大河ドラマ『光る君へ』は、第26話で「長徳5年」から「長保元年」へ改元(999年)

 

"中関白"道隆、"七日関白"道兼の逝去。

伊周と隆家が失脚し、定子が髪を切ってしまった『長徳の変』。

紫式部の越前下向と帰京。

 

様々な歴史を刻んで、「長徳」年間が終了しました。

 

「長保」の元号を勘申したのは、大江匡衡。

 

匡衡は『光る君へ』では一切登場無し…(涙)

でも、お仕事(改元)はちゃんと見えましたよー。

 

なお、匡衡は赤染衛門のダンナさんです。

 

…というのは、前回もちらっと触れました。

 


赤染衛門@鳳稀かなめさん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

「そういえば、赤染衛門って姿を見なくなったなー」という思い付きを、その時にもつぶやきました。

 

倫子が結婚して女子会がなくなったから、登場しなくなったような印象があるけれど…。

 

最後の出演っていつだったかなー?と気になって探してみたら、どうやら第13話「進むべき道」だったようです。

 

為時が官職を失い、「まひろが就職活動しているようだ」と女子会で噂になっていたシーン。

 

台詞はなかったですが、顔はしっかり見せておりました。

 

倫子は第12話「思いの果て」で道長と結婚しているので、倫子の結婚後も一応、女子会は開かれていて、顔は見せていたんですねー。

 

 

それから何故か、表舞台から姿を消した赤染衛門。

 

史実でも、赤染衛門は一時期、土御門第に出仕しなくなったようです。

 

再出仕はどうやら、倫子から声がかかったのがきっかけだったみたい。

 

春の花見の季節になって、倫子は赤染衛門に対して「久々に一緒に花見をしませんか?」と声を掛けたようでして。

 

その時、感激した赤染衛門が倫子に送った和歌が、彼女の自撰和歌集『赤染衛門集』に収録されているんだそうです。

 

 

……そして、そこには。

 

ワタクシには衝撃的な、驚くべき一言が書かれておりました。 

 

 

 

帥殿に親しき人のゆかりしは えまゐるまじと
なんあると聞きしかば 里にある春
上の御前の仰せ事にて
花の盛りなるを見せまほしくなんあると
仰せられたりしに まゐらせたる

もろともに 見るよもありし花桜
人づてに聞く春ぞ悲しき


赤染衛門 / 赤染衛門集 130

 

 

藤原伊周(帥殿)に親しい人の縁者は出仕なんて到底できないだろう」という噂を聞いたので、自宅に閉じこもっていた春のこと、お仕えしていた方(倫子)のお言葉で「一緒に満開の花を見たいものです」と仰せになったので、差し上げた和歌

 

『かつては、ご一緒に花見することもありました花桜ですのに、人づてに花の便りを聞く春は、まことに悲しい限りです』

 

 

赤染衛門に「久しぶりにまた会いたいです」「花見の季節ですし、一緒にどうですか?」という便りを寄越した倫子の温かさ・気遣い・素敵さに胸を打たれるのは必至だなぁと、思いつつ。

 

この和歌、SNSで流れて来て目に留まったのですが、あっ見たことある…と思いつつ、詞書までは読んだことがなくて。

 

その訳を見て、衝撃のあまり動きが止まりました。

 

 

…………えっ……?

 

赤染衛門が姿を消したのって「伊周に親しい人だったから」なの…??

 


「倫子が結婚したから」ではなくて『長徳の変』に巻き込まれたのが原因だったの…??

 

赤染衛門って「伊周に親しい人」だったの????

 

初耳なんだけど…。

 

 

確かに『長徳の変』を機に出仕しなくなったというのは、『光る君へ』で倫子の結婚後も女子会に招かれていたのに、いつからか急に出番がなくなっていたのと符合します。

 

しかしながら…ですよ。

 

赤染衛門といえば、伊周の政敵ともいえる、彰子のサロンに仕えていた女房として知られる女性。

 

それなのに、伊周と親しかったの…?

 

 

とはいえ、全く無関係だと思ってはおりませんでしたが。


というのも、赤染衛門が『百人一首』に採られた和歌のお相手は、実は若い頃の道隆(伊周の父)だから…。

 

その和歌は「赤染衛門の同胞(おそらく妹)」のもとに、道隆が訪れた時に詠まれたものでした。

 

 

中関白殿の 蔵人の少将ときこえし頃
はらからのもとにおはして 内の御物忌に籠るなり
月の入らぬ先に とて出給いでだまいにし後も
月ののどかにありしかば
つとめて奉れりしに代はりて

入りぬとて 人のいそぎし月影は
いでての後も久しくぞ見し


同じ人 頼めておはせずなりにしつとめて奉れる

やすらはで 寝なまし物を さよふけて
かたぶくまでの 月を見しかな


赤染衛門 / 赤染衛門集 3~4

 

 

2つ目(「やすらはで~」)が、『百人一首』の赤染衛門の和歌ですね。

 

「月が沈む前に帰りますね」と言ってそそくさと帰ったけれど、お帰りになった後も、のんびりとその月を見ていましたよー?という後の日に来ると言っていたのに来なかったので、ためらわずに寝てしまえばよかったのに、約束どおり夜更けまで起きていて、沈んでいく月を見ていましたよっ…みたいな意味。

 

「月が沈む前に」と帰った後に見ていた「沈む月」と、「来るよ」といって来なかった夜に見ていた「沈む月」という、2つの「なかなか沈まない月」を印象的に位置付けている連歌ですな。

 

道隆が「蔵人少将」時代というので、天延2年(974年)から貞元2年(977年)、21歳から24歳、伊周が生まれた頃(974年生まれ)のお話になりますか(貴子とは恋愛結婚だったのに、でも他の女のもとに通っちゃうんですねw)

 

なので、道隆とはやや親しさはあったんだろうなとは、思っておりましたが、伊周とも…だったんですか。

 

 

考えてみれば、彰子のライバルである定子に仕えた清少納言とも、赤染衛門は関係が深くて、それが謎と言えば謎でした。

 

 

元輔が昔住みける家のかた原に 清少納言住し頃
雪のつみしく降りて隔ての垣もなく
倒れて見わたされしに

跡もなく 雪ふるさとの荒れたるを
いづれ昔の垣根とか見る


赤染衛門 / 赤染衛門集 158

 

元輔が昔住んでいた家に宮仕えから下がった清少納言が住んていた頃、雪がひどく降って、隔ての垣も倒れてなくなり、見渡すことができたので

 

『足跡も見えないほど雪が降って、かつての跡形もないほど荒れてしまった垣根の、どれを昔の垣根と見て懐かしんだらいいのでしょう

 

 

定子が没した後の清少納言を、追うことができるほどの関係性。

 

赤染衛門って彰子の女房ですよね?

なんでそこまで、清少納言を追えるんですか?

 

清少納言は他の定子付女房に疑われるほど、道長とも関わりがあったようなので、道長経由で知り合ったのかな…とか、清少納言ではなく元輔と、歌人として知り合いだったのかな…程度に見ていたのですが。

 

その答えが「赤染衛門は、清少納言が仕えていた定子の、同母兄である伊周と親しい人だった」となれば、納得オブ納得ではありますなー。

 

 

しかし、赤染衛門って、伊周とどういう縁で繋がっているの…??

 

 

いやいや、まてまて。

 

詞書によると「帥殿に親しき人のゆかりしは=藤原伊周殿に親しい人の縁者は」とあって、「赤染衛門が親しい」のではなく「赤染衛門の縁者が親しい」と書かれています。

 

「赤染衛門の縁者」といえば、彼女のダンナにして「長保」の勘申者である、大江匡衡、こいつだ!!

 


というわけで、その縁を探してみたら、結構フクザツに親しい関係でした(笑)

 

先に系図で見てみると、こんなかんじになっています。

 

 

 

まず、赤染衛門の夫・匡衡の従兄弟である為基は、伊周の母・貴子の妹を妻に迎えています。

 


高階貴子@板谷由夏さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

為基は、赤染衛門と贈答歌が収録されるほど、親しい仲だったようです。

(というか、匡衡と結婚する前の恋人だった?)

 

 

八講する寺にて 大江為基

おぼつかな 君知るらめや 足曳あしびき
山下水の むすぶ心を


大江為基 / 赤染衛門集 7


返し

けふ聞くを 衣の裏の玉にしき
たちはなるをも 香をば尋ねん


赤染衛門 / 赤染衛門集 8

今よりは など言ひしかど
おともせで五月も過ぎぬ
六月ついたち頃に橘に付けて

待ちくらし 五月の程も過ぎにけり
花橘は いかがなりにし


赤染衛門 / 赤染衛門集 11

 

大江為基「あなたはご存じですか?私があなたのことで人知れず不安に悶々としている心を」

 

赤染衛門「今日聞いたあなたのお気持ちを衣の裏の宝珠のように大切にしてお別れしてもあなたを忘れません」

 

「今より親しくしましょうね」と言い合ったのに、便りもないまま5月が過ぎてしまったので、6月1日頃に橘を添えて赤染衛門「あなたのお便りを待ち続けて五月も過ぎてしまった。以前橘に手紙をつけて"この香りからわたしを忘れないで"とおっしゃった気持ちは、どうなってしまったのでしょうか」

 

 

貴子は、夫の道隆が赤染衛門の妹に通っている関係…というのはナイショだったとしても(笑)、「仲のいい夫の従兄弟(為基)の妻の姉」という縁があることになります。

 

ちなみに、為基の父・斉光は、参議にまで昇った人物。『光る君へ』でも、実は横顔だけちらっと映ったことがあったんですよw

 

花山朝「陣の定」群像語り (参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12841402045.html


 

赤染衛門の子供世代を見てみると、娘である「江内侍」が、貴子の従兄弟にあたる業遠の妻になっています。

 

業遠は、道長の家司として仕えた人物。なお、業遠の息子(江内侍の所生ではなさそう?)の成章は、紫式部の娘・大弐三位の夫となった人物です。

 

そして、赤染衛門の息子である挙周(たかちか)は、貴子の兄・明順の娘(貴子の姪っ子)に恋していたのですが、新任の「蔵人」の仕事が忙し過ぎて通えない…というのを聞いて、母の赤染衛門が代作を務めた様子が『赤染衛門集』にあります。

 

 

挙周が明順が女に物言ひ初めて
新蔵人にていとまなくて
え行かぬにやらん と言ひしに代はりて

しぎの羽がきに目を覚めて
かくらん数を思ひこそやれ


赤染衛門 / 赤染衛門集 224

 

私が通わなかった夜明けは、眠れなくて何度も寝返りを打ったことでしょう。申し訳ないことです…みたいな意味。

 

挙周が「蔵人」だった時代ということは、寛弘3年(1006年) から寛弘8年(1011年)の期間あたりですかね(『光る君へ』では、まだ先の話)

 

というか、「挙周」の「周」って、「伊周」の「周」だったりします…?(ちなみに、挙周は生年不詳ながら、おそらく985年~990年あたりの生まれ)


結局、挙周と明順の娘は結ばれたようで、挙周の子・成衡(なりひら)は「母は従四位下高明順女」と記録に残っています。

 

 

他にも、中関白家との関係に注目して探してみたら、伊周の弟・隆家との贈答歌も収録されておりました。

 

 

隆家の中納言のおぼしける女に
男の忍びて文やりたりけるを聞つけて
使ひを捕へて打ちなどして
文をば取りて破り捨てられたり
と聞きて 女のもとにつかはしし

いかなりし 逢瀬なりけん天の川
ふみたがへても騒ぎけるかな


赤染衛門 / 赤染衛門集 385


返し 中納言

そら事よ ふみたがへず天川あまのがわ
さしかづきてぞ肩打たれにし


藤原隆家 / 赤染衛門集 386

 

好いていた女に他の男が密かに手紙を送っていたのを知った隆家が、使いを捕まえてボコボコにしたと聞いて、「どういう仲なんですか?手紙が間違って届いただけで、大騒ぎになるなんて」と女の方に手紙を届けたら、「それフェイクですよ…手紙は間違ってないです。手紙を届けたご褒美に、肩を叩いただけです」と隆家が返事を送って来た…というお話。

 

「そら事」が「そらごと=嘘」と「空=天の川」の掛詞になっています。

 

女の方は、浮気をしているのだ…別に間違って手紙が届いたわけじゃないのだ…と知っているのに、「間違って手紙が届いたのに、どうして大騒ぎになっているの?」ととぼける赤染衛門。

 

そして、女の方に送ったのに隆家が返事してきているのが、なんだか面白いところw

 

(そして、使いをボッコボコにする気性の粗さ…『光る君へ』でも花山院に知ってて射かけたことでもお馴染みw)

 

普通に見たら、そんなところにも首を突っ込むなんて、その女性は衛門に近しい人だったのかな…となるところ。

 

でも、赤染衛門が中関白家と親しいのなら、親しいやんちゃ坊主の隆家を窘める意味でも、おせっかいのような手出しだったのかな…というかんじがしますね。

 

 

そして、これは後年のことになりますが、夫が「丹波守」から「尾張守」へと変更になったので、上京してきたら、伊周が亡くなっていて、喪服姿となっている息子の道雅と会っています。

 

 

又の年の春 丹波になり替はりて上りぬ
殿の三十講にまゐりたるに
道雅の君の 哀れなる色にて
局の前にわたり給ひしに聞えし

墨染すみぞめの 袂になると聞きしよりも
見しにぞ藤の色は悲しき


赤染衛門 / 赤染衛門集 248

 

お父様が亡くなられて墨染のたもとになったとは聞いていましたが、喪服姿を目の当たりにしますと、一層悲しみが深くなります…という意味。

 

伊周の息子に哀悼の歌を送るほど、中関白家と親しかったのですね。

 

ちなみに、道雅は『百人一首』63番歌の詠み人でもあります。

 

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで言ふよしもがな


左京大夫道雅 / 後拾遺集 恋 750

 

2人には、こんな交流の形跡があったんですね。

 

道雅の妹・周子は、伊周の没後、道長の娘・彰子に女房として仕え「帥殿の御方」と呼ばれています。

 

この頃は、赤染衛門は出家しているのですが、彰子のサロンには度々顔を出していたので、顔は見ていたのではないかと思われます。

 

その形跡は、『赤染衛門集』では見つけられませんでしたが…。

 

 

というわけで、今回は以上。

 

赤染衛門が「人づてに聞く春ぞ悲しき」を詠むことになった経緯を探してみた…という内容で、お届けしてみました。

 

赤染衛門は、夫の大江氏と高階氏の幾重にも結ばれた縁を通じて、伊周や中関白家と親しい関係だったんですね。

 

だから、『長徳の変』では謹慎せざるを得なくて、姿を消したのですね…。

 

 

このブログでも時々出て来る『栄花物語』は、著者が不明なのですが、「赤染衛門が書いた説」があって、有力視されているようです。

 

『栄花物語』は、道長が摂関家の五男坊から最高権力者へと昇っていく、栄光を描いた歴史物語。

 

なのですが、その1節である「浦々の別れ」は、ほぼ伊周の話が占めるという構成になっています。

 

ある意味で、伊周は準主人公。

道長の政敵だったのに、この扱いって…?

 

でも、赤染衛門が『長徳の変』で謹慎せざるを得なくなるほど、中関白家と親しかったとするなら。

 

『栄花物語』の著者=赤染衛門 説 とともに、色々と「歴史の謎の殻」が剥がれて見えて、面白いなぁ…ともなりそうですね。

 

 

ちなみに、第27話「宿縁の命」の次回予告、見返してみたら、赤染衛門が映っている…だと!?

 

次回からは、どうやら再登場する模様。

赤染衛門先生、彰子の先生となる…!!

 

この時『長徳の変』について、何か言ってくださるでしょうか…?

 

ワタクシは不勉強ゆえに、赤染衛門と中関白家の関係を今更になって知ったのですが、脚本家さんは勉強済みで台本にも織り込んでいる…と思いたい(笑)

 

こちら方面も期待です!

 

(しかし、これまで伊周と赤染衛門が関わるシーンは1回もなかったので、期待は薄いですが…ね)

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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