大河ドラマ『光る君へ』第27話「宿縁の命」見ましたー。

 

 

「ニーハオ ヘンガオシン ジィェン ダオニー」

 

邂逅を果たした「石山寺」で、まひろが道長に促され、挨拶として話しかけた宋の国の言葉。

 

字幕で他に情報がなかったので、色々な方法を駆使して、自力で意味を探してみた結果(道長おまえ…「どういう意味だ?」って聞けよ…もう!)

 

hǎo hěn gāo xìng jiàn dào

 

「お元気ですか。お会いできて嬉しいです」

 

…と言っていたのかなー??(正解は分からん)

 

 

2週間ぶり、七夕夜の放送を延期して久しぶりの放送となった、第27話。

 

「またお会いできてうれしいです」

 

というような視聴者は、もちろんいらっしゃるでしょうが、

 

「会わなければよかった…」

 

となった人も少なくなかったようで…(特に平安クラスタ)

 

 

 

というわけで、今回も気になった所などをリストアップして行きたいと思います。

 

 

 

◆多忙の宣孝

 

久しぶりに、まひろ宅に通ってくる宣孝。

 

「よろこべ!」

 

たくさんの役目を左大臣から仰せつかり、絶好調の様子。

 

「11月に行われる賀茂の臨時祭にて、神楽の人長(じんちょう)を務めることとなった!」

 

神楽の人長は、舞人のトップですねー。

 

「人長舞」という舞いを奉納する役目だそうで、どんなもんか…?と探してみたら、こんなかんじっぽいです。

 

 

茅の輪みたいな輪っかが付いた大きな榊を持って、単身で舞うのかな。

 

目立つ目立つ…派手好きだったという宣孝の面目躍如w

 

今回は「賀茂臨時祭(北祭)」でしたが、宣孝は「石清水臨時祭(南祭)」でも人長を務めたそうです。

 

宣孝はデキる男ですなーw

 

「宇佐八幡宮への奉幣使(ほうべいし)として豊前にも参る!」

 

こちらは、天皇即位や変災の時、宇佐神宮に幣帛(へいはく)を持って行く役目。

 

ちなみに、「宇佐八幡宮」は豊前(大分県)にある、全国八幡社の総本宮。

 

 

京からは、片道およそ20日あまりかかったらしいです。遠いですな…。

 

当時は「神事=まつりごと」ゆえに、重要な役目を担う奉幣使には、一定の身分と品格が求められていたそうな(五位以上)。

 

 

朱傘を差しかけられて参道を練り歩く勅使一行…こちらも目立ちますね(笑)

 

お祭りではないけれど、大きな名誉ですな。

 

「まひろのおかげで、俺も大事にされておるのだ」

 

笑顔の宣孝に対し、表情が固い まひろ。

 

「おとなしく心を入れ替えました」

「憎まれ口を叩かないと恐ろしい」

 

デリカシーのない軽薄な受け答えをしていくうちに、徐々に打ち解けていく2人。

 

「あまり人並みになるなよ」

「では…時々人並みになります」

 

今回の持ち込み土産は、大和の墨と、伊勢の紅。

 

「どこへ行ってもまひろを思っている」

 

灰をぶっかけて喧嘩別れした夫婦仲は、これで一応は回復。

 

まぁ、まひろには取り返しのつかない一夜があったんですけどねw

 

 

その結果となってしまった、「紫式部の娘は道長の子」問題。

 

まひろが正直に宣孝に話したこと。

まひろに罪の意識がちゃんとあったこと。

宣孝が承知のうえで「まるごと引き受ける」の宣言通りに処したこと。

 

「何が起ころうとお前を失うよりマシだ」という美学。

「一緒に育てよう」という笑顔。

 

これらで、呑み込めなくもないカタチにはなってくれた…のですが。

まぁ、呑みにくいこと呑みにくいこと、この上なし(苦笑)

 

「紫式部の娘は道長の子」問題についてのワタクシの見解は、かなり長いので(笑)この記事の最後で述べますね。

 

 

そうそう、このシーンの冒頭で、宣孝が梁(天井?御簾?)に烏帽子をぶつけていましたけど、これって「小さなまひろの家」に久しぶりに来たから、目測を誤った…ってことなんですかね。

 

妻問いや仕事で、あちこちの広い家に通っているうちに、目がそっちに慣れてしまっていた…とも取れそうな。細かい演出ですなー。

 

 

◆華のない后がね

 

赤染衛門先生、久しぶりに登場!(13話から14話ぶり)

 

どうして今まで姿を見せなかったの??という理由は、作中では語ってくれませんでした…。

 

人づてに聞く春ぞ悲しき(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12858577488.html

 

倫子に招かれたのは、入内する方針が決まった彰子の「教育係」を依頼するためでした。

 

「勉学はいらないわ。何かこう…華やかな艶が欲しいの。みんなが振り返るような明るさが」

 

あの明るさの権化のような定子に対抗するには、陰気で意思のなさそうな彰子では、心許ないですからね…(しかし、同じ土俵に立って勝負できる相手でもなさそうですが)

 

「あの子が興味を持つようなことは何かないかしら…」

 

 

ぱっと見、猫に興味がありそうですが、そんな程度では誰も振り返りませんかね(一条天皇は愛猫家だったので、振り返りそうですけども)

 

これは、後に物語を夢中で読んでいるところが見つかって、

 

「読書がお好きとは、倫子さまの若い頃とは大違いでございますね」

「あら、まひろさんみたいなことが好きなのね…まひろさん?そうだ!」

 

と、まひろが出仕する展開になっていくと言うのも、あり得そう…かなw

 

心配する母・倫子の意図を汲み、赤染衛門の教育が着々と進んでいきます。

 

「どう?」と尋ねる倫子に、胸を張って答えます。

 

「閨房の心得は一通りお伝えいたしました」

 

おお!唐より伝わりし『医心方』に通じておられるなんて、さすが赤染衛門先生!!

 

しかし倫子は…「まず声を出して笑うところから教えて欲しい!閨房はその先のことでしょ!(プンスカ)」←ごもっとも(笑)

 

彰子さま11歳で艶だの閨房の心得だの言われて大変でございますね。

 

「衛門は閨房以外に知恵はないの!?」と苛立つ倫子。

 

ここは、赤染衛門先生よりも和泉式部先生の範疇でしょう…もしかして、その伏線になっていたりします…?(オラわくわくしてきたぞ)

 

 

◆屏風歌

 

彰子の入内に向けて、道長が用意したと言う「入内屏風」。

 

当時の人気絵師・飛鳥部常則(あすかべ の つねのり)が絵を描いて、書は名書家でもある藤原行成が担当するという、かなり豪華な「四尺屏風」。

 

本編ではやらないだろうな…と思って、前回「裳着の儀」のついでにネタバレしちゃいましたが、まさかやるなんて…こいつは失礼シマシタw

 

ドラマ中では、斉信と公任の和歌が、本人(演者)たちの声で詠まれておりました。

 

 

上東門院入内のときの御屏風に
松ある家にふえふきあそひ
したる人あるところをよみ侍りける

ふえ竹の よふかきこゑそ きこゆなる
きしの松風ふきやそふらん


大納言斉信 / 千載集 雑 960  

 

 

夜が更けて、笛の音が聞こえてきます。岸の松風が吹き合わせたのでしょうか…みたいな意味。

 

詞書によると「屏風に『松がある家で笛吹いている人』が描かれていたのを見て」とあるので、屏風を見ながら詠んだ…ということになりそうですかね。

 

公任はギリギリになって提出して、行成を心配・安堵させてましたが、これは『今昔物語集』にあるエピソードが元ネタで、ドラマのオリジナルではありませんw

「うまいこと詠めないから」と散々辞退し、道長が「どうしても頼む」と執拗に希うという展開のお話(「公任大納言読屏風和歌語」)


「もったいぶって自分の和歌の評価を上げた」…といわれていますが、実資が詠まなかったように、「本来は公卿がやることではないのだが…」という思いが、どこかにあったのかなぁ…とも取れる焦らし。


「一応断ったのだけど、左府がどうしてもと言うし、断り切れなかったんだよ」という体裁を整えたのかもしれないですね。

 

こうして詠まれたのが、こちらの和歌。

 

 

左大臣むすめの中宮のれうにて
うし侍りける屏風に

むらさきの 雲とそ見ゆる藤の花
いかなる宿の しるしなるらん


右衛門督公任 / 拾遺集 雑春 1069 

 

 

紫色の雲のように見える藤の花は、どれほどのめでたい瑞祥として咲いているのでしょうか…みたいな意味。道長の家の栄華を寿ぐ内容となっていますね。

 

そして、行成がおずおずとやって来て「花山院から、御歌が送られて参りました」と告げ、驚く道長と俊賢。

 

「そもそも、奇矯なお振る舞いが多い院ではありますが」←それは言わない約束w

 

信じられない気持ちで紙を手に取ると、そこにはまさに「御製」が。

 

 

人の家に小さき鶴ともかひたるところを

ひな鶴を 養ひ立て松が枝の
蔭にすませむ ことをしぞ思ふ


花山院 / 栄華物語「輝く藤壼」 

 

ひな鶴を養い育てて、常盤の松の枝にいつまでも住まわせたいと、そのことが願われる…みたいな意味。

 

『栄華物語』によると、詞書が「人の家に小さな鶴も描かれているところに」とあるので、屏風にそのような絵が描かれているのを見て詠んだ…という意味に取れます(ということは、本当はあの場にいらっしゃったということ?)

 

ちなみに、大河ドラマでは「松が枝」の部分が「まつはら(松原)」となっていたので、『栄花物語』ではなく『公任集』の方を採用したことになりますね。

 

 

なお『続古今和歌集』では、詞書によると別の歌が、寄せられた和歌として伝えられています。

 

上東門院の御扉風に

ふく風の 枝もならさぬ このごろは
花もしづかに にほふなるべし


花山院御歌 / 続古今集 賀 20 

 

どちらを献じたのか?あるいは、どちらも寄せたのか?

 

後の和歌を寄せて、完成した(?)屏風を見にいらっしゃった時に、「家に小さな鶴」の絵を見て、前の和歌も寄せて、両方を貼ったのかな…?と思わせられるところですが、さて…。

 

(映っている花山院の左隣の色紙は、道綱の「をりてくる人なかりせば見ざらまし常盤のかげの春の初花」ですかね)

 


「左大臣様へのおもねりでありましょうや?」

 

訝しがる俊賢。

 

「思惑はどうあれ、ありがたく頂戴致そう」

 

道長は、この御製による影響の大きさだけを計算して、受け取ることに。

 

史実でも、花山院は道長とは結構仲が良かったみたい。

 

しかし、ただの「仲良き左大臣のために」で和歌を寄越したのか…というと、どうだったんでしょうかね?

 

 

◆花山院の企み

 

何故、花山院は道長に「屏風歌を献上」したのか?

 

はっきりしたことは分からないようなのですが、実は「熊野詣」を画策していて、それを成就させるためだったのではないか…とも言われています。

 

長保元年(999年)10月28日、花山院が「屏風歌」を献歌。この日は彰子の入内の数日前(11月1日入内)で、ギリギリで届いたことになりますね。

 

そして、入内から数日後(もう使っちゃって返すこともできない)の11月3日、花山院から実資に、お願いが届きます。

 

ちなみに、『光る君へ』でも描かれていましたが、実資は花山天皇の時代に「蔵人頭(=秘書長官)」を務めていたので、親密な間柄でした。

 

花山院「16日に熊野に行くから、馬を貸してほしい。あ、これミンナにはナイショね」

 

「熊野に行くけどナイショにしてね」とはいえ、前天皇ですから、おいそれと気軽には行きません。従者も準備もハンパない大掛かりなこととなってしまうのです。

 

11月7日、定子が敦康親王を出産、彰子に女御宣旨…と忙しい日が過ぎていきます。

 

実資が「花山院の熊野詣」を誰かに話したかどうかは分からないのですが、後の経過を見てみると、どうやら他言しなかったっぽい。「ミンナにナイショね」と言われたのを守る、律儀な実資の姿が見えるようですなw

 

しかし、「熊野詣」が決行されるより前に、道長の耳には届いておりました。

 

何故、道長は知っていたのか…?もしも「屏風歌」が「熊野詣の融通を図ってもらうため」だとしたら、花山院が道長に「成就するよう裏で手を回してほしい」と申し出をしていたから、知っていた…ということになるのでしょうか。

 

「院が屏風歌を協力して下さったのは、このためか…」と、道長はため息をついたかどうか?(笑)

 

蔵人頭・行成を通じて、一条天皇に意見を奏上します。

 

「お上へ。花山院が熊野詣を画策しておいでです」

「伊勢まで船もご利用になるようです」

「厳冬の中でもありますし、現場は大混乱になること必至です」

「中止要請の『御書状』をお願い申し上げたい」

 

積もった雪をどかしたり、寒さで体調を崩さないように燃料に気を使ったり、冬の御幸は大変だろうなというのは、想像に難くない…しかも、船を使うだなんて、かなりのオオゴト。一条天皇は頭を抱えたことでしょう(笑)

 

一条帝「であるな…。『御書状』を出そう」

 

11月13日、行成が中継ぎして花山院に中止要請を出すと、院がゴネます。

 

「前々から度々止められ、去年も延期している。これ以上はイヤだ」

「確かに冬季で船も使うが、従者は少なくするから大丈夫だ」

 

なだめるのとゴネるのとが繰り返されながら、当初の出発予定だった16日の前日(15日)、実資から花山院に「お伺い」の使者がやってきます。

 

実資「明朝の出立は、どのようになりましたでしょうか?」

 

なんだか、反対していないような素振り(笑)

 

少なくとも、天皇が中止要請をしているのは、存じていないような(もう許可は出ていると思っているのかな?)

 

どこからどう聞いたのか、一条天皇はこのやり取りを関知したようで、「実資が院を支援している」と思ったみたい。

 

行成に「実資を呼ぶように」命ずるのですが、病気を理由に断られます(実資、何か様子がおかしいことに気が付いて、情報収集の時間稼ぎに出た?)

 

そこで「院が熊野詣を中止するよう、実資が説得するように」と指示を変えます。

 

頼ろうと思っていた実資から、中止要請を持ち込まれては、花山院も諦めざるを得ません。

 

花山院「分かった…仕方がない。熊野は諦めて粉河寺にするわ」

 

一条帝「いやいや!!だめだめ!!つーか、なんで冬に行こうとするんですか!!」

 

 

…いきさつは、以上のような感じ(笑)

 

「粉河寺」は、紀伊にあるお寺。熊野に比べたらだいぶ譲歩していますが、都からは相当遠くて、そりゃあ中止要請されてしまうでしょうな(^^;

 

そして、「花山院が屏風歌に和歌を寄せたのは、熊野詣をやるため」説が事実だとしたら、せっかくの御製も意味がありませんでしたね…(残念でしたw)


 

◆敦康親王、誕生

 

一条天皇待望の、定子との間の皇子、敦康親王が誕生。

 

『光る君へ』では、まるで「職御曹司」で出産したかのように見えましたが、そんなことは「産穢」があるのでできません。

 

といっても、定子の実家「二条第」が火事で失われていたのは、ドラマ中でも描かれていた通り(第21話)

 

そこで、他に退出場所を探さなければならなかったのですが、実際には「平生昌(たいら の なりまさ)」の家で出産を行いました。

 

別名「竹三条宮」。『枕草子』では「三条の宮」で登場します。

 

(↑場所については諸説ありますが、有力な説の1つと言うことで)

 

平生昌って誰…?というと、当時「中宮大進(ちゅうぐうだいじん)」を務めていた人。中宮に付属するオフィス「中宮職」の三等官にあたる、ハッキリ言って中級官人でした。

 

そんな身分の人の邸なので、中宮が行啓する場所としては、悲しいくらい清貧な家だったそうで、『枕草子』でも困ったような様子が、楽しそうな筆遣い(清少納言フィルター)で描かれていたりします。

 

いくらなんでも「三等官」って…「長官」である「中宮大夫」の邸に移ればよかったのに、何か不都合でもあったの?となるところですよね。

 

この頃の「中宮大夫」は、平惟仲が任命されておりました。

 

惟仲は『光る君へ』にも登場しておりますね。ナマズ髭を生やした、怪しげでのほほんとしてそうな、あのお公家さんですw

 

 

生昌は、惟仲の弟にあたる人物。

長官と三等官は実の兄弟だったのですねー。

 

一説によると、惟仲は道隆没後に落ち目となっていた中関白家とは距離を取ろうとしていたために、出産の直前あたりに「中宮大夫」を辞任していたので、その弟の家が行啓先に選ばれたのだろう…とされています。

 

『枕草子』では、定子の行啓先を「提供してくれた」はずの生昌を、教養棒(毒舌?)でボコボコにしているという、恩知らずなことをやらかしているのですが(笑)、それは出産直前になって「中宮大夫」を辞任して、自分の所に行啓してこないように企てた惟仲への恨みを、弟にぶつけている…と見られています。

 

まぁ、よくよく考えてみると、おかしなところがいくつかある通説ではあるんですがね(次官の「中宮亮」の家でも良かったのでは…?中宮亮は高階明順=定子の母の兄ですし、定子も安心だったのでは…?とかね)

 

それにしても、出産の場面では伊周と隆家が弓の弦を慣らして邪気祓いをする「鳴弦(めいげん)の儀」を行っていて、読経もあってと、賑やかなシーンでしたけど、伊周と隆家って、いまどこに住んでいるんですかね…?(生昌の邸なの?)

 

(あと、儀式とはいえ、この2人にはもう弓は持たせない方がw)


 

◆2人のアキコと一条天皇

 

一条天皇の「定子……よくやった」という感動しているカットをぶった切って、居貞親王の「皇子か〜」という困り顔が登場(笑)

 

「皇子が誕生して、叔父上の当ても外れましたね」と、いちばんアテが外れた居貞親王が慰める構図(笑)

 

「意味はあります」

 

彰子を入内させ、一条天皇と中宮・定子とを引き離し、御政道を正しい方向に導く。

 

「彰子どのは、そんなに良きおなごなのですか!?」

 

「……はい」←この自信なさげな道長がなんともいえないw

 

そして、一条天皇の元に母・詮子が参内。

 

皇子が生まれた一条天皇は、もう怖いものなし。

定子を守るため、詮子への「憎悪」を隠さなくなってしまいます。

 

「私は母上の操り人形でございました!」

 

足早に立ち去る息子を、涙を流しながら見送るしかない詮子…。

 

かつて好きなものを尋ねられて「椿餅、松虫、母上」と答えていたのは、ついに戻ってこない、遠い日のことととなったのでしょうか…。

 

そして、その「憎悪」は、詮子の肝煎りで入内となった彰子にも向けられることに…。

 

 

「そなたのような幼き姫に、このような年寄りで済まぬな」

「楽しく暮らしてくれれば朕も嬉しい」

 

「…はい」

 

まるで突き放すかのようなお上の優しいお言葉、当意即妙な返しのない彰子。

後ろに控える公卿たちが、眉を曇らせて動揺。

 

道長も帝の意思を察したのか、体に応えたようで、体調を崩してしまったことを安倍晴明に愚痴ると、晴明は秘策を授けます。

 

「彰子さまを中宮になされませ」

「一人の帝に二人の后なぞありえぬ!」

「やってしまえばよいのです」

「なんという事を…」

 

彰子の女御宣下は「一帝二后」という前代未聞のごり押しの始まり。

 

新たな波乱の幕開け…といったところで、次回に続く。

 

 

 

というわけで、今回は以上。

 

以下、長々と「あの問題」について語ります(笑)

 

 

 

「藤原賢子は道長との隠し子だった」というトンデモ展開は…ねぇ。

 

歴史ドラマはエンタメであって、歴史研究の発表の場じゃない。

ドラマはドラマ、歴史は歴史。

 

分かりますよ。ぶっちゃけワタクシの中では、そんなに優先順位は高くはないけれど(笑)低くもないです。エンタメは面白さが大事ですよね。

 

そもそも紫式部は「史実」の部分もよく分からない所が多く、長年愛され続けてきたがゆえに「虚構」も剥せないレベルでまとっていて、「史実と違うのはダメ」では、ドラマとして中々成り立たない素材でもありますしね。

 

そして「○○は△△の子だった」という創作。

かつての大河にもありました。

 

『鎌倉殿の13人』では、北条泰時の母は八重姫になっていましたし(史実では「阿波局」という素性の分からない女性)、『平清盛』では、清盛と崇徳院は「白河院の子」という設定でした。

 

これらは許容どころか「これが史実だったら面白いのになぁ」とまで思わされて、ワタクシは楽しく拝見していたくらい。

 

だから、「藤原賢子は宣孝ではなく道長の子」にしたかった…という脚本家さんの創作意欲は、頭ごなしに否定する気はありません。

 

それが成功か失敗かは今後の展開次第。通説を盛大に無視する設定を放り込んでくるなんて、ハードルを上げるのが好きなマゾな脚本家さんだなぁ…と思う程度には(笑)、受け止められなくもないです。

 

 

ただ……ねぇ。

 

「紫式部大河」で「藤原賢子は道長との不義の子」って、さぁ。

 

「とてつもない悪手」ではないですかね?

 

 

紫式部って、なにが「偉大なところ」なんでしたっけ?

 

千年も前に今なお語り継がれる長編小説『源氏物語』を編んだこと?

 

ただ、それだけ?

 

まぁ、それだけでも別にいいのですが(笑)、ドラマにする上では、もう1つ外せない「偉大なところ」があると思うのです。

 

 

『源氏物語』は、紫式部が夫・宣孝が亡くなったのをきっかけに書き始めた…と言われています。

 

これが事実かどうかは分かりませんが、人々の目に留まったのも、完成したのも、広まって名声を得たのも、夫の死後のことでした。

 

紫式部が彰子のサロンに出仕するようになったのは、『源氏物語』が評判になっていたからだ…とも言われます。書き始めていた時は、まだ女房でもなかったんですね。

 

つまり『源氏物語』というのは、「無名な1人の女性」が、その脳みそだけで作りあげたものでした。

 

誰の妻でも、誰の愛人でもない、誰の姉妹娘でもない、ただ1人の女性が…です。

 

これ、紫式部の人生をドラマ化するにおいて、大きなテーマになり得る重要なファクターなのではなかろうか。

 

歴史ドラマに出てくる「何かを成し遂げた女性」って、大体が「誰かの妻」もしくは「誰かの愛人」あるいは「誰かの姉妹娘」という立場で、活躍しています。

 

大河ドラマの歴代女性主人公を振り返っても、

 

『利家とまつ』(2002年)は前田利家の妻、『功名が辻』(2006年)は山内一豊の妻、『篤姫』(2008年)は13代将軍・徳川家定の御台所、『江』(2011年)は徳川秀忠の妻、『八重の桜』(2013年)は山本覚馬の妹で新島襄の妻、『花燃ゆ』(2015年)は吉田松陰の妹で久坂玄瑞・楫取素彦の妻、『おんな城主直虎』(2017年)は井伊直親の妻(許嫁)

 

みんな「誰か(大抵は男性)の何か(続柄・代理)」を期待され、それに応えた存在で、単身で活躍した女性は、ほぼいません。

 

 

ひるがえって、紫式部は…?

 

 

「誰かの妻」でも「誰かの愛人」でもなく、男っ気の無い、「ただの1人の女性」。

 

それが、彰子のもとに女房として出仕し、道長に認められて『源氏物語』を書きあげ、歌人としても活躍。筆一本で勝負し、誰もが名を知る「伝説の人」となったわけです。

 

確かに、そこに道長の援助はありましたよ。夫の死が構想の1つの核になったかもしれないし、父や親戚のコネが働いて環境が整ったというのも、きっとあるでしょう。

 

でも、紫式部に「実力があった」のは明確な事実なのです。

 

『源氏物語』や『紫日記』などを自力で書きあげ、己の才覚1つで、権力者や世間や、後世の人たちの目を、自分に向けさせたのです。

 

しかも、剥がしきれないレベルにまで「虚構」をまとうほど、長い時間、多くの人々を虜にし、愛され続けたのです。

 

そんな女性、歴史上にどれだけいますか??

 

 

こうして「紫式部のドラマの主人公としての素材」を丹念に拾い上げて整理してみると、「道長の愛人になった紫式部」は「紫式部大河」としては、かなり悪手だなぁ…という見立てになってしまうのですよね。

 

「どうして紫式部は、女性なのにたった1人で、あれだけの偉業を成し遂げ、日本人なら誰もが知る存在になり得たのだろう?」

 

視聴者が見たい紫式部大河のコアは、ここにあるんじゃなかろうか。

 

その答えが「道長の愛人だったから」にしてしまうのは、悪手以外の何ものでもないでしょう?(むしろ避けるべき答えでしょうね)

 

史実では「紫式部は己の実力で『源氏物語』を書いた」のに、ドラマでは「道長の愛人として『源氏物語』を書いた」ことになってしまうではないですか。

 

ドラマの紫式部が実物より大きく見えるのなら、まだエンタメとしてやる価値はあるかもですが、ドラマの方が実物よりも小物になってしまうって、正直やる意味なくない??

 

ワタクシが期待していた「平安を生きた1人の女性・紫式部の生涯」というテーマからは、だいぶ格が下がってしまうから残念だなぁ…ってなってしまうんです。

 

 

まぁ、まだ愛人になったと決まったわけではないですが…。

 

もしかしたら「賢子は道長の子」というのは隠し、否定し続けて、頑として「愛人ではない」と意識した姿を見せながら、お話は続くのかもしれないし。

 

でも、「ソウルメイト」という言葉は、もはや疑問形を投げかけられてもおかしくないほど信用を失い、もう使えないくらいに傷ついてしまいましたね。

 

「ソウルメイト?隠し子を匿う愛人でしょ?」になってしまいました。

 

ずっとお話の軸として、終わりまであり続けるはずだった「ソウルメイト」という設定を、ぶち壊してくる愛娘って…どうなんでしょうかねぇ。

 

 

一応、藤原賢子という女性については、後に兼隆(道兼の子で、道長の甥)と結婚したり、教通(道長の子)と恋愛したり、後冷泉天皇(道長の孫)の乳母となったりした人。

 

なので、「賢子は道長の子」という設定は、活用できる素材にはなり得るので、繰り出す意味はあるのだとは思う…道兼が紫式部の母をコロした、あのぶっ飛びよりは、よっぽど(笑)

 

 

母の人生における「史実と虚構」両方の「見所のほぼ全て」と引き換えに生まれて来た「不義の子」。

 

成功への妙手に化けるか、失敗の悪手で駄作の坂を転がり落ちるかは、今後の活かし方次第。

 

そこまでして、脚本家は何をしたかったのか?

 

それは、今後の勝負所…ですかねぇ。

 

 

 

 

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