大河ドラマ『光る君へ』第21話「旅立ち」見ましたー。

 

 

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて 紫だちたる雲のほそくたなびきたる

夏は夜 月のころはさらなり やみもなほ 蛍の多く飛びちがひたる また ただ一つ二つなど ほのかにうち光りて行くもをかし 雨など降るもをかし

秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いと近うなりたるに 烏の寝どころへ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど 飛びいそぐさへあはれなり まいて雁などのつらねたるが いと小さく見ゆるはいとをかし 日入りはてて 風の音 虫の音など はたいふべきにあらず

冬はつとめて 雪の降りたるはいふべきにもあらず 霜のいと白きも またさらでもいと寒きに 火など急ぎおこして 炭もて渡るもいとつきづきし 昼になりて ぬるくゆるびもていけば 火桶の火も白き灰がちになりてわろし

 

世界の中でただ1人。定子さまのため。それだけのため。

清少納言 著『枕草子』が書き始められる。

 

その愛、その絆が描かれました。

 


↑どうでもええけど、ききょうの文鎮かわいいな…w

 

清少納言が、定子さまのためだけに、『枕草子』を書く。

それを、日曜夜8時にNHK大河ドラマで映像化。

 

そんなの、想像出来ました…??

 

「2024年の大河ドラマは紫式部」と決まった後でさえ、ワタクシは思いもしませんでしたよ。「だって、紫式部大河なんでしょ」って。

 

おまけに、脚本家の人が清少納言を貶すような発言をしていたので、余計に期待が下がっていたのもあり。

 

「中関白家」のあれこれは残念な部分も多かったですが、この一瞬の煌めきのための布石だったのだと思えば、納得できなくもない…かな。

 

 

「たった1人の悲しき中宮のために『枕草子』は書き始められた」

 

これは大河ドラマの独自の解釈というよりは、今から半世紀ほど前に提唱され、時間をかけて検証された結果、現在では有力になっている説の1つです。


「定子の没後に、定子のサロンの素晴らしさを伝えるために書いた(定子の子女、一条天皇、あるいは彰子のサロンに向けて)」という説もあります。

でも、『枕草子』が広まった経緯や内容からして、定子の生前から定子に向けて書かれ、そして他の人目に触れることは想定していなかったのでは…と、ワタクシは思っております。

なので、「たった1人の悲しき中宮のために『枕草子』は書き始められた」は、大河ドラマとワタクシの解釈一致。これは嬉しい(笑)

 

(書き始めた時期の解釈は、ちと違いますが…)


そして、衰弱して臥せっている定子が、それを読んで再び活力を取り戻し、立ち戻っていく。それを見て涙する清少納言…というのが、美しく映像化されていて。

 

「涙なしには見れなかった」「泣いた」という感想もSNSで見かけて、良かったなぁ…という気持ちでいっぱい(ワタクシは情緒ない人間なので、こういうので泣くことが絶対ないんで、ちとウラヤマシさもあり…)

 

『枕草子』もAmazonでめちゃめちゃ売れてるらしい…w

いいぞいいぞ。『枕草子』沼へようこそw

 

 

それにしても、こんなにも儚く世を憂いてしまう、定子さまの繊細なお心…。

 

同じく「生きながらに死んだ身」になった(はずの)花山院の神経の図太さを、少し分けて頂きたいものですわね(何)

 

というわけで、今回も気になった所を挙げていきたいと思います。

 

 

 

◆一条天皇の慟哭

 

「朝廷の権威を踏みにじった伊周の行いは許さぬ。事の重大さもわきまえずいきなり髪を下し朕のまつりごとに異をとなえる中宮も同罪である」

 

定子が髪を下ろしたと聞いて、一条天皇の動揺が止まりません。

思わず「中宮も同罪」と言ってしまっています。

 

報告に来た実資、取り次ぎの頭弁行成が退出すると、ついつい本音が口から出てしまいます。

 

「愚かであった。中宮はもう朕には会わぬ覚悟なのか…」

 

「愚かであった」って、何のことだろうか?

 

「そこまで覚悟を決めていただなんて気づかなかった」なんでしょうけど、具体的にはどこで間違えたと思ってらっしゃるのか?

 

兄弟に情けをかけて欲しいと頼みに来た定子を、無言で突き離したこと?

下がっていく定子を帰してしまったこと?

それとも、この夜に会ってしまったこと?

 

全く「愚かであった」ところがないんですよね…。まつりごとに私情を挟まず、「長恨歌」の轍を踏まなかった一条天皇は、賢帝であらせられました。

 

どうも「愚かであった」は要らないなぁ…と、そこが引っかかってしまって(^^;

 

その慟哭を聞いていた道長が複雑な顔をしていたのは、「もう会わない覚悟で別れてしまった まひろ」のことを思い出していたんでしょうか?

 

つい最近会ってしまっていなければ、素直にそう思えなくもなかったのだけれど…。

 

あの謎の廃屋でのすれ違いシーンも、会話が無かったこともあって、要らなかった気がしますね(いまだに必要性が全く分からず)

 

 

◆ゴシップ話と夫婦漫才

 

まひろが二条北宮に潜入して見てきた話を、興味深そうに聞く宣孝。

 

こういう話は、父ではなくおじさんにしゃべっちゃうんですね…。

まぁ、宣孝の方が宮中には詳しそうですから、人選は間違ってない。

 

しかし、宣孝の興味は、「帝が惚れ込むほどの中宮さまの美貌」

 

確かに女好きな俗っぽい話はある宣孝ですが、さすがに「中宮」を「いいおなご」呼ばわりするような不敬は、やらないのでは…(もう出家したから、中宮とは思っていない?)

 

「そんな下世話な話は他所でしてください」

 

「まひろが話を聞いて欲しいとしたのではないか…」

 

夫婦漫才っぽさが、だんだん出てきています(笑)

 

宣孝役の佐々木蔵之介さんも「親戚の娘っ子」から「1人の女性」として、まひろと接するような演技に切り替えてきていますね。

 

それでも、時々「子ども扱い」のような雰囲気を織り交ぜて、「女の扱いが上手い」かんじをにじませているようなw

 

そして、さらっと まひろの興味ありそうな、真面目な話題に転換。

 

「この騒動で誰が一番得をしたと思う?右大臣さまじゃろ?」

 

「伊周を追い落としてしまえば政敵はいなくなり、女院にしても、子も宿さぬのに帝の心を捉えて離さぬ中宮は気に入らぬ、右大臣と女院によるはかりごとかもしれぬ」

 

道長の話題となると、途端に目の色が変わってしまう まひろ。

 

「あり得る話だと思いました」

 

陰謀論によくある逆算思考とはいえ、正解にたどり着いてしまう2人なのでありました…。

 

 

◆伊周の逃げ恥

 

前回、何やら叫び声を上げながら姿を消した伊周(笑)

 

弁慶みたいな恰好で戻って来て、しかし出家は偽りだとバレて、実資に笑われておりました…。

 

史実では実際に出家している…らしいのですが、その後が「出家したんですよね…?」というような扱い・待遇に戻っていく、よく分からない伊周の出家。「出家したフリしていた」という解釈をするのは、まぁまぁいいやり方だったかもしれません。

 

(一方、貴子は道隆が薨去した時に出家しています。こっちは「してないフリ」…?なんだかよく分からんな)

 

そして、年表で時系列を整理すると、これは強制捜査が入った3日後の出来事ですねー。

 

5月1日、二条第強制捜査。隆家逮捕、伊周逃走、定子出家。

 

5月4日、伊周が出家姿で二条第に帰宅。山崎離宮へ向けて母・貴子とともに勝手に出発するが、検非違使に途中で追いつかれて拘留。

 

5月15日、伊周を播磨国、隆家を但馬国に安置する命が出される。

 

6月8日、二条北宮焼亡。定子は小二条殿に移御。

 

7月20日、道長、左大臣となる。

 

10月上旬、伊周が密かに入京しているという噂が立つ。

 

10月11日、伊周が大宰府へ出発

 

10月下旬、高階貴子、没。

 

12月8日、伊周、大宰府に到着。

 

12月16日、定子が脩子内親王を出産。

 

 

4月24日に罪状が裁可されて検非違使が派遣され、実際に大宰府へ出立するのが10月11日。約半年におよぶ時間の浪費と不名誉の失態…。

 

二条第から姿を消した、3日後にバツの悪そうに戻って来たあたり、当日は発作的に逃げてしまったんでしょうかね。本当にみっともなかったですね。

 

その後、病を理由に現地赴任を15日まで引っ張っていたり、中関白家兄弟の往生際の悪さは目を覆いたくなります。

 

母の貴子は「伊周と一緒に大宰府へ下る!」と息子愛でいっぱいいいっぱいになって、一条天皇の「罷りならん」の命を受けて引き離される…という喜劇、いや悲劇が描かれておりました。

 

身重の娘(定子)を置いて、息子と一緒に行ってしまうなんて、あり得ないでしょ…と思うんですが、『小右記』にも書かれていることなので、創作と切り捨てることはできません。

 

父も、兄弟も、母も、定子と一緒にいてはくれない。守ってくれない。

輝きを失った定子の灰色の目が、声にならない悲しみに満ちていて、ここは切ないですなぁ。

 

しかし、伊周が「私はここを離れるわけにはいかぬ!亡き父に誓ったのだ!私が…私が我が家を守ると!」と抵抗しているのを見て、「自分もともに参るから」と納得させているので、これはこれで貴子の計算(定子は出家したし、それより伊周を何とかしないと…)ということなんでしょうか。

 

気になったのは、「ここからは乗馬にて向かわれませ!」と告げられたのを、「私は病気だ!」と拒否したシーン。

 

「病気…って?」というツッコミは置いておいて(笑)、「罪人」なのに「車や駕籠で護送」ではなく「馬に乗って自分で行ってね」なんですね。逃げられる心配はないor逃げてくれても別にいいんだぜもうお前は終わった人だし、ってことなんでしょうか。

 

かつて「安和の変」(969年)で大宰府に左遷された源高明も、乗馬で大宰府まで向かったんでしょうかね(それについて行った俊賢の気丈さよ)

 

 

◆正しいマウントの取り方

 

今回の見所は『枕草子』誕生秘話と、なんといっても倫子さまw

 

「道隆の兄上は己の命の短いことを悟っておられたのかしら」

「今日のこの悲しいありようは兄上の焦りから始まっているような気がする」

 

詮子の同情のお言葉。白々しい…とまでは言わないけど、追撃を放ったのは当の詮子さまでしょう?と、倫子がグサリと釘を刺しに行きます。

 

「女院さまも、すっかりお元気になられて」

「あの呪詛は不思議なことでございましたね」
「女院様と殿のお父上は仮病がお得意であったとか」

 

フフフ…と、これまでの倫子とは似ているようで一線を画した、不敵な笑み。

 

「呪詛の一件はすべて知ってますからね」とにおわせ、詮子に対してマウントを取ることに成功。

 

「詮子は呪詛事件をでっち上げていた」という弱みを握った倫子…これが後に活きる時が来るのでしょうか…?

 

さすが、詮子は動揺するそぶりは見せず、倫子をいたわる余裕を見せて、この場を切り抜けます。

 

「産み月で気が立ってるようだから労わってあげよ」

 

あっ、そうか…この事変のあたりで、倫子は教通を出産しているのか…と思って教通の生まれた日を確認してみると、長徳2年6月7日生まれ(二条第焼亡の前日)

 

あ、あれ…?あの火事の日、何事もないように顔を見せていたような…?

 

ま、まぁ、教通を「なかったこと」にはしないようですし、ここは見なかったことに…。

 

 

◆越前の宋人と日中交流史

 

越前へ赴任する直前、為時が道長に召喚され、レクチャーを受けるシーンがありました。

 

「越前に交易拠点をつくるつもりはない。体よく追い返すのが役割と心得よ」

「あの宋人どもは、商人のフリをして、戦人かもしれぬ」

 

驚きの国家機密情報と使命を聞かされる為時。重い役目が、ずしんと両肩にのしかかりました。

 

その責任感ゆえに、越前国府に入る前に、宋人たちが「留め置かれている」という迎賓館「松原客館」に立ち寄って様子を見たり…。

 

すごく仕事のできる人ぶりを見せる為時…頼りになりますねw

 

ところで、為時が「越前守」に任ぜられたのって、何故なんだろうか?

 

漢学に達者で宋人たちと意思疎通が出来そう…という、スキル的な理由はもちろんあったと思います。

 

それ以上に、為時が「ほどよい関係・ほどよい地位・ほどよい能力の藤原氏だったから」というのも、あったような気がします。

 

 

菅原道真によって「遣唐使」が廃されて以来、公式には交流が無かった日本と大陸の間ですが、道長の九条流藤原氏は、中国と意外な関係を持っていました。

 

道長の曾祖父・忠平の時代である909年、中国は「後遼」の朱全忠により「唐」が滅亡して「統一国家」としての国体を失い、「五代十国時代」へ突入しました。

 

そんな分裂した中に「呉越」という国がありました。「杭州」を本拠地として江南に立つ小国の1つですが、ゆえに交易で国力を支えておりました(「遣唐使」が拠点にしていた港湾都市を支配下に置いていたのもあります)

 

その相手の1つが日本。当時最高権力者だった忠平は「呉越」と国書をやり取りしており、もしかしたら(私的な?)交易権も担っていたかもしれません。

 

忠平の嫡男だった実頼もやり取りを継承しましたが、後に何故か、弟の師輔(道長の祖父)が交流を担当しました。このあたりの事情はよく分かりませんが、実兄から貿易権を「奪った」あるいは「譲られた」のかもしれません。

 

師輔が亡くなり、『光る君へ』第1話の直後あたりのこととなる978年、統一国家目前となった「宋」に国土を献じて、「呉越」が滅亡。このあたりからは「宋」の時代となり、九条流との正式な交流は途切れます。

 

そして、大河ドラマでもあったように「宋」の人々が70人あまりやって来て、越前に留め置かれる事態となりました。

 

 

後世の我々からすれば、「宋」は文治国家で、ゆえに軍事力や軍事的野心には乏しいと分かりますし、道長の時代の3代・真宗(趙恒)がどうしようもない弱気な暗君であることも知っています。

 

でも、こうやって見ると藤原氏からすれば「宋」というのは、交流があった「呉越」を滅ぼした人々。さらに九州で海賊たちの事件が勃発(後に「刀伊の入寇」まで起きるような)している当時の藤原氏が、「宋は危険ではない」と見ていた可能性は、だいぶ低いと思います。

 

だから、道長の「あれは商人のフリをして、戦人かもしれぬ」というのは、史実の道長の「中国観」を映しているのかもしれません。

 

でも、為時を任命したと言うのは、「もしかしたら宋は交流できるかも」という思いを、道長が持っていた可能性の表れでもないかと、ワタクシは思います。

 

大陸との関係を持つと言うのは、当時の藤原氏にとって1つの利権。

 

同じ藤原氏でも、対立していたり(中関白家)、潜在的な政敵であったり(皇太子=のちの三条天皇と緊密な関係を構築しつつある小一条流)、拮抗する可能性があったりする(九条流の前に摂関を務めていた小野宮流)一門には拘わらせたくありません。

 

でも、関係を悪化させるような無能でも困る…(顕光や公季とか?笑)

 

野心を持たず、自分の意のまま忠実に動いてくれて、それでいてちゃんと仕事をこなせる人にやらせたい。

 

最初、乳母兄弟の源国盛が選ばれたのも、そうした事情があったのでしょうか。

 

系図で見てみよう(光孝源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12853269467.htm

 

でも、スキル面で不安があったかもしれず、また「いくら乳母の子でも藤原氏じゃないのは…」というのが、ひっかかっていたのかもしれない。

 

その点、為時なら同じ藤原氏ですが、醍醐天皇時代の外戚の一族(勧修寺流)という、脅威にはなり得ない過去の氏族。

 

花山天皇時代の蔵人として、あるいは皇太子時代に「侍読」として仕えていた働きぶりを知ることもできました。道兼の同僚であったことも、道長にはポイント高かったかもしれません(史実の道兼&道長は仲良し兄弟です)

 

うまく「宋」の情報が入って、交易を行えると判断できた時、為時だったら邪魔はできないし、利権を奪って勧修寺流で独占するようなマネもできません。

 

「宋人」を追い払うにも、情報を得て上手く利用できることになったとしても、担当者が為時だったら便利に使えるし、下手をこく可能性も最低限で済みます。

 

為時を「越前守」に任じた道長、中々の人材活用術をお持ちです(笑)

 

実際の働きぶりは、今後の大河ドラマをオタノシミニとするとして。

 

ここで失敗してしまうと、後の「紫式部」はないわけで…是非とも頑張って欲しいですな(メタ)

 

 

なお、実際の日宋貿易が始まったのは、ご存じのように『平清盛』の頃。

 

「宋」で「禅」が流行っているという話を聞きつけた留学僧が次々に大陸へ渡って現地の事情を持ち帰り、さらに「元」の台頭で「南宋」という江南政権になり果て、亡命者も多数現れるようになってから、「宋はあんまり危険な国ではないらしい」と分かって来て、清盛の父・忠盛の時代になって徐々に盛んになって来たようです。

 

もしも、道長の時代に「宋の文治主義」などが分かっていたら、日宋貿易はもっと前倒しになったのかもしれませんね。

 

その時、日本史はどんな世界線を描いていたんでしょうか…。

 

千里の彼方の風は、やっぱり読めないものですねー。

 

 

◆生きながらに死んだ身の春はあけぼの

 

燃え盛る二条北宮に、涼しい顔で佇む定子。

 

逃げる気はない、私はここでしぬ。

 

本能寺の信長か、恵林寺の快川紹喜か、関ヶ原前夜のガラシャか。

 

火事の邸に中宮が一人取り残されるなんて不自然極まりない、あまりにもあり得ないシーンなんですけど、実際にセットに火をつけて燃やして撮影している制作陣の気概を汲んで、ここは許しましょう。

 

「なりませぬ。おなかのお子のため中宮様はお生きにならねばなりませぬ…生きねばなりませぬ」

 

(ドラマの中では)帝も知らないご懐妊を知っている清少納言と、「なぜ知っている!?」とならない定子。

 

史実では「懐妊したから二条第に下がった」ので、知っていてもおかしくないんですけど、ドラマでは「兄が犯罪やらかしたから宮中から下げられた」となっているので、おかしな話になっています。

 

でも、生まれるはずの内親王が「ないこと」になってなくてよかった!(こんな心配させる制作陣には「めっ!」って言っておきます)

 

 

そして、語られる『枕草子』誕生秘話。

 

もちろん、現在「有力な説の1つ」であって「史実」という確証はないシーン。

 

でも、『枕草子』の溌剌とした感性から感じられる煌びやかな定子のサロン、そして伸び伸びとした物言いから推察される定子と清少納言の絆。

 

「これは中宮定子に捧げられた書だ」というのは、ひしひしと感じます。

 

だから、あり得る来歴であったと、ワタクシは思いますね。

 

(なお、劇中では語られてませんでしたが、「二条第」焼亡の後なので、この場所は「小二条第」(高階氏の邸宅)ですね)

 

 


以前にも語りましたが、『枕草子』は平安時代には珍しい「をかし(面白い)」の文学で、当時の主流だった「あはれ(物悲しい)」は、ほとんど使われていません。

これは、道隆を失い、兄弟が罪人となり、凋落の坂を転がり落ちていく「中関白家」と、後ろ盾を失って窮地に立たされている定子の心労を「癒したい」と清少納言が願った末の執筆態度だったと理解すると、すんなり納得がいきます。

ただ、この説は「書き始めた理由」なんですね。ナレーションでも「『枕草子』は書き始められた」と言っておりますよね。

書き終わって、完成して、世に広まる…そこには、もう2つ3つの気色の違うドラマが必要になります。


というのも、『枕草子』には「類聚的章段」「随筆的章段」「日記的章段」の3つの分類がされるのですが、「日記的章段」を書いた理由としては、「定子のため説」は弱いんですよね。定子のために書かれたのであれば、別に「日記的章段」なんて、要らないですからね。

では、何故に「日記的章段」ができたのか…というと、定子はこんなに素晴らしい人だった、定子のサロンはこんなに華やかだったと、「外の人」に伝えたかったから…という推測が成り立ちます。
 

その時、『枕草子』のコンセプトは「定子に楽しんでもらうため」から、「定子の偉業を世に知らしめるため」に変わった…のかもしれない、となり。

 

そこには、違うストーリーが語られていくことになるわけです。

 

 

もしも、『枕草子』がなかったら。

 

現在、定子のことは『小右記』や『権記』に描かれた「兄弟の勝手で政争に敗れ自分の勝手で出家し没落した不憫で憐れな中宮」というイメージで定着していたかもしれません。

 

「そうじゃないんだ。煌びやかなサロンを主催した、才気あふれる、きらきらした姫様だったんだ」

 

そういうイメージが伝わっているのは、『枕草子』のおかげ。

 

清少納言は『枕草子』を紡いだことで、生前の定子を励まし、没後の定子の煌めきを千年、守り続けたんだな…と。

 

「ペンは剣よりも強し」の文学の真髄を、ここにも見ることができるような気がしますねー。

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html