 

「名を問う」そして「答えさせる」というのは、その「名」を持つものを「問う人のものにする」ことを意味します。

 

「名を答える」のは、女であれば問う人の妻となることを、国であれば支配を認めることを意味するわけですね。

 

「倭姫命が国の名を問う」のが「伊勢」に入ってすぐの「桑名野代宮」から定例化…ということは、「元伊勢伝承」とは「伊勢」を「大和政権」の支配下に置く歴史の物語だった…とも言えるかもしれないわけです。

 

そうであることを表すかのように、中には一筋縄ではいかないこともあり。この後は、そのあたりも注目…となりますかね。

 

(「名を問う→答えさせる」は、「地名の由来伝承」という側面も持っているのではないか…とも言われます)

 

 

No.17奈其波志忍山宮なごわしのあしのやまのみや

 

「桑名野代宮」に奉祀すること4年。

 

垂仁18年。「天照大神」の遷御が再開され、伊勢国は「奈其波志忍山宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「布氣皇舘太神社」と「忍山神社」。

 

両社、500mほどしか離れてません。1つとして数えてもいいんじゃない?って勝手に考えて、今回は特別に(?)両方をご紹介。

 

まずは「布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)」

 

 

三重県の亀山は、鈴鹿川の北側河岸段丘の上に鎮座する社。主祭神はもちろん「天照大神」。

 

すぐ近くには縄文早期の遺跡「大鼻遺跡」が広がっていて、古くから人が住んでいたようです。古代は海も近かったのではなかろうか。「一の鳥居」の前は「東海道」で、交通の要衝でもあります。

 

かつては「高野大神宮」と呼ばれていたみたい。これは、現「外宮」の主祭神である豊受大神の荒魂を祀る社であることを指すんだそうです。

 

「布気皇館太神社」の「布気(ふけ)」は、「誓約(うけひ)」が変化したものではないか…とされているそう。「皇館太」は、この地の統治者が「神田・神戸」を献じ給うたことに由来するようです。

 

 

もう1つの「忍山神社(おしやまじんじゃ)」は、「布気皇館太神社」の東、鈴鹿川沿いにある神社。

 

 

主祭神は「猿田彦命(さるたひこ)」という神様。「天照大神」ではないですが、むしろこれが意味深でもあったりします。詳しくは後ほどw

 

倭姫命がこの地に遷座した際、建忍山垂根(たけおしやまたりね)という人物が、ここを統治していたそう。

 

垂根は、重要な古代豪族・穂積氏(物部氏同族)の祖とされる人物なのですが、それより何より注目なのは、彼の娘の1人が弟橘媛(おとたちばなひめ)。

 

後にヤマトタケルの妻となり、夫の退路を断とうとする荒れ狂った「走水海」に、身を捧げて道を開いた「ヤマトタケル伝説」を彩る姫さま。

 

「忍山神社」は、ヤマトタケルの妻の実家だったんですねー。

 

倭姫命にとって、ヤマトタケルは甥っ子。後世、伊勢神宮(五十鈴宮)を訪ねたヤマトタケルに、倭姫命が「神剣」を授けて「草薙の剣」の伝承へと繋がっていくわけですが、その会合後に「忍山神社」に立ち寄って、弟橘媛を娶ったとされています。

 

倭姫命とヤマトタケル、そして「元伊勢」の道筋に弟橘媛の実家がある…というのは、とてもロマンがあります。

 

なお、「伊勢国一之宮」は「椿大神社」と「都波岐神社」の2社ですが、主祭神はどちらも「猿田彦命」の名を挙げています。

 

「忍山神社」と同じ…ってことになりますね。

 

 

余談ですが、両社のある地帯は「元伊勢No.12 甲可日雲宮」から「鈴鹿峠」を越えた場所に当たります。

 

鈴鹿峠は前回もご紹介した通り、平安時代初期に「坂上田村麻呂」が鬼神「大嶽丸」を退治したことで開通した交通路。

 

倭姫命の時代も、何らかの理由で(同じ理由で?)通ることは叶わなかったのかもしれませんが、随分と遠回りをしましたねw

 

平安時代以降の斎宮は、「近江国府」「甲賀」「垂水」「鈴鹿」「壱志」の5箇所の頓宮で各1泊し、6日目に斎宮へ入るのが通例でした。

 

「甲可日雲宮」近くの「垂水頓宮」から「鈴鹿峠」を越えた次の「鈴鹿頓宮」は、どこにあったのかは定かではないのですが、奈良時代に使われた「赤坂頓宮」と同じ場所にあったのでは…とも言われます。

 

 

「赤坂頓宮」は、奈良時代の聖武天皇(奈良の大仏を建てた天皇)が、天平12年(740年)に起きた「藤原広嗣の乱」の災いを避けるために行幸され、一時期滞在した場所でした。

 

「赤坂頓宮」のすぐ西側に「鈴鹿関」があります。天武天皇が覇権を確立した「壬申の乱」(672年)の時、大友皇子軍が速攻で閉鎖に来たという、あの「鈴鹿関」ですよ(←天武帝推しが万感の想いを込めました)

 

ということは、ここは「鈴鹿関より東」、つまり「関東」なのですねー。

 

改めて考えてみれば、皇祖を祀る「伊勢神宮」が「三関」の外にあるというのも、思い切ったことしましたね…というかんじがしますな。

 

 

No.18草蔭阿野国くさふかあのこく

 

「奈其波志忍山宮」に奉祀した同年。

 

垂仁18年。「天照大神」の遷御が再開され、「草蔭阿野国」に遷されることになりました。

 

阿野県造の祖・真桑枝大命(まくはしおほ)が治めていた場所らしいのですが、「元伊勢」伝承の中で唯一の、推定地不明な宮。

 

三重県津市安濃町のどこかではないか…と言われています。

 

安濃町はかつて「安乃津」「阿野津」と表記され、これが「阿野国」と通じるわけですね。

 

 

同年中に次の「阿佐加藤方片樋宮」へ遷ってしまっているので、もしかしたら数か月どころか数日ほどの短期間な遷座だったかもしれず、記憶に残りにくい滞在だったんでしょうかね。

 

あるいは、次の「阿佐加藤方片樋宮」への遷座が、一筋縄ではなかない大変な出来事を含んでいたので、余計に印象に残らなかったのかもしれないですな。

 

 

No.19阿佐加藤方片樋宮あさかのふじかたのかたひのみや

 

「草蔭阿野国」に奉祀した同年。

 

垂仁18年。「天照大神」の遷御が再開され、「阿佐加藤方片樋宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「加良比乃神社」「阿射加神社(大阿坂)」「阿射加神社(小阿坂)」「雲出神社」など。

 

「阿射加神社(大阿坂)」と「阿射加神社(小阿坂)」の両社は1kmほどしか離れておらず、お話も共有しているようなので、ここでは「阿射加神社」両社としておきます。

 

↑「阿射加神社(小阿坂)」から北へ行くと「阿射加神社(大阿坂)」が鎮座しております。

 

伊勢神宮の最大の祭祀「神嘗祭」で用いられる特別な聖火「忌火」の発祥の地だそうです。

 

 

倭姫命が「藤方片樋宮」へと遷座する時、このあたりには「阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)」という荒神がいたみたい。

 

そこで、倭姫命の父・垂仁天皇が、阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこ)を派遣して、これを平定。

 

また、阿坂の峰に「伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)」という荒神もいて、通行を邪魔したので、大若子命(おおわくご。外宮の祀官・度会氏の祖)が神社を造営して鎮まらせたとも言われています。

 

倭姫命の巡幸に反対する勢力が、このあたりに蟠踞していた可能性を示唆するお話ですね。そして、娘のピンチにすかさず軍勢を差し向けて手助けする父・垂仁天皇…素敵です。

 

(「阿射加神社」両社とも「伊豆速布留神」を主祭神の1柱に掲げています…ということは「大若子命が造営した神社」は「阿射加神社」となりそうですね)

 

 

なお、かつての当地一体は「阿坂国」と呼ばれていたらしいのですが、「阿坂(あさか)」は伊勢国一之宮の主祭神である「猿田彦神」の終焉の地でもあります。

 

「阿邪訶(あさか)」の海で比良夫貝に手を挟まれて海に引き摺り込まれ、溺死してしまったと伝わっているのです。

 

「神の死に様」と「最期の場所」の両方が明確に分かるというのは、日本神話の中でも結構珍しいことなのではなかろうか。

 

「猿田彦命」は、瓊瓊杵尊が「天孫降臨」をした時、地上で出迎えた巨大な神様。

 

ホオズキのような赤い天狗顔、口と尻が光って高天原から葦原中国までをも照らし、八咫鏡のように爛々と輝く目…というタダモノではない姿で、瓊瓊杵尊一行は誰も話しかけられなかったという。

 

天地を照らし自身もまばゆく輝く「猿田彦命」は、かなり「太陽神」っぽい。「天照大神」がくる前の「五十鈴宮(内宮)」の主祭神だったのではないかとも言われています。

 

倭姫命が来ることを善しとしない勢力がいた…という伝承と、伊勢の本来の太陽神だったかもしれない猿田彦命の終焉の地。

 

重ね合わせると、想像欲を掻き立てる場所ですなー。

 

 

なお、猿田彦命は溺死した時、「底度久御魂(そこどく)」「都夫多都御魂(つぶたつ)」「阿和佐久御魂(あわさく)」の3つの「泡の御魂(みたま)」になったと言われています。

 

「阿射加神社」両者のうち、「大阿坂」のほうでは「底度久御魂」も主祭神に数えています。「小阿坂」は「竜天大神」を挙げていて、両社とも古くは「竜天大明神」と通称されていた名残を残しております。

 

 

No.20飯野高宮いいのたかみや

 

「阿佐加藤方片樋宮」に奉祀して4年。

 

垂仁22年。「天照大神」の遷御が再開され、「飯野高宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「飯野高宮神山神社」「神戸神館神明社」「牛庭神社」「久尓都神社」「滝野神明社」「花岡神社」など。

 

ここでは、「飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)」としておきます。

 

 

「櫛田川」のほとりに立つ社。ちなみに「櫛田川」は、倭姫命が櫛を落とした場所を「櫛田」と名付けたことが由来…と「元伊勢伝承」は語っています。

 

下流に「櫛田神社」がありまして、「博多祇園山笠」「博多くんち」のお祭で知られる福岡県は博多の総鎮守「櫛田神社」は、ここから勧請されたんだそうですよ。

 

 

と、いきなり逸れた話を戻して、神山神社の主祭神は「猿田彦命」と「天鈿女命(あめのうずめ)」。

 

天鈿女命は「天の岩戸事件」の時、岩戸に引き籠もった天照大神を引っ張り出すために、生まれたままの姿(何)で踊った女神さまですねー。ファイナルヌード!

 

「天の岩戸事件」の次に出番がやって来たのは「天孫降臨」の時。

 

瓊瓊杵尊の前に、突如現れた「太陽神」の如き輝きを放つ猿田彦命。あまりの異様な姿に手も足も出せない一行。

 

何を考えたのか瓊瓊杵尊は、女神である天鈿女命に「何者なのか尋ねて来い」と命じます。

 

天鈿女命は、得意の(?)ファイナルヌードで接触。

 

思わず猿田彦命が「なんでそんなコトしているの?」と口を開いてしまい、緊迫した雰囲気は解除されます。作戦成功、人選正解。

 

「あなたは何者ですか?」

「私は国津神の猿田彦命」

「ここで何をしているのですか?」

「天孫が降りると知り、案内をしようと待ち構えておりました」

 

この「問うて答えさせた」というやり取りから、天鈿女命は猿田彦命と夫婦になったとされています。

 

「神山神社」は、そんな夫婦を祀っているわけですねー。

 

「飯野高宮」では、猿田彦命と天鈿女命の苗裔である「太田命(おおたのみこと)」が、倭姫命らと天照大神に奉仕することになったという伝承が語られます。

 

続けて「遂に五十鈴宮に向ふを得た」という決意が描かれていて。

 

猿田彦命・天鈿女命の末裔の協力を得て、ついに「内宮」へと向かう道筋が立てられた…ということになりますかねー。

 

 

No.21佐佐牟江宮ささむえのみや

 

「飯野高宮」に奉祀した同年。

 

垂仁22年。「天照大神」の遷御が再開され、「佐佐牟江宮」に遷されることになりました。

 

現在の「竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)」に推定されています。

 

 

「飯野高宮」から「伊勢街道(現・県道428号)」を東へ11kmほど。

 

「五十鈴宮に向かう神意を得た」と言っていたのに、すぐには行かない御一行。焦らさないでよ、もうw(何)

 

「竹佐々夫江神社」の「竹」は、このあたりの地名「多気(たけ)」のこと。

 

「多気」は、平安時代の「伊勢斎宮」が詰めた「斎宮」のある場所でもありました。

 

平安時代、藤原兼輔(紫式部の曾祖父。『百人一首』27番歌の詠み人)は、「伊勢斎宮」となった柔子内親王(宇多皇女)を伊勢まで送る「長奉送使」として同行していました(899年)

 

その後の延喜13年(913年)、柔子内親王は病気をしたらしく、見舞いに訪れた兼輔が「宮様は長生きしますよ。病気なんて大したことない、大丈夫です」と詠んだ和歌が『新勅撰和歌集』に収録されています。

 

 

勅使にて斎宮へまゐりてよみ侍りける

くれ竹の 世々の宮こと きくからに
君は千年の うたがひもなし


藤原兼輔 / 新勅撰 雑 453

 

「くれ竹(呉竹)」は「節(ふし/よ)」や「世々(代々)」「言の葉」に繋がる枕詞ですが、斎宮がある「多気(竹)」の掛詞にもなっています。中々にお上手ですw

 

ともあれ、「多気」にあったという「佐佐牟江宮」が、後の「斎宮」になったのかな…と思いきや、「斎宮」は「竹佐々夫江神社」よりも、もっと内陸にあります。

 

違う場所なんかい。焦らしまくりですねw

 

(なお、竹佐々夫江神社の主祭神は素戔嗚尊(すさのを)…これは斎宮にしづらいかw)

 

(「飯野高宮」から「佐佐牟江宮」へ向かう、ちょうど真ん中の「伊勢街道」沿いに「斎宮」があります。2つの真ん中に設けたのには、何か意味が…?)

 

 

「佐佐牟江宮」は、祭祀の際に奉献される稲束「懸税(かけちから)」発祥の地。

 

これより5年後の垂仁27年(「五十鈴宮」に遷座した年)。「佐佐牟江宮」で真鶴が稲穂をくわえて鳴いていると、倭姫命に報せが舞い込みます。

 

倭姫命は感じ入って、「その稲を刈り取り大御神に献じよ」と号令。これが「伊勢神宮」最古にして最大の祭典「神嘗祭」の起原となっていきました。

 

「天孫降臨」の時、瓊瓊杵尊が「三種の神器」とともに持って降り立った「稲穂」が、ここで「伊勢神宮」とも結びつく…という、印象深い出来事。その舞台だったわけです。

 

 

倭姫命が「佐佐牟江宮」の近く「大淀の浜辺」に巡幸した時、天照大神のお告げが降ります。

 

この神風の伊勢の国は
常世の浪の重浪しきなみする国なり
傍国かたくに可怜うまし国なり
この国にらんとおも

 

神風が吹く伊勢の国は、常世からの波が繰り返し繰り返し寄せられる国。大和の国の傍らで海幸山幸の恵みがある美しき国。この国に居たいと欲します。

 

「伊勢の国に住みたい」という明確なお告げ。

 

それを、ただ空と海と風とだけがある、海辺の砂浜で受け取った倭姫命。

 

とても絵になる場面ですな。

 

 

No.22伊蘓宮いそのみや

 

「佐佐牟江宮」に奉祀して3年。

 

垂仁25年。「天照大神」の遷御が再開され、「伊蘓宮」に遷されることになりました。

 

推定地には「磯神社」「相鹿上神社」が挙げられていますが、ここでは「磯神社」とします。

 

 

宮川の河口付近に築かれた社。伝承によると、倭姫命は「小舟」に乗って来たようです。北へ150メートルほどに上陸推定地(垢離場)があります。

 

定例の「名を問うて答えさせる」では、内宮の摂社・末社の方々が多く登場しますが、ここでは割愛して(やるとしたら別の機会の方がいいでしょうから)、祭神さまから日本神話的雑談へと広げていきます(笑)

 

 

主祭神は「天照大神」「豊受大神」「木花開耶姫命」「顕国御魂神(うつしくにたま)」「菊理媛神」「大山津見神(おおやまづみ)」など。女神さまが多め。

 

「開耶姫」は瓊瓊杵尊の奥さん。「大山津見神」は開耶姫のお父さん。

 

「顕国御魂神」は、出雲大社の主祭神・大国主神(おおくにぬし)のたくさんある異名の1つ。

 

素戔嗚尊が仕掛ける数々の試練を乗り越えた大国主神が、「これを名乗るがよい」と授かったのが、この「うつしくにたま」。いわば、素戔嗚尊による「葦原中国を支配する者に与えた免許証」とも解せる異名です。

 

これと関係があるのか、「磯神社」では素戔嗚尊の「八岐大蛇(やまとのおろち)退治」の所作をなぞる「七起こしの舞」という神事が古式ゆかしく行われているそうな。

 

「菊理姫神」は、白山姫命と同一視される女神ですが、神話ではイザナギとイザナミのエピソード中に登場します。

 

「黄泉の国」で亡くなった妻・イザナミと再会したイザナギは、変わり果てた姿に恐怖して逃げ去るのですが、ついには「黄泉比良坂(よもつひらさか)」で追いつかれてしまい、夫婦で口論になります。

 

そこに現れたのが、菊理姫神。さっそくイザナギに何かを耳打ちすると、2人は仲違いを終了(何を言ったのかは不明)。

 

2人の夫婦喧嘩を仲裁したことから、菊理姫神は「縁結びの神」としても信仰されることになりました(「きくり」は「くくり=括り」で、複数をスタックにする=縁を結ぶという意味にも通じるとか)

 

注目なのは「イザナギに」何か耳打ちしていること。つまりイザナミの弁護をしているわけで、菊理姫神は「イザナミの和魂」ではないか…とも言われます。

 

菊理媛神が「白山信仰」の中心になっていくのは何故なのか?の答えは不明ですが、「白山信仰」の大元が「イザナギとイザナミ」で、2人を仲裁した菊理媛神が加わって三柱となり、やがて山岳信仰の安全を願う観点から「イザナミの和魂=菊理媛神」が重視されるようになったのでは…なんて考えたりするのですが、どうでしょうかねー。

 

と、散々解説してみましたが、そんな菊理媛神が「磯神社」で祀られている事情には、どう繋がるのだろう。

 

もしかしたら…?という妄想はあるのですが、それは次の「大河之滝原之国」で…ということで。

 

 

No.23大河之滝原之国おおかわのたきはらのくに

 

「伊蘓宮」に奉祀した同年。

 

垂仁25年。「天照大神」の遷御が再開され、「大河之滝原之国」に遷されることになりました。

 

現在の「瀧原宮」に推定されています。

 

 

「磯宮」から宮川を遡上すること42km。

 

天照大神は「大淀の浜辺」で「常世の波が繰り返す伊勢に住みたい」と言っていたのに、何故か山の中へと巡幸。倭姫命のイジメっ子気質がバクハツ(笑)

 

それとも、このあたりにあった何かの「憂い」を解決してから…という思惑でもあったんですかね…?

 

「違う違う、山の中じゃない」という天照大神の神意があったのか、それとも解決したかった「憂い」の正体なのか、ここで倭姫命は2回「怖い目」に遭っています。

 

 

1回目は、佐見都日女(さみつひめ)が参上した時。

 

倭姫命が「国の名は?」と問うと、何も答えてくれませんでした。

 

ただ、黙って堅塩を献上し、御饗を奉るだけ。

 

大勢力である倭姫命に反抗はしないけれども、唯々諾々として従う気もありません、とでも言いたげな。無言の抵抗…とも思われる、佐見都日女の態度。

 

倭姫命の伊勢廻りは順風満帆ではなかった…ということを示唆しているかのようです(「倭姫命は慈しんで堅多社を定めた」とあるので、罰したり討伐したりということは、なかった模様)

 

 

2回目は、荒崎姫が参上した時。

 

倭姫命が「国の名は?」と問うと「皇太神の御前の荒崎」との答え。

 

この時の倭姫命の反応が「恐しと詔して神前社を定められた」。恐れ畏まった…と記述されています。

 

荒崎姫は「天照大神の荒魂」、または「素戔嗚尊の御子神」…と理解されています。それなら恐れても仕方ないですね(笑)

 

そこで注目したいのが「瀬織津姫(せおりつひめ)」という女神。

 

誰…?というと、実は素戔嗚尊の娘。荒崎姫が「素戔嗚尊の御子神」ならば、この女神がそれに当たる可能性があるのです。

 

瀬織津姫の最大の特徴は、「穢れを払う」祝詞『大祓詞』の中に登場する4柱のうちの1柱なのに、何故か「日本神話」には全く登場しない、謎の女神であることなのです。

 

 

ところで、天照大神って「女神」だと思っていません?

 

天照大神は「太陽神」。太陽の「陽」は男性が属するもので、古今東西「太陽神」と言えば、普通は「男神」が象られます。伊勢の大元の太陽神と目される「猿田彦命」も男神でしたよね。

 

今でこそ天照大神は「女神」ですが、本来は「男神」であったと考えられています。

 

じゃあ、何故「女神」になったのか?

 

太陽神に仕えていた巫女がそのまま神格化して女神に…という例もあって、天照大神が女神なのは、そのパターンではないかとも言われます。

 

それ以外に、歴史の勝者に改変された…という説もあり。その事情は飛鳥時代「伊勢神宮」の制度を整えた天武天皇の妻で、自身も皇位に就いた、持統天皇にありました。

 

持統天皇は、夫である天武天皇が崩御した後、皇位を継いでいます。

 

一応、持統天皇は「前天皇の妻」という正統性、そして天智天皇の娘なので「元天皇の娘」という血統上のアドバンテージもありました。

 

しかし、天武天皇には皇子が何人もいたのに、なぜ「息子の誰か」ではなく妻が即位するのか?とても不自然。

 

それは、天武天皇と持統天皇の唯一の子である、草壁皇子。

 

彼の系統を皇位に就けたい…と、持統天皇が願ったからなのでした。

 

「私の子の系統以外が皇位に登るのは許さん。他腹の皇子に皇統を獲られるくらいなら、私が即位する」

 

強気で即位した持統天皇は「自分の正統性・支持が弱い」のが悩み。そこで考えついた企みの1つが「最高神を女神にして、女帝という自分や草壁皇子系の正統性を高める」だったと言われています。

 

まぁ、天武天皇の没後は混乱があったようで、天皇の葬儀や持統天皇の即位、朝廷の人事などに多くの疑問があって、この「天照大神が女神になる」も、よく分からない謎の1つなのですが。

 

持統天皇は「伊賀」「近江」「美濃」と、まるで倭姫命の足跡を辿るような行幸を行っています(一般には、夫の「壬申の乱」の足跡と言われていますが)

 

そして、崩御する直前の702年に「伊勢行幸」を強行しています。亡くなる寸前の身体に鞭打ってでも、持統天皇は伊勢で何をしたかったのか?

 

その答えが「天照大神を女神にする」だったのでは…なんて言われているわけです。

 

夫への愛、息子への愛、孫への愛、そして父の愛…持統天皇には「女性の愛」のすべてが表されている気がする。ワタクシが大河ドラマになって欲しいナンバー1の御方です(ホンマにならねーかな)

 

 

さて、前提情報を解説した所で話を戻して、祝詞には盛大に登場しているのに、神話では全く姿を見せない、謎の女神・瀬織津姫。

 

その正体は、男神だった頃の天照大神の「妻」だったのではないか…とも言われています。

 

素戔嗚尊の娘であれば、天照大神の妻になるのは相応しい神格。「天照大神の荒魂」という正体も、夫を(最高神なのに)尻に敷いている鬼嫁感があって面白いです(笑)

 

しかし、「天照大神は女神です」と改変するには、「妻」がいるのでは大層不都合。ということで、権力者・持統天皇によって「日本神話」から封印されてしまったのではないか…と考えられるわけ。

 

けれども、伊勢の山奥の伝承まではいじれなかった…それが「荒崎姫」の伝承として残っているのかも。恐れ入ったのは倭姫命ではなく、持統天皇がいじったことを知った、伊勢の人々だったのかもしれません。

 

ただ、山奥の伝承には手出しできなかった持統天皇も、河口に建つ「磯神社」の伝承は改めることができたのではなかろうか。

 

「磯神社」で祀られている「菊理媛命」。これ本当は「瀬織津姫」だったのを、持統天皇が挿げ替えた後の姿なのではなかろうか…なんて妄想したりするんですが、どうでしょうかねー。

 

もしそうだとしたら、数多ある女神の中でも「縁結びの神」である菊理媛命を選んだのは、大変興味深いです。

 

持統天皇と天武天皇は「オシドリ夫婦」と言われているのですが、生まれた子供は草壁皇子ただ1人。さらに天武天皇は他の女人には和歌を送っている記録があるのに、持統天皇には1首も送った形跡がありません。

 

仲のいい夫婦…というのは後世の称揚であって、実態は仮面夫婦、あるいは天武天皇は、そんなに持統天皇を愛してはいなかった…のかもしれず。

 

自分の死を予期して伊勢へやって来た持統天皇が、せめて来世は夫に愛されたい…と、菊理媛命を選んだ…としたら、面白いなとw

 

なーんて長々と語りましたが、このあたりは妄想話ですので、与太話のつもりでお願いしますね(汗)

 

(ちなみに、瀬織津姫は霊峰「六甲山」の隠された主神とも言われています。「白山」の主神と同一視されている菊理媛命と、似たような神格があったというのも面白いですね。まぁ、与太話の捕捉ではあるんですが…)

 

 

なお、「瀧原宮」は『元伊勢』の中で唯一「別宮」に指定されています。

 

「別宮」というのは「正宮(内宮と外宮)」に次ぐ地位をもつ社のこと。

 

こういう別格な扱いを受けているのも、妄想欲をくすぐるんですよねーw

 

 

No.24矢田宮やだのみや

 

「大河之滝原之国」に奉祀した同年。

 

垂仁25年。「天照大神」の遷御が再開され、「矢田宮」に遷されることになりました。

 

「矢田宮」は現在、それらしき社がありません…もしかしたら森の奥に、今も知られぬ社があるのかもしれない。

 

ただ、「神宮神田」としては存在していて、現在進行形で「伊勢神宮」に奉仕している繋がりはあるようです。

 

 

「矢田宮」のすぐ近くには、この次の「家田々上宮」に推定されている「大土御祖神社」があります。

 

名称も「矢田(やた)」と「家田(やた)」でとても似ていて、何か関係があるのかもしれないですね。

 

 

No.25家田々上宮やたのたのうえのみや

 

「矢田宮」に奉祀した同年。

 

垂仁25年。「天照大神」の遷御が再開され、「家田々上宮」に遷されることになりました。

 

現在の「大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ)」に推定されています。

 

 

「五十鈴川」のほとりに立つ社。内宮の入り口「宇治橋」まで3km。

 

1年の内に「伊蘓宮-大河之滝原之国-矢田宮-家田々上宮」と目まぐるしい遷座。

 

もっとも、ここも同年中に移動してしまうせいか、ややこしい伝承はなし…語ることも特になし(笑)

 

主祭神は「大國玉命」と「水佐々良比古命」「水佐々良比売命」の水神夫婦。

 

 

No.26奈尾之根宮なおしねのみや

 

「家田々上宮」に奉祀した同年。

 

垂仁25年。「天照大神」の遷御が再開され、「奈尾之根宮」に遷されることになりました。

 

現在の「那自賣神社(なじめじんじゃ)」に推定されています。

 

 

内宮の入り口「宇治橋」まで1.6km。もう目の前ですねw

 

御祭神は「大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)」と「御裳乃須蘇比売命(みものすそひめのみこと)」で、二柱とも五十鈴川の守護神。

 

「奈尾之根宮」では猿田彦神の苗裔、大田命が参上し、「国の名は何そ」と問うと「さこくしろ宇遅の国」と申し上げた…と伝承では語られます。

 

「宇遅の国」にかかる橋だから「宇治橋」なのか…と同時に、最終段階に至って猿田彦神が顔を出しているのが印象深い。

 

 

天照大神は「伊勢」を「常世の波が繰り返し押し寄せる国」と表現していましたが、「常世」は「神の国」とも「あの世」とも受け取れます。

 

それを念頭に考えてみると、「伊勢」は猿田彦命が最期を迎えた地。

 

もしかしたら「常世の波の~」とは、それを暗に言っていたのかもしれません。

 

「伊勢神宮」は、どことなく「猿田彦命の最期の地」という強いマイナスのパワーを、プラスのパワーに転化しているスポットに、見えなくもないような気がします。

 

でも「だからここに居たい」というのは、どういう真意だったのだろう?

 

比羅夫貝に引き摺り込まれて溺死した猿田彦命は、3柱の「泡の御魂」に変化しましたが、「興玉命(おきたま)」という神様にもなりました。

 

「伊勢」で「興玉」といったら「猿田彦命」のこと。覚えておいて損はありませぬ。

 

そして、「伊勢神宮に参る時は、ここで心と身を清めるのが古代からの習わし」と言われる「二見興玉神社」も、猿田彦命に会える神社となっています。

 

 

二見は、倭姫命が「五十鈴宮」へ導かれる際に小舟から上陸した地…とも言われるようです。

 

ワタクシは「伊勢参り」をしたことがないので、どんな土地勘なんだか分かりませんが、「二見興玉神社」で禊をして「外宮」に行って「内宮」に参る…というのは、随分と迂遠なルートになってしまうような気もするのですが、さて…。

 

 

No.27五十鈴宮いすずのみや

 

「奈尾之根宮」に奉祀した翌年。

 

垂仁26年。「天照大神」の遷御が再開され、「五十鈴宮」に遷されることになりました。

 

『元伊勢』伝承の最終目的地、現在の「皇大神宮(伊勢神宮 内宮)」です。

 

 

豊鋤入姫命が奉仕すること54年。

倭姫命が奉仕すること34年。

 

88年の長旅の末に辿りついたのが、神風吹く伊勢の五十鈴川のほとり。

 

永遠の社が、ここに定まりました。

 

 

その後の倭姫命については、分かるような分からないような…という状態。

 

垂仁99年、父の垂仁天皇が崩御(単純に計算すれば「五十鈴宮」鎮座から73年後)

 

それから20年後の景行20年、景行天皇の皇女である五百野皇女(いおの)が2代目の「伊勢斎宮」となり、倭姫命は退下したとされます(史上初の「伊勢斎王群行」)

 

景行天皇紀は、ほぼ「ヤマトタケル伝承」。

 

景行40年、景行天皇の皇子・ヤマトタケルが東国討伐を命じられ、出立。

 

途中「伊勢神宮」に立ち寄って、叔母である倭姫命から「天叢雲剣」を授かり、「草薙の剣」の伝承へ繋がっていったとされます。

 

でも、この時ってもう退下していたのでは…?と、すでに年代の辻褄が合わなくなっています。

 

まぁ、このあたりのお話は、ヤマトタケルについて語ることがあったら、その時に…ということで。

 

『元伊勢』の歴史については、これにて終幕。

 

ここまで長々と読んで頂きまして、誠にありがとうございましたー。

 

ではでは。

 

 

 

 

 

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