2024年は、昭和99年にあたるんだそうで。

 

なので今日は昭和99年9月9日となるわけなんですねー。

 

…だから何?といっても、別に何でもないんですが…(笑)

 

 

というわけで、唐突に始めてしまった『元伊勢』の歴史の続きを。

 

9月9日は、菊の花を愛でる「重陽の節句」。

 

菊の紋を掲げる天皇家ゆかりの伊勢神宮について語るのも相応しかろう(これが最終章だったらバッチリだったんですが、中編というw)

 

 

今回からは「初代伊勢斎宮」となった、倭姫命(やまとひめのみこと)の旅路をご紹介していきます。

 

先代の豊鋤入姫命は、倭国(No.1)から丹後(No.2)へ行ったと思ったら、また倭国(No.3)に戻り、紀伊(No.4)と吉備(No.5)を巡って、また倭国(No.6)へ戻る…という、行ったり来たりの旅をしました。

 

これに対して倭姫命は、鈴鹿山を迂回するように、ぐるっと伊勢に向かう道筋を辿っています。

 

天照大神の覚悟が「永遠の社は伊勢だ」と定まったことを表すかのよう。

 

というわけで、前回の「三輪山」の続きから、見ていきたいと思います。

 

 

No.7宇多秋宮うだあきのみや

 

弥和乃御室嶺上宮」に奉祀すること2年。

 

崇神60年。「天照大神」の遷御が再開され、倭国は「宇多秋宮」に遷されることになりました。

 

現在の「阿紀神社」に推定されています。

 

 

崇神天皇の都城「磯城瑞籬宮(しきの みずかきの みや)」からは、南東に11kmほど。仮にそのまままっすぐ進むと、現「伊勢神宮(内宮)」に着きます。いいぞ、方向は合っている!(何)

 

NHKの人気番組(?)『やまと尼寺精進日記』の舞台「音羽山観音寺」でお馴染み「音羽山」の山麓にあります(観音寺から見ると反対側の山麓…かな)

 

阿紀神社は、神武天皇必勝祈願の地。

 

「神武東征」の時、神武天皇は鳥見国(生駒山のあたり?)で首長・長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭い、兄を失うほどの大敗を喫してしまうのですが、あることに気が付きます。

 

「天孫なのに朝陽に向かって攻めたのが良くなかった。朝陽を背にして攻めよう」

 

そこで、海路で紀伊半島を迂回して熊野に上陸。陸路北上し「阿紀」に着くと、ここを前線基地として天照大神を祀り、倭国へ進攻。

 

八咫烏の協力もあって長髄彦を見事に撃破し、饒速日命(にぎはやひ)を降伏に追い込んで、ヤマト政権樹立を達成したのでした。

 

そんな神武天皇ゆかりの地なれば、「倭姫命」の第一歩としても相応しい…かな。

 

 

なお、長髄彦を討った際、功労者・大久米命(おおくめ。久米氏の祖)や道臣命(みちのおみ。大伴氏の祖)が兵士(久米部)たちと唱和したとされる「久米歌」には、こんな歌詞が出てきます。

 

神風の 伊勢の海の 大石にや

い這ひ廻る 細螺しただみの 細螺の

吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り

撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

 

現在も良く使われる「神風」の由来(出典?)となっている歌詞。

 

日本初の神風は、神武東征の最終局面に、伊勢湾で吹いていたのですねー。

 

 

No.8佐佐波多宮ささはたのみや

 

宇多秋宮」に奉祀すること4年。

 

崇神64年。「天照大神」の遷御が再開され、倭国は「佐佐波多宮」に遷されることになりました。

 

現在の「篠畑神社」に推定されています。

 

 

「宇多秋宮」からは北東へ12km。同じ宇多地域内での移動ですね。

 

なお、正史『日本書紀』における「元伊勢伝承」は、最初の「倭笠縫邑」の次は「菟田の筱幡」、つまり「佐佐波多宮」となっています。

 

これまでの行程は『日本書紀』では一切無視。だからといって『元伊勢』が誤った歴史だ…と言い切れやしないのは、もちろんのことです。

 

しかし、なんで全カットなんだろうと、理由は知りたいものですな。

 

 

そんな『日本書紀』もスルーしなかった「佐佐波多宮」では、ある大きな出来事が起きています。

 

「宇多秋宮」を発つ前夜、倭姫命の夢に天照大神が現れます。

 

「志して行く所に良いことがあれば童女に会えるよう、誓約をなさい」

 

そこで童女に出会えるよう誓約を行うと、「佐佐波多」の入り口で「宇太の大祢奈(おおねな)」という童女と出会います。

 

「あなたは?」と問うと「天見通命(あまのみとおし)の孫。八佐加支刀部(やさかきとめ)の子です」という素性。

 

「天照大神に奉仕しますか?」と問うと「はい」と答えたので、大祢奈は「伊勢神宮」に至る旅を供にすることになりました。

 

大祢奈は天照大神の「大物忌(朝夕の大御饌のお供えや正殿の開閉などの神事を司る)」という重要な役目に任命されることになったといいます。

 

 

No.9隠市守宮なばりいちもりのみや

 

佐佐波多宮」に奉祀した、同じ年。

 

崇神64年。「天照大神」の遷御が再開され、伊賀国は「隠市守宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「宇流冨志禰神社」「三輪神社(名張市)」「蛭子神社」「名居神社」と定まっていません。

 

ここでは「宇流冨志禰神社(うるふしねじんじゃ)」としておきます。

 

 

「佐佐波多宮」から北東へ14km。いよいよ「伊賀国」へ足を踏み入れました。

 

「名張(なばり)」は、かつて「隠(なばり)」と表記されていたそうで。

 

「伊賀」で「隠」というと、「忍者の隠れ里」なイメージが湧きますなw

 

(「No.3:伊豆加志本宮」のあった初瀬では「隠国」で「こもりく」と詠ませていましたが、「なばり」とも読むんですね。難読漢字テストに出てきそう)

 

 

奈良時代、「鹿島神宮(茨城県)」から「武甕槌神(たけみかづち)」の分霊を「春日大社」に勧請した時、一時的にここに留まった…という伝承があるそう。

 

名張川沿いに行くと「積田神社(春日大社奥宮)」があったりもして、春日大社と関係が深い地域となっています。

 

宇流冨志禰神社の近くにある「鏡池」が春日大社の近くにある「猿沢池」と繋がっていて、「あちらが濁るとこちらも濁る」なんて言われています。三重県と奈良県で、35kmほど距離が離れているんですが…(汗)

 

「春日大社」は「元伊勢伝承」からは随分と後世の話ですけどね。

 

 

名張は、江戸川乱歩の生まれ故郷でもありますね。ただし誕生後すぐに転居したので、後年まで「見知らぬ故郷」だったと、乱歩は述懐しています。

 

「見知らぬ故郷」…なんだか「懐かしい未来」みたいな?「江戸川乱歩」「隠」の言葉の響きと相乗効果もあってミステリアスな言葉ですなw

 

 

No.10穴穂宮あなほのみや

 

「隠市守宮」に奉祀すること4年。

 

崇神66年。「天照大神」の遷御が再開され、伊賀国は「穴穂宮」に遷されることになりました。

 

現在の「神戸神社」に推定されています。

 

 

「隠市守宮」からは北東へ11km。木津川のほとりにやって参りました。

 

倭姫命は木津川の川上で採った鮎を、天照大神に献じていたといわれています。

 

その古例に倣って、神戸神社は現在でも、旧暦6月の「伊勢神宮の月次祭(つきなみさい)」に干鮎1800尾を献上しているそうです(「初魚掛祭」)。

 

伝説の時代から現在へと続く、元伊勢と伊勢神宮の繋がりですなー。

 

 

「元伊勢」が「穴穂宮」に遷って2年後の崇神68年。

 

「天照大神」の遷御を願った崇神天皇が崩御。宝算120。

 

崇神皇子で、倭姫命の父である活目入彦尊(いくめいりびこ)が即位して「垂仁天皇」となりました。

 

倭姫命は「天皇の皇女」となりましたが、「元伊勢伝承」の旅は、まだまだ続くことになります。

 

 

No.11敢都美恵宮あえとみえのみや

 

「穴穂宮」に奉祀すること4年。

 

垂仁2年。「天照大神」の遷御が再開され、伊賀国は「敢都美恵宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「敢國神社」「都美恵神社」の2つ。

 

ワタクシは「敢國神社」のような気がしていますが、せっかくなので両方をご紹介します。そうすれば「敢國神社」に傾いている理由も分かるかな。

 

まずは「敢國神社(あえくにじんじゃ)」から。

 

 

「穴穂宮」から北へ13km。服部川を渡れば「伊賀上野城」の城下町(=忍者の町)。

 

この城は天正13年(1585年)に筒井定次が築城したのが始まりなので、当時は何もなかったのか、それとも豪族の館でもあったのか(慶長13年(1608)に異動して来た藤堂高虎が改築したのも有名ですかね。現在の天守閣は、昭和の再建です)

 

 

「敢国神社」は「伊賀国一之宮」。

 

社伝によると斉明天皇4年(658年)の創建で、「元伊勢伝承」よりもだいぶ後世のこと。「元伊勢」までのつながりは、よく分かりません。

 

主祭神は「大彦命(おおびこ)」で、崇神天皇時代(倭姫命より1世代前)に各地へ派遣された「四道将軍」の一角です。

 

古代豪族・阿部氏は、大彦命の末裔を自称しています。「敢国」の「敢」は「あえ=あへ=阿部」であり、「阿部さんの国」というかんじもあって、こちらも強いつながりがありそうですな。

 

なお、斉明天皇の次代である孝徳天皇(斉明の同母弟)の時代に、朝堂1位の左大臣の座にあったのが、阿倍内麻呂で、古代阿部氏の繁栄を象徴する人物でもあります。

 

大化の改新の黒幕(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11441484993.html

 

 

続いては、「都美恵神社(とみえじんじゃ)」。

 

 

「穴穂宮」から北へ23km。伊賀国のはずれ…といったかんじ?

 

『伊賀国風土記』によると、この一帯「柘植」地域には2~3世紀という古くから出雲出身の氏族が移住していたみたい。

 

「伊賀の事志の社」に坐していたのが「伊勢津彦命」という神様で、「伊勢」の由来になった…とされます。

 

「伊賀国」に「伊勢」の由来の神がいたというのも面妖な話ですが、実際「柘植」は「敢国」よりも伊勢寄りの場所にあります。かつては「伊勢国」だったんですかね?(だとしたら、「伊賀国の敢都美恵宮」という「元伊勢」伝承の記述からは外れてしまうんですが…)

 

 

初代・神武天皇の時代、天日鷲神(あめのひわし。忌部氏の祖)が伊勢津彦命のもとに派遣され、国譲りをするよう要求。しかし、伊勢津彦命は長く住んでいたことを理由に断わります。

 

すると、天孫勢力が軍備を整えて強硬姿勢に出たので、恐れて東方へ避退する旨を通達。夜のうちに「強風」を巻き起こし「波を追い立て」ながら東方へと去って行きました(ここから「伊勢津彦命=風神」の性格が見えますね)

 

この事績を称え、詔によりこの国津神の名をとって「伊勢」という国名になった…というわけ。

 

その後「信濃」に辿りついたとも言われ、諏訪の主祭神「建御名方神」との共通点を指摘する声もあるみたい(本居宣長など)

 

ワタクシは「伊勢の名の由来の神」が風神の性格を持っていて、そこに前述した「神風と伊勢の海」の関連が臭ってくるのが気になるんですが…w

 

というわけで、「戦わずして天孫勢力に敗れ去った」伊勢津彦命ですが、一方で「戦って天孫勢力に勝利した」伝承もあります。

 

伊勢津彦命は「石の城」を造って住んでいたのですが、「阿倍志彦神」という神が、それを奪いにやってきます。

 

伊勢津彦命は「石の城」に籠って応戦。阿倍志彦神は勝てずして去ることになった…という伝承があり、この「阿倍志彦神」が「敢國神社」の主祭神とも言われています。

 

「阿倍志彦神=大彦命」とするなら、天孫勢力を追い返した…となりますね。

 

「元伊勢」の「敢都美恵宮」に名乗りを上げる2社ですが、かつては戦い合った仲…というわけでしょうか。

 

「敢都美恵宮」から「敢國神社」の「敢」を除去したら「都美恵」になる…というのも、険悪だったかつてを思い起こさせるようなかんじがしますな(^^;

 

(伝承では「伊勢津彦命=初代・神武天皇期の人」で、倭姫命の少し前の人である崇神天皇とは、かなり時代の差があります…と、一応捕捉)

 

(籠っていた「石城(いしき)」が変化して「いせ(伊勢)」になったとも言われます)

 

こうして見ると、「敢都美恵宮」は「敢國神社」で、「都美恵神社」は彼らが追い払った国津神「伊勢津彦命」を祀っていた場所(石城そのもの?)…というかんじがしますが、さてはて。

 

「元伊勢」伝承に「伊勢国の名の由来」を盛るために、あえて名乗りを上げている…というかんじもあるのかなぁ。

 

 

なお、「敢都美恵宮」に遷座した翌年の垂仁3年。

 

「富士山本宮浅間大社」が創建されました。

 

 

富士山は7代・孝霊天皇の御世に大噴火があって、山麓は長らく荒廃し果て、これを憂慮していた朝廷が、復興させる目的もあって浅間大社が計画された…と言われています。

 

主祭神は木之花咲耶姫命(このはなさくやひめ)。

 

「天孫降臨」の伝承で知られる瓊瓊杵尊(ににぎ)の妻とされる女神さま。

 

咲耶姫命は一夜にして子ができたのを夫に「俺の子ではないのでは?」と疑われ、火の中で出産して潔白を証明したと言われています。このお話から「火災避けの神通力」をもつと信じられ、火山である富士山の守り神に祀られた…というわけですな。

 

ともあれ、浅間神社って伊勢神宮より歴史が古いんですね。

 

 

No.12甲可日雲宮こうかひくものみや

 

「敢都美恵宮」に奉祀すること2年。

 

垂仁4年。「天照大神」の遷御が再開され、近江国は「甲可日雲宮」に遷されることになりました。

 

現在の推定地は「日雲神社」「日雲宮」「甲可日雲宮」「垂水斎王頓宮」「田村神社」など、定まっていません。

 

ここでは、素直に「甲可日雲宮」としておきます。

 

 

「敢都美恵宮」の「伊賀」から北へ向かい、「甲賀」に到達。

 

後世の者から見ると「忍者の里」をハシゴしているように見えますね。当時はまだ忍者はいかなったでしょうけど…(忍者の前身とも言われる山伏の登場も飛鳥時代以降だし)

 

推定地の1つ「垂水斎王頓宮」は、「甲可日雲宮」の近隣に跡地があります。

 

「伊勢斎宮」の制度が出来た後、選ばれた皇女は京から伊勢神宮へと、はるばる「斎王群行」の旅に出ました。

 

この時に宿泊する場所の1つが「頓宮(とんぐう)」。

 

途中「近江国府」「甲賀」「垂水」「鈴鹿」「壱志」の5箇所の頓宮で各1泊し、6日目に斎宮へ入るのが通例だったそうで、「垂水斎王頓宮」は、その内の1つだったわけですね。

 

また、推定地の1つ「田村神社」は、垂仁天皇45年に「倭姫命」の生霊を祀って建てられたのですが、名前の由来は平安時代の人物「坂上田村麻呂」にあやかっています。

 

嵯峨天皇の御世(平安時代初期)、この甲賀から伊勢へ抜ける「鈴鹿峠」には鬼(山賊?)の「大嶽丸」が棲みついていて通行不可の難所でした。

 

これを勅命を受けた田村麻呂が退治。交通の障害を取り除いた田村麻呂の遺徳を仰ぎ、この神社が創建されたとされています。

 

(現在は甲賀側の麓の田村川のほとりに「田村神社」があります)

 

ということは、倭姫命の時代はまだ鬼の出没する場所で、「甲可日雲宮」の次に伊勢ではなく近江へ向かったのは、伊勢へ抜けられなかったからのかな…?なんて考えられそう。

 

先程の群行日程も、田村麻呂の鬼退治後に開かれたものなんでしょうけど、「垂水頓宮」と「鈴鹿頓宮」の間である「鈴鹿越え」は、道中最大の難所だったみたいです。

 

 

そんな「垂水斎王頓宮」には、斎宮女御の歌碑が立っているそうです。

 

斎宮女御は歌人として知られている人物(「三十六歌仙」かつ「女房三十六歌仙」)

 

朱雀天皇期(平安時代中期)の「伊勢斎宮」で、醍醐天皇の孫娘・徽子女王(よしこ。父は重明親王)。斎宮を退下した後、村上天皇の女御となったので「斎宮女御」と呼ばれました。

 

 

円融院御時 斎宮下り侍りけるに
母の斎宮もろともに越え侍りて

世にふれば またも越えけり鈴鹿山
昔の今に なるにやあるらん


斎宮女御/拾遺集 雑 495

 

「長生きをしたので、再び鈴鹿山を越えることになりました。昔が今になったのでしょうか」…のような意味。

 

村上天皇との間に生まれた規子内親王は、円融天皇期の伊勢斎宮に選ばれるのですが、その群行の時に円融天皇の制止を振り切って、伊勢まで娘に同行。

 

こうして人生2度目の「鈴鹿越え」を行った時に詠まれたのが、先の和歌というわけですねー。

ちなみに、鈴鹿山の和歌は「"鈴"鹿山」ということで「ふる」がよく掛詞として使用されているそうです。徽子女王の歌も「世に"ふれ"ば」と詠まれておりますな。

(『光る君へ』では、第1話から円融帝が退位する第4話まで、規子内親王が「伊勢斎宮」にあったことになります)

 

 

なお、倭姫命が「甲可日雲宮」に遷座した翌年の垂仁5年。

 

都では「狭穂彦王の乱」という、大変なことが起きていました。

 

狭穂彦王(さほひこ)という、垂仁天皇の皇后・狭穂姫命(さほひめ)の兄にあたる人物が反乱を起こしたのです。

 

狭穂彦王と狭穂姫命の兄妹は相思相愛の関係で、兄が「天皇の寝首を掻け」と匕首を渡します。

 

しかし、狭穂姫命は実行できず、グズグズしている間にバレてしまい、反乱が露見。

 

驚いた天皇は、狭穂彦王に討伐軍を差し向けるのですが、狭穂姫命は「兄を説得できなかった」ことを恥じて兄のもとに走り、燃え盛る稲城の中でともに亡くなってしまったのでした。

 

狭穂姫命は死地に赴く前、「次の皇后には日葉酢媛命をお立てください」と遺言を伝えていたみたい。

 

日葉酢媛命(ひばすひめ)は倭姫命の生母。彼女の立后(垂仁15年)により、倭姫命は「皇后の娘」となりました。

 

 

そして、その翌々年の垂仁7年には「相撲節会の起原」と呼ばれる天覧相撲が行われています。

 

一方は「当麻蹴速(たいまのけはや)」。

大和国當麻の怪力自慢を誇る猛士。

 

相方は「野見宿禰(のみのすくね)」。

出雲国の名が知れ渡っていた勇士。

 

垂仁天皇は2人を呼び寄せて捔力(すまひ)で対戦させ、結果は野見宿禰の勝利。

 

蹴速は腰を蹴り折られ、壮絶な最期を遂げたと言われています。

 

なお、野見宿禰は、学問の神様「菅原道真」の遠い祖先とされる人物です(菅原氏は大江氏の分家筋なので、大江氏も主な末裔の1つ)

 

スミレとウメのタフガイ(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788586757.html

 

「元伊勢」伝承は、そんな頃のお話ですよー、ということで余話としてw

 

 

No.13坂田宮さかたのみや

 

「甲可日雲宮」に奉祀すること4年。

 

垂仁8年。「天照大神」の遷御が再開され、近江国は「坂田宮」に遷されることになりました。

 

現在の「坂田明神宮」に推定されています。

 

 

「甲可日雲宮」から北へはるばる52km。

 

「元伊勢」伝承は甲賀から鈴鹿山を越えて伊勢へ…ではなく、北上して近江平野へ。


ここは伊勢神宮の領田(神田)である「坂田御厨」が広がる地でもあり、「坂田」は「言祝ぎ」の枕詞になっていったそうです。

 

 

仁安元年 大嘗会悠紀歌奉りけるに 稲舂歌

近江のや 坂田の稻を掛け積みて
道ある御代の初めにぞ


皇太后宮大夫俊成/新古今集 賀歌 753

 

近江国の坂田の稲を稲木に掛け積み、王道の御代の初めの大嘗会に臼づきます…みたいな意味。

 

というように、水田が広がる坂田の地に、琵琶湖を眺望する最高のロケーション。

 

これまで散々山の中で「遷座」して来たのに、突然に平地への移動となりました。

 

 

垂仁天皇の時代、このあたりを治めていたのは、息長氏(おきなが)という古代豪族なのですが、この氏族は倭姫命の母方の親族でした。

 

倭姫命の母は、先述した通り日葉酢媛命という女人ですが、この人は丹波道主命(たんばのみちぬし。四道将軍の1人)の娘。

 

丹波道主命は、彦坐王(ひこいます。開化天皇皇子)の息子で、母が息長水依姫(みづよりのひめ)という息長氏の女人。

 

まとめると、倭姫命の母方系譜は「息長水依姫-丹波道主命-日葉酢媛命-倭姫命」。

 

つまりこの地は「曾祖母ゆかりの地」というわけなんですねー。

 

天皇家略系図 崇神天皇~応神天皇

 

なお、当時の統治者は息長宿禰王(すくねおう。神功皇后の父)だったようです。

 

曾祖母の故郷だから来たかどうかは不明ですが、山がちだった「元伊勢」伝承は「坂田宮」を境に、今後は平地が多くなっていきます。何かコンセプトが変わったんですかね?

 

 

No.14伊久良河宮いくらがわのみや

 

「坂田宮」に奉祀すること2年。

 

垂仁10年。「天照大神」の遷御が再開され、美濃国は「伊久良河宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「天神神社」「名木林神社」「宇波刀神社」など、定まっていません。

 

ここでは「天神神社」としておきます。

 

明治時代より前は「伊久良河宮天神社」と呼ばれていたそう。現住所も「居倉」で「伊久良」と通じますね。

 

 

「大和→伊賀→甲賀→近江」と巡って来た倭姫命の旅も、いよいよ「美濃」へ。

 

伊吹山を越えて、関ケ原を過ぎて、揖斐川(いびがわ)周辺で鎮座。

 

これまでは、琵琶湖から大坂湾へと続いて行く「淀川水系」沿いでしたが、ここからは伊勢湾へと繋がっていく「木曽川水系」を辿るのかな…といった水運目線が先を急かしますなw

 

 

「天神神社」には、天照大神の神輿を安置したという「御船代石(みふなしろいし)」があるのですが、その周囲はかつて神聖な「禁足地」だったみたい。

 

幕末の嘉永2年(1849年)、このあたりで原因不明の熱病が流行。

 

村の人々で話し合ったところ、「この禁足地が原因ではないか」となり、神主が発掘を決意しました。

 

「良くないものが出たら処分し、尊いものが出たらお祀りしよう」

 

そこで掘ってみると、なんと弥生~古墳時代の「神獣文鏡」(の一部)が出土。

 

神主がこれを祀ると、熱病はピタリと治まったそうな…というお話があり。

 

上古の時代は、祭器は人の目に触れないように土に埋めたらしいので、「神獣文鏡」が出土したってことは、本当に古代の祭祀場があったと考えてもいいのではなかろうか。

 

「元伊勢」伝承との関わりも気になりますね(一応「弥生時代」ですからね…倭姫命の活躍期って。ワタクシは疑問視しておりますが…)

 

 

ちなみに、「伊久良河宮」に遷座してから2年がたった垂仁12年。

 

朝鮮半島で動乱があり「百済」が建国されています。

 

古代の百済と言えば、吉備国に棲みついていた鬼「温羅(うら)」。「百済から来た」とされているのです。

 

温羅は、倭姫命の1世代前に当たる崇神天皇の時代に「四道将軍」の1人・吉備津彦命(桃太郎のモデル?)によって討伐されたと言われるのですが、そうすると時代が…?

 

まぁ、温羅は出雲や九州の出身説もあるので、百済にこだわることはないんですけども。

 

 

No.15中島宮なかしまのみや

 

「坂田宮」に奉祀すること4年。

 

垂仁14年。「天照大神」の遷御が再開され、尾張国は「中島宮」に遷されることになりました。

 

推定地は「酒見神社」「浜神明社」「丸宮神明社」「御園神明社」などなど。

 

ここでは「丸宮神明社」としておきます。

 

 

「中嶋宮」は大正7年(1918年)、「神社合祀令」によって「八剱社」に合祀されてしまったみたい。

 

しかし、「元伊勢」の名前を歴史から消したくない…と願った人々によって、名前だけは何とか残した…という経緯があるようです。

 

「丸宮神明社」は、現住所の地名「丸宮」を冠した名称。他にも「中嶋宮伝承地」が点在しているので、遠慮して(ややこしいので?)この名前で呼ばれている…ということでしょうか(GoogleMapでは、堂々と「中嶋宮」を名乗ってますw)

 

 

1年も満たず、同年の内に次へと遷座。

 

伝記では尾張の国主たちがこぞって貢物をしたようですが、噂によると「倭姫命」一行は、あまり歓待されなかった…なんて話もあるようです。

 

後年「三種の神器」の1つ「天叢雲剣」がやってくる尾張らしからぬ態度に思えますが、尾張氏と倭姫命・天照大神、あるいは大和朝廷との間に、何かあったのだろうか。

 

そこんところの真相は不明なんですが、1つ妄想してみることは、できまして。

 

「元伊勢No.2 吉佐宮」で、現在「外宮」に祀られている豊受大神と、天照大神は出会ったらしい…というお話を前回に語りました。

 

「羽衣伝承」を重ねてみると、豊受大神は天に還りたかったのに、天照大神が羽衣を奪ってしまったので戻れず、後に「外宮」で天照大神に仕える身になってしまったのかも…という、どーでもいい想像(笑)も付け足しました。

 

この「籠神社」で豊受大神を祀っていたのは、「海部氏(かいふ)」という一族なのですが(現在も「籠神社」社家の一族)、彼らは尾張氏の関連氏族です。

 

ということは、「豊受大神」は「尾張氏の神」とも言えることになります。

 

とすると、吉佐宮から連れて来た「豊受大神」に対する、倭姫命たちの態度・待遇に、何かしら気に入らない所を見止めて機嫌を損ねてしまった…という可能性もあるのかな?

 

後に豊受大神が「外宮」で「奉仕する神」になる身を思うと、そんな想像をしてしまいたくなるんですが、どうなんでしょうかねー。

 

 

まぁ、真相は「天照大神」のお導きだから(=人の都合じゃないので)短期滞在も仕方なかったんだよ…ってあたりですかね。次からいよいよ「伊勢」ですし(^^;

 

 

 

というわけで、『元伊勢』伝承がいよいよ伊勢へと入っていくまで進んだところで、今回はこれまで。

 

15か所を紹介して、残り12か所。ワタクシ「27社+α」もの神社を紹介するのは初めてで、ペースをつかみかねております(笑)

 

もしかしたら、オタノシミニ。

 

 

 

 

 

【関連】

神社仏閣の歴史シリーズ