大河ドラマ『光る君へ』第29話「母として」見ましたー。

 

 

藤原宣孝、卒去。

長保3年4月25日(1001年5月20日)没。52歳(推定)

 

藤原詮子、崩御。

長保3年閏12月22日(1002年2月7日)没。40歳。

 

前回の定子の崩御に続き、第1話からレギュラー出演していた宣孝、詮子たち2人のクランクアップ。

 

寂しくなってまいりましたね…。

 

 

冒頭、天皇の健康と長寿を祈る「御薬の儀」で、帝が飲み切れなかった薬を飲み干す「後取(しんどり)」という名誉な役割を授かった宣孝。

 

片や、父・兼家が夫(円融天皇)を弱めるため薬(毒物?)を盛ったことに反抗して「生涯薬を飲まない」と誓い、病床に斃れた詮子。

 

「薬」を題材に正反対の描写があった2人が、同時期に亡くなる…というのは、脚本の妙ですかねー。

 

 

というわけで、今回も気になった所などを、挙げていきたいと思います。

 

 

 

◆鈍色の清少納言

 

主人が亡くなったことで、鈍色の喪服を着た清少納言が、『枕草子』の味見(?)を願いに、久々に まひろの元を訪れます。

 

 

清少納言の喪服姿は、高階貴子が亡くなった時(第22話「越前の出会い」)以来、2回目。

 

以前、訪れて「宮仕えしようと思いますの」とおっしゃっていた時とは、雰囲気がガラっと…。

 


大河ドラマ『光る君へ』第14話「星落ちてなお」より

 

さっそく、『枕草子』を拝読するまひろ。

 

「お美しく聡明でキラキラと輝いておられた皇后さまと、この世のものとは思えぬほど華やかであった後宮のご様子が、後の世まで語り継がれるよう、私が書き残しておこうと思いましたの」

 

しかし、まひろにはイマイチ味が足りなかったみたい。

 

「ただ私は皇后さまの影の部分も知りたいと思います」

「人には光もあれば影もあります」

「人とはそういう生き物なのです」

「それが複雑であればあるほど魅力があるのです」

「そういう皇后さまのお人となりをお書きに…」

 

すると、喰い気味に清少納言が制します。

 

「皇后さまに影などはございません」

 

思わず勢いで言ってしまったので、ちょっと姿勢を正して、それでも反論はやめません。

 

「あったとしても書く気はございません」

「華やかなお姿だけを人々の心に残したいのです」

 

清少納言の台詞は、今回もバッチリですね♪

 

ノンフィクションであっても「事実が全て書いてある」と「書いてあることは全てが事実」とは、似ているようで異なるもの。

 

前者は、重大な意思決定の判断材料を集めて報告する「情報」の時の手段(戦闘指揮や戦略・政治のプランを立てる時など)

 

『枕草子』は「随筆」なので、後者で行くのがセオリー。どこを切り取って、どう表現するか…?そこが腕の見せ所なんですね。

 

実際、「中関白家と定子への挽歌、鎮魂歌」たる『枕草子』は「随筆」で行って千年後にも定子の「印象表現」になっているから、清少納言の判断は良かったことになりますよね(もっとも「情報」としての日記を他の人たちが残してくれたからこそ…の部分もありながら)

 

「随筆」は「事実を書く」と同時に「事実を(あえて)書かない」というのも、重大な手腕の1つです。道長の悪業を1つも書かなかったことで、かえってそれが浮かび上がってくる…というのは『枕草子』を読んでみると感じられることだったりします。

 

これを強火で言われたまひろは、「はぁ、どうもすみませんでした」な感じで、いまいち納得しないながらも、本人が言うなら仕方がない…と引き下がるようなかんじになりました。

 

まひろのいう「影の部分を知りたい」って「人とは何かを知りたい」ということなんでしょうけど、ノンフィクションでやると大抵は悪趣味な暴露で終わるだけ。

 

それが必要なこともたまにはありますが、「人に楽しく読んでもらいたい」ならば、「作話」にしてフィクション風味を足すことが必要になります。

 

とはいえ、フィクションが効き過ぎると「妄想話」の域になってしまって「伝えたかった事実」がぼやけたり、かすんだり、伝わらなかったり、誤って伝わったりしてしまうので要注意。

 

あれこれ考察するのが好きな人にはたまらない題材になるんでしょうけど…

 

なお、清少納言が描かなかった定子の悲しい物語は、『栄花物語』に綴られることになります。一説に赤染衛門が書いたとも。

 

これは歴史物語…文中の台詞や仕草は本人の記録ではなく、著者の創作が多めでしょうから「作話」の括りになってしまうんでしょうかね(「情報」と「作話」の真ん中あたり?)

 

ちなみに、現代の新聞は「情報(事実が全て書いてある)」で行かなければいけないのに「随筆(書いてあることは全てが事実)」にもならず、「作り話」になっているのが問題…と、諷刺もチラっと垂らしておきます(笑)

 

 

ききょうの「皇后さまのお命を奪ったのは左大臣」と言い放ったのは、定子の最期のシーンで伊周が言っていたのを、鵜呑みにしたのでしょうか。

 

これ、リアル道長がリアルにやらかした所業なんで、ワタクシは「本当になー」と同情したかったのですが…。

 

『光る君へ』では架空のホワイト道長なので、そんな事実はなく、「ただ難癖をつけているだけ」に見えてしまうのが、見ていてモヤっとしました…。

 

こういうこと言わせたいんだったら、リアルの道長を描けばよかったじゃん。

脚本家が何がしたいのか、本当分からん時がよくあるわね。

 

 

◆正妻さまのから伝言

 

為時が「受領功過定」を通過できず、無官になることが決定。

 

なお、為時が「越前守」に就任した時、「除目」は道長が務めていましたが、その後に辞表を出した時から右大臣の顕光に役目を譲っていたようです(もちろん、影響力を残したままとは言うまでもなく)

 

劇中でも、道長は「審議の場」にはおらず、直盧で報告を受け取っておりましたね(時代考証さん仕事してるw)

 

「道長が除目に直接拘わっていない」と「為時が無官になった」の関係性は、史実の方では分かりませんが、今作では為時に並みならぬ想いを抱いているので、この描写は上手く機能していたのではなかろうか。

 

為時の一件を、まひろに報せに来た宣孝。「越前宋人のことが解決できなかったから」…みたいなこと言ってましたけど、どちらかというと「付け届け」不足だったんじゃない?って、紙漉き職人が余分にくれた紙を返そうとしていた今作の為時を見ていると、手に取るように分かります(笑)

 

まひろ「宋人の扱いは大変でございました」←慣れない羊肉をほおばったくらいでエラそうなこと言うw

 

そんなかんじで、まひろと宣孝、最後の夫婦団欒が描かれ。

 

「わしはお前に惚れ切っておるゆえ、どこへも行かぬ」

 

絵に描いたような死にフラグを立てて、言ったそばから逝ってしまう…。

 

「翌朝、国守を務める山城国府へと出掛けた宣孝は、それきり戻ってこなかった」

 

という山城国府は、現在の「離宮八幡宮」のあたりにあったとされます。

 

 

山城国と河内国の境目付近。だいぶ遠いですね…。

 

まひろの元に、宣孝の"北の方"さまから使者がやってきて、一連の報告がなされます。

 

「山城守 藤原宣孝は、にわかな病にて4月25日に身罷りました。弔いの儀も済ませましたので、お知らせいたします」

 

「にわかな病とは…?」さすがのまひろも、驚きを隠せず。

 

「北の方さまは、豪放で快活であった殿様のお姿だけを、お心にお残し頂きたいと仰せでございました。私どもも、ご最期のご様子は存じませぬ」

 

穢れに触れないように気を使ってくれたのか、宣孝のお気に入りだったまひろを避けたのか、"北の方"さまの真意は知る由もなく。

 

なお、宣孝は痔病を患っていて、この年の春日祭の役目を辞退する旨を上表していることが『権記』に記され、さらに一説には(痔病と症状が似ている)「大腸がん」だったのではないかとする説があります。

 

だから、だいぶ苦しみながら亡くなったのかも…と想像すると、"北の方"さまの「明るい所だけを心に残しておいてほしい」というのは、気遣いでは…とも思えます。

 

また、宣孝の正妻って、まひろが生まれた頃には結婚していて、まひろのことを宣孝から「親戚の娘」の話として昔から聞かされていたのかもしれず。

 

自分の娘のように思っていたとしてもおかしくはない…。やっぱり気遣いかな。

 

ともあれ、"北の方"さまの「豪放で快活であった殿様のお姿だけを、お心にお残し頂きたい」は、ききょうの「華やかなお姿だけを人々の心に残したいのです」と同じことを、正妻から聞かされた形になり、ききょうの台詞は『枕草子』のことと思わせて、この伏線になっていたんですかね。

 

定子を愛するがゆえに「華やかな所だけ知って欲しい」という、ききょう。

 

宣孝を愛するがゆえに「豪放で快活な所だけを心に」という、北の方さま。

 

ということは、「人には光もあれば影もあり、それが複雑であればあるほど魅力的。私はそれを知らしめたい」と願う まひろは、宣孝を深く愛してはいなかった…という裏返しになる…?

 

いやいやまさか…と思いたいけれど、「賢子は不倫の子で托卵」という余計な設定が、ここでも悪い方に効いてきて…。

 

おまけに、まひろは宣孝の死について「娘を抱いて涙を見せただけ」でスパッと忘れ、鈍色の喪服も着ません(妾だから着ない…?いやいや、現実の紫式部は、喪服を着ている様子が『紫式部集』で詠まれています。後述)

 

さらに、帰国した為時を「娘のためも就職して下さい!」ってケツ叩くほど、ケロっとしている…(1ヶ月くらいしか経ってないですよね?)

 

「妾は夫の死因や最期の様子を知ってはいけないというの?そんなの惨すぎる!」というような描写が1つでも入っていたら、また印象は違ったかもしれないのに…。

 

「惟規、ちょっと調べて来て!」「えっ、俺が!?」でも可(←第3話「謎の男」のリフレインw)

 

『源氏物語』も「物語が好きそう」な賢子のために書き始めたっぽいところがあったり。

 

「『源氏物語』の作者のドラマ」としては、かなり得点を減らしていますな。

 

 

◆オールラウンダー敦康

 

体調がすぐれない詮子を、道長がさすってあげているところで、唐突に詮子が言い出します。

 

「敦康親王を人質に取りなさい。彰子に育てさせるのです」

 

自分の孫を「人質」と言ってしまう詮子。敏腕で冷酷な政治家・東三条院の面目躍如…かと思いきや、かつてのお父様の発言が脳裡に甦っていたようです。

 

「かつて父・兼家も懐仁親王を人質にした」というのは、兼家が「円融天皇が自分以外の誰かと結んで、懐仁親王を即位させるのを防ぐ」ため。

 

今回も「一条天皇が自分以外の誰かと結んで、敦康親王を即位させるのを防ぐ」ため…という、そっくりな構図があるわけですね。

 

仮想敵は伊周という、明確なビジョンがあるのが違うかな…といったところ?ともあれ、この点では「人質」であることは間違いなさそうです。

 

しかし、あの時は兼家にも円融天皇にも「懐仁親王を即位させたい」という共通の目標がありました。

 

今回は「敦康親王を即位させたい」という共通認識が、道長にはありません。「彰子が産む子を即位させたい」のですからね(大河ドラマでは、その意思は謎に希薄ですが…)

 

「敦康親王を即位させたい」という共通認識は、詮子にはある可能性が高いです。彰子はまだ子供を産める年齢ではないので、ひとまず敦康親王を…というのが念頭にあるのでしょう。できれば道長の孫がいいけれど、円融皇統が続くのなら敦康でもいい…と、道長とは優先順位は違っていそうです。

 

でも、それ「人質」?ふつうは「保険」って言わないかな(^^;

 

そして、「敦康親王が彰子のもとにいれば、一条天皇も通ってくるようになる」とも言ってましたが、それ「人質」じゃなくて「エサ」でしょうに(^^;

 

こうして、単身で「人質」「保険」「エサ」すべてをこなすオールラウンダー敦康親王は、円融皇統の「宝」でございますねw

 

それが何故、あんな末路になったのか…(みなまで言うな)

 

道長も、一度は戸惑いながらもあっさりと受け入れて、帝に上奏。

 

以前、鈍色の喪服を着た定子にお目通り叶った際に、「お腹の子を頼む」と言われたことを思い出して(第22話「越前の出会い」)、「私は以前、定子さまから御子息たちのことを頼まれておりますゆえ」とか言ってくれるかな?と期待していたら、全くナシでしたね…。

 

確かに、あの時のお腹の子は敦康ではなく長女でしたけど…(だったら、あのシーンは何のためにあったんだろう。懐妊していることを知らしめるためだけ?)

 

 

なお、敦康親王が彰子の元で養育されることになったのは、史実では行成が働きかけたことが大きかったようです。

 

長保3年2月28日(1001年) 、行成は「敦康親王家別当」の職務を任されます。

 

敦康親王について発言する権利を得た行成は、一条天皇に拝謁するごとに、敦康親王を彰子に養育させることを提言していたといいます。

 

「かつて、馬皇后(後漢の明帝の皇后)が "自分が産んだのではない皇太子" を愛養し、章帝という立派な皇帝に育てあげ『賢后』と讃えられました。敦康親王さまも皇后さま(彰子)にお預けし、この故事のように愛養させるべきと考えます」

 

一条天皇を説得するのに、故事を持ってくるのは中々に賢いw

 

なぜ、そんなことを提言していたのかというと、もしも彰子が皇子を生まなかった場合に備えて、敦康親王をキープしておくのは、道長にとって大きなメリットだったから。

 

…というのは、もちろんあったでしょうけど、伊周よりは道長の庇護下に入った方が、敦康親王のためになる…と考えたからなんでしょうね。

 

行成の敦康親王ファースト。それは、亡き定子への御奉公だという存念もあったと、ワタクシは思いたい。

 

こうして、ついには彰子の庇護下に入ることが決定。行成は感慨深そうに「今日に至り此の事を遂げた」と『権記』に記しています(長保3年8月3日条)

 

『光る君へ』では、こうした行成の苦労&功績はスルー(涙)

 

詮子からけしかけられた道長が意見を上奏し、比較的あっさりと通って、いざ彰子と敦康親王がご対面。

 

 

一目見るなり、だだだーっと駆け寄って、膝にぽーん(かわいい)

 

天皇がお渡りにならず、貝合わせなどして欝々と暮らしていた彰子でしたが、初めて「ほほ笑み」のような表情になりました。母性本能がくすぐられた…といったところ?

 

本編の何処かで『枕草子』をして「この書物の評判は、道長を脅かすこととなる」と言ってましたが、どちらかというと、この母子愛こそが「道長を脅かす」ことになりかねなかったんですよね…。

 

(しかし、『枕草子』を悪役にしないと『源氏物語』の立志伝を描けないと言うのも情けない…まだ予想の範疇ではありながら、そういう流れだろこれ…)

 

 

◆四十賀

 

長保3年10月9日(1001年)。

詮子の「四十賀」が、「土御門第」で開催されました。

 

東三条院さまもついに初老に…(奇しくも放送日は「初老ジャパン」がパリ五輪の馬術で92年ぶり銅メダルを取った日w)

 

なお、この日はまだ定子の服喪期間。

祝賀会を華やかにやってもいいの?と思ってしまいます。

 

…まぁ、実際にやっているから仕方がないんですが。

家中行事だから…ってことなんですかね。

 

一条天皇が入場して粛々と開催。

詮子の孫である敦康親王も顔を見せます。

 

あんまり親子三代というかんじがしないのは、詮子の「愛されない人生」が反映しているかのよう。

 

そして「一条天皇たっての願い」で、道長の正妻・倫子と、側室・明子の2人が同じ会場に…という事態に。

 

斉信「今日の連舞は、北の方の長男"田鶴君"と高松殿の長男"巌君"だそうだ」

公任「道長らしくない」

俊賢「帝の御所望だと、妹明子が申しておりました」

公任「それにしても、妻を二人同席させるのは、ないな」

 

「妻を二人同席させるのは、ないな」←本当にな(しかし当の本人・道長はすました顔…どういう思考回路してるんだろ)

 

倫子の長男・田鶴と、明子の長男・巌(道長からすると次男)が、元服前の子が舞いを御覧ずる「童舞(わらわまい)」を務めます。

 

この時、田鶴は「陵王(りょうおう)」、巌君は「納蘇利(なそり)」を舞いました。

 

陵王って仮面付けなかったっけ…?子供用の面はない…ってことなのかな(通常は面をつけますが、童舞ではつけないのが慣例…らしい)

 

なお、SNS情報によると「陵王」は中国から伝わったので「赤」、「納蘇利」は朝鮮半島から伝わったので「青」と、装束の色が決まっていたんだそうです。

 

一条天皇が巌君の舞いを絶賛し、巌の舞の師・多好茂が「従五位下」の栄爵を賜ったのは本当のこと(ちなみに、この先生は道綱の舞いの師でもあります。欲を言えば、その時に道綱からの言及も欲しかったね…あの場にいたんだし)

 

一条天皇が巌君の舞いを賞賛したのは、彼が明子の所生だから…なんでしょうね。

 

明子は『光る君へ』でも描写があった通り、詮子のほぼ養女だった女性。

詮子の「四十賀」で賞賛することで、詮子を喜ばせたかったのでしょう。

(もしかしたら、そのために巌君を「御所望」したのかも?)

 

しかし、道長はそれが気に入らず不機嫌となり、お上を迎えているにも関わらず、退去して寝所に引き籠もってしまったそうな。

 

といっても、巌を疎遠にしていたのではなく、おそらくは倫子(土御門第での出来事なので、倫子は出席しています)への配慮と言われています。

 

不機嫌になってエラい人が来ているのにプイっといなくなっちゃうのは、いかにも「気は長いけど気性は荒い」道長らしいエピソードなんですが、ここでは悔しさで泣いてしまった田鶴を「祝いの席で泣くな」と窘める…というお話に改変。

 

このあと、詮子が病で(呪詛で?)苦しんで、駆け寄る一条天皇に「触るな!帝としての仕事に支障が出るから!」という「母として」のシーンをやるため、道長には退去させられなかった…というわけですかね。

 

(でも、激賞された甥っ子を見て涙ぐむ俊賢は、良かったですw 兄に勝って良かったな…という感情が見えましたね)

 

なお、詮子は10月9日「四十賀」の3ヶ月後、閏12月22日に崩御しますが、その間の10月27日には「石山寺参詣」を行っています。

 

まだまだ元気です。「四十賀」で重篤に陥ってしまうのは、だいぶフライングな描写になってしまいましたね。

 

 

◆第三世代と母の肖像

 

ところで、『光る君へ』も第三世代の登場が目立っているので、せっかくなので今回登場した子たちも、少しまとめておこうかなと。

 

「四十賀」で童舞があったのを奇貨に…というか、ねw

 

 

ついでに、ちらっと出て来て舞いの練習を披露してくれた、伊周の息子(松…のちの道雅)も一緒にしてみましたw

 

伊周の息子と長男の田鶴が、実は同い年で正暦3年(992年)生まれ。なので、今回は9歳。一条天皇に褒められた巌君は1歳年下の8歳ということか。

 

生まれた正暦3年~4年は、『光る君へ』に当てはめると第15話「おごれる者たち」の頃にあたります(ドラマ中で990年から994年へスキップ)

 

ちなみに、道雅は『百人一首』63番歌の詠み人。「いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで言ふよしもがな」で、このブログでも何度か取り上げてます。

 

そういえば、松くんの母親が初登場。道雅の母ということは、源重光の娘。

OPクレジットを確認してみたら、役名は「源幾子」でした。

 

第14話「星落ちてなお」で、高階貴子が伊周の嫁探しのために「和歌の会」を開催し、伊周が1人の女性を見初めた…?というシーンがありました。

 

ききょうが最初にまひろの元を訪れたのは「和歌の会」を愚痴るためでしたね。

 

道雅は第15話「おごれる者たち」の頃の生まれですから、あの時の女性は源幾子だったはず。久しぶりの登場ですかね…と確認してみると。

 


道雅の母(源幾子)

「和歌の会」参加者

 

全くの別人…じゃあ「和歌の会」のあの人は誰だったんだろう。源致明の娘?登場人物削ってスマート大河を目指している(としか思えない)割りには、こういうヤリ捨て多過ぎなんだよな(「五節の舞姫」の時のあの人とか、「倫子の女子会」の参加者とか)

 

なお、源幾子は、醍醐源氏。代明親王の孫娘にあたります(公任や行成の母の従姉妹というわけですな)

 

系図で見てみよう(醍醐源氏/代明親王)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12838983981.html

 

田鶴の母・倫子は、ご存知の通り左大臣・雅信の娘。宇多源氏。

巌君の母・明子は、「安和の変」で左遷された高明の娘。醍醐源氏。

 

こんなかんじで源氏は源氏でも色々と違ったり同じだったり、フクザツなんですよね…(整理して分かると、色々なものが見えて来て面白いんですけどね)

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

 

『紫式部集』では、なんと詮子が崩御したことを、紫式部が詠んでいる和歌が収められています。

 

それは「ある人(誰かは不明)」との贈答歌で、宣孝の逝去と時期が近かったこともあって、関連付けるかのような形になっています。

 

 

いたう霞みたる夕暮に 人のさしおかせたる

雲の上も 物思ふ春は墨染に
霞む空さへ あはれなるかな



ある人 / 紫式部集 40


返し

なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ
霞の衣なべて着る世に


紫式部 / 紫式部集 41

 

(夫を亡くした年の)たいそう霞がかった夕暮れに、(喪服を着ている私のところへ)ある人が使いを出して寄越した和歌

宮中でも、女院が崩御して物思いをする春が巡ってきまして、墨染の色に霞む空までもが、あわれを誘います。

返事

どうして私は、この薄っぺらい小さな袖を濡らしているのでしょうね。誰もが女院様のために喪服を着ているこの時世に、私だけが違う喪服を着て。

 

 

宣孝が亡くなったのは、4月25日の夏。

紫式部は「ひとえ(裏地なし)」の夏用の喪服を着続けていました。

(亡くなった季節の喪服を着続ける慣わしだったそうな)

 

詮子が亡くなったのは、閏12月なので冬。

世間の人々は「あわせ(裏地あり)」の冬用の喪服を着ていました。

 

「ほどなき袖」というのは、「冬用の厚手の喪服を着ている」世間と「夏用の薄手の喪服を着ている」私、そして「女院という大きな存在を悼んでいる」世間と「取るに足らない夫の死を嘆いている」私という対比を掛けて表しています。

 

「女院と夫の格の差」を比べる自虐的な和歌ですが、「それでも私は夫の死を悼む」という、筋を通した紫式部の凛とした姿勢が見えてくるような。

 

ドラマ中では、まひろが夏用の喪服を着ていないので、おそらくこれを詠むシーン(詞書によると、詮子が亡くなった翌年の春)はないでしょうな…。

 

 

『紫式部集』でそれまで一語もなかったのに、夫の死を境に頻繁に現れるようになる言葉が、2つあるそうです。

 

1つ目は「世」。世間や浮世など。

人を取り囲む逃れようのない「現実」。

 

2つ目は「身」。身体や身の上など。

死ぬまでを、ただ「世」に縛られ過ごすしかない「現実」。

 

「時間(身)」と「空間(世)」の「現実」を憂う、救われない期間が詠み込まれていくわけです。

 

紫式部の人生を詠み返してみれば、母、姉、友、筑紫の君と大切な人を次々と失って、それでも前を向いていたのに、夫を失ったことで絶望の淵を覗き込んでしまった…というイメージが浮かびます。

 

何も変わらない、憂いしかない人生。

 

そう思っていた紫式部は、やがて新たなキーワードを「発見」します。

 

それは「心」。

 

ずっと変わらないと思っていたのに、いつしか夫と死別した悲嘆は小さなものになっていたことに気が付きます。

 

「世」も「身」も変わらないのに、「心」は変わっていくと、気づいたのです。

 

「心」は「身」に縛られるもの。

「身」は「世」に縛られるもの。

 

であるならば、全く新しい「世」を作り出せば、「心」は自由になるのではないか?

 

全く自由で、全く新しい「虚構」の世界。

 

「世(ヨ)」と「身(ミ)」で閉じられていた「ヨミの窓」が、「夫の死(黄泉の旅立ち)」をきっかけに開き、自由を求める「心」が『源氏物語』の誕生へと繋がっていく。

 

…というストーリー展開を想像していたのですが。

 

宣孝の死を全く意識した素振りの無い『光る君へ』は、そのルートは辿らないようで…(笑)

 

果たして、夫の死という一大ファクター無しで、どのように『源氏物語』は誕生するのか?

 

ここから先が脚本家の腕の見せ所…でしょうかね??

 

 

 

愛人(道長)のために書いた物語とか、『枕草子』のアンチテーゼ/カウンタープロットとか、つまんない展開だけはやめてくれー(心の叫び)

 

 

 

 


↑巌君役・渡邉斗翔さんのSNSより
本当は仲のいい田鶴と巌の中の皆さん(かわいい)

 


↑藤原道綱役・上地雄輔さんのInstagramより
堤邸に道綱@現代服verという幾重にもあり得ない写真(笑)

 

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html