大河ドラマ『光る君へ』第18話「岐路」見ましたー。

 

 

長徳元年5月11日(995年)。藤原道長、ついに「内覧」就任。

 

「七日関白」道兼の薨去から、わずか3日後のことでした。

 

翌年の長徳2年(996年)7月20日、「正二位・内覧左大臣・一上・氏長者」となり、平安時代最大級の実力者「藤原道長」の最強形態が整います。

 

(歴代ナンバー1だったかどうかは、意見が分かれるところ…かな?)

 

「内覧」とは何か?「関白」との違いは?については、後々たっぷり触れる(笑)として…

 

今回も、気になった所をリストアップしていきたいと思いますw

 

 

◆筑紫うまし筑紫こひし

 

宣孝が大宰少弐のお勤めから帰国。筑紫のお土産を持って、為時邸を訪ねます。

 

服装も大層ご立派になって、成金カラーがまぶしいw

 

「これは宋の国の薬で、切り傷には驚くほど効く。大宰府ではこの薬でボロ儲けした。国司のうま味を味わい尽くしたw」

 

大宰府赴任は儲かるのですねー。

 

大宰府というと「左遷」のイメージが付きまといます。

 

昌泰4年(901年)に起きた「昌泰の変」で「右大臣」から「大宰員外帥(だざいいんがいのそち)」に降格された菅原道真が、その最大のイメージキャラクターになっていますね。

 

スミレとウメのタフガイ(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788586757.html

 

『光る君へ』の最近でも、源高明(俊賢や明子の父)が「安和の変」で大宰府に赴任していますが、これも「左大臣」が落とされた「失脚」でした。

 

コウメイの罠(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html

 

これらは実質的に「流罪」で、現地では「幽閉」に近い状態に束縛されて、行動の自由はあまりなかったと言われています。

 

しかし後世には、平清盛が「太宰大弐」となり「貿易で国を富ます」ことを思いつく様子が『平清盛』で描かれておりました。

 

ちなみに、清盛の父・忠盛が「日宋貿易」に関わっている様子も大河ドラマでは見られましたが、彼が「太宰大弐」になったことはありません。肥前国神崎荘の荘官だったことを利用して私貿易を行っていただけなんですねー。それをさらに発展させたのが清盛の構想だったわけです。

 

宣孝が服装も豪華になって、ニッコニコで帰洛したのも、清盛に近い待遇だったのかな…というより、彼の才覚で儲けた、というかんじがしましたねw

 

お土産には、あちらのお酒もあったようで、それを持参。


為時「変わった味だな、唐の酒は」
宣孝「いくさ人の飲む酒だ。我らは戦を致さぬゆえ、口には合わぬが…おかしなものも一興であろう」

 

まひろも一口味見して「カッといたします」と……これは好評の意味?おかわりはしなかったようですがw

 

ハイボールのCMの名優と実家が酒蔵の息子が、お酒を呑みかわすシーンを、大河で。NHKさん狙いましたねw

 

さらには、まひろに「口紅」もお土産に。さっそく差してみると、「わしの思い描いた通りじゃ!」と宣孝の気分も最高潮。まひろも「お戯れを」と、宣孝に「めっ」します。

 

将来、夫婦となる2人ですが、まだ親戚の娘と伯父さんというかんじ。

めおとに至るにはもう2~3周ほど、ストーリーが必要かな?というかんじですかねw

 

 

そして、まひろのもとに訪ねて来た さわの第一声が「お別れです」

 

さわの父が肥後守に就任して現地に赴任することになったので、同行することになったのです。

 

宣孝とさわ。まひろの心の支えとも言える2人が、入れ替わるように筑紫へ。

 

さわのモデルと思われる「筑紫の君」の父・平惟将は、正暦5年(994年)、盗賊捜索の功により肥後守に任ぜられ、翌年に任地へ下向。

 

…という史実が合致したとはいえ、タイミングが絶妙で、創作なのかなって思ってしまいますなー。

 

 

◆七日関白

 

長徳元年5月8日、右大臣・藤原道兼、逝く。34歳没。

 

 

長徳元年乙未五月二日関白の宣旨かうぶらせ給ひて 同じ月の八日失せさせ給ひにき 大臣の位にて五年 関白と申して七日ぞ御座しまししか

(『大鏡』列伝「右大臣道兼伝」)

 

4月27日、関白就任が決定。5月2日に一条天皇に挨拶言上を行って、その7日後の5月8日に薨御。世に言う「七日関白」。

 

関白就任時、『光る君へ』では、冷静に道長に御礼を述べたりしておりましたが、実際には大騒ぎになるほど、喜んでいたようですw

 

殿の御前は えもいはぬ物のかぎりすぐられたるに 北の方の二条に帰り給ふ御供人は よきもあしきも 数知らぬまで 布衣などにてあるもまじりて 殿の出したて奉りて わたり給ひしほどの 殿のうちの栄え 人のけしきは ただ思しやれ あまりにもと見る人もありけり

 

「御殿の中のにぎやかさ、人々の喜ぶ様、御想像ください」「大騒ぎし過ぎじゃね?という人もいたとかなんとか」なんて書かれています(笑)

 

しかし、一条天皇への挨拶のために参内した時には、すでに体調が思わしくなかったようで、帰る頃にはただならぬ容体に陥っておりました。

 

念じて内に参らせ給へるに いと苦しうならせ給ひにければ 殿上よりはえ出でさせ給はで 御湯殿の馬道の戸口に 御前を召してかかりて 北の陣より出でさせ給ふに こはいかにと人々見奉る

 

病を押して参内したものの、苦しさのあまり殿上の間から出ることができず、御湯殿の馬道の戸口からお供の肩に寄りかかって、北の陣からお帰りになったので、殿上人の皆さんは「これはどうした??」というかんじで見送っています。
 

殿には 常よりもとり経営して待ち奉り給ふに 人にかかりて 御冠もしどけなく 御紐おしのけて いといみじう苦しげにておりさせ給へるを見奉り給へる御心地 出で給ふつる折にたとしへなし  されど ただ「さりとも」と ささめきにこそささめけ 胸はふたがりながら ここちよ顔をつくりあへり  されば 世にはいとおびたたしくも聞えず

 

本宅に戻った時には、人に寄りかかり、冠もだらしなく傾き、装束の紐もほどいて、苦しそうな様子で車を降りて来て、出立の時の晴れ晴れしさとは比べ物にならない様子で、出迎えた家の人たちは驚き戸惑います。

 

「そうはいってもまさかこのまま回復しないなんてことはないだろう」と、心配で胸が塞がりそうなのを堪えて、機嫌のよさそうな顔を作り上げていたので、道兼の重病は世間には知られませんでした。

 

道兼と親しかった藤原実資も、道兼の重体を存じないまま、関白就任を祝う挨拶に訪れます。

 

今の小野宮の右大臣殿の御よろこびに参り給へりけるを 母屋の御簾をおろして 呼び入れ奉り給へり  臥しながら御対面ありて「乱れ心地 いとあやしう侍りて 外にはえまかり出でねば かくて申し侍るなり  年頃 はかなきことにつけても 心のうちによろこび申すことなむ侍りつれど させることなきほどは ことごとにもえ申し侍らでなむ過ぎまかりつるを 今はかくまかりなりて侍れば 公私につけて 報じまうすべきになむ  また 大小のことをも申し合せむと思う給へれば 無礼をもえはばからず かくらうがはしき方に案内まうしつるなり」などこまやかに宣へど 言葉もつづかず ただおしあてにさばかりなめりと聞きなさるる

 

重病のために、母屋の御簾を下ろし、伏したまま対面する道兼。

 

「病がひどく外にも出られないので、寝たままで失礼いたします。長年、あなたにはお世話になり、自分が大したことない身分の時は一々御礼を申し上げることもできないまま過ごしてまいりましたが、関白となった今、公私につけてお報い致したいと思っております。今後とも大小問わずご相談申したいと思っておりますので、このように見苦しいところではありましたが、無礼を憚らずにご案内申し上げました」

 

しかし、弱々しさのあまり所々言葉が不明瞭で、「こう言っているのだろうな」と推察しながら、話を聞いていたそう。

 

風の御簾を吹き上げたりしはさまより見入れしかば さばかり重き病をうけとり給ひてければ 御色もたがひて きららかに御座する人ともおぼえず ことのほかに不覚になり給ひにけりと見えながら ながかるべきことども宣ひしなむ あはれなりし

 

その時、風が吹いて御簾を吹き上げ、きららかで立派だった道兼の、顔色も悪く意識も朦朧とした姿を見ることになり、「あはれ」と思った…という。これが生前の道兼の最期の姿となったのでした。

 

『光る君へ』では、実資は「好きではないが」と言っていて、道兼とは疎遠。

 

何故なんだぜ…?一緒に蔵人所で働くシーンもあったのに、どうして「親しい仲」に持っていけなかった…?

 

最期のツーショットを道兼・道長で飾らせるために?

 

別に道兼と実資と親しくさせても、このシチュエーションは破綻しないと思うのですが…。

 

なんで史実に反する設定を大した意味もなくちょいちょいぶち込んでくるのだろうか?

 

「父上に、もはや恨みはない。されど、あの世の父上を驚かせるような政をしたいものだ」

 

救い小屋建設を公の事業とし、諸国租税の減免・新規荘園の停止も計画。名宰相の片鱗を見せながら、生死の境に苦しめられ、思わず真言を唱え…ふと、我に還ります。

 

「浄土に行こうとしているのか?こんな悪人が?(自嘲)」

 

闇と穢れの道を渡り歩いて、念願の関白になりながら、実際には政務を執ることなく、何を起こすこともなく病没。

 

この時、唱えていたのはSNS情報によると「光明真言(天台宗バージョン)」だそうです。

 

「オン、ナンタラ~」と唱えていたので、念仏ではなく真言っぽいなーと思ったら、やぱり真言だったw

 

「過去の罪を滅し、地獄への道を破壊し、あらゆる災難を除外する」効能があるそうで…地獄への道を破壊…この攻撃力、いかにも呪術的で、真言っぽいw

 

おん 阿謨伽あぼきや 尾盧左曩びろしゃな 摩訶母捺囉まかぼだら 麼抳まに 鉢納麼はんどま 入嚩攞じんばら 鉢囉韈哆野はらばりたや うん

 

↑別に全文載せることもないんですが、気になって探しちゃったので、ついでに載せておきますw

 

「カタキとはいえ、これでよかったとは思えんのう。さぞや、無念であったろう」

「あのお方の、罪も無念も、すべて天に昇って消えますように」

 

琵琶の音を天に昇らせ、為時&まひろ親子も、静かに冥福を祈るのでした。

 

そ、そうなんスね…。

両者の関係は、そういう終わり方なんスね…。

 

ワタクシは「因果応報」でやるかと思っていたのですが、「改心」からの「懺悔」、そして「曖昧」に終了…ですか…。

 

まひろの母親をアッ!するという、かなり乱暴なオリジナルに走った衝撃の第1話。

その伏線は、ついに回収されず…?

 

ただのインパクト狙い&道長とまひろの間の壁という役回りだった?

 

それとも、今後の「何か」にまだ繋がっているんですかね(それに期待したいです)

 

 

◆密です!密です!

 

道兼の薨御で「いよいよ次は私だ」と確信する伊周。

 

隆家も貴子もひと安心した顔を並べていて、本当「悪役一家」というかんじになっていますね…。

 

そして、定子から「もっと人望を得られませ」と忠告されていた伊周は、「公卿たちを集めて会食」という手に打って出ます。

 

 

世の中で疫病が流行っているというのに、人脈形成のため会食を催す伊周。

 

密閉・密集・密接の「三密」!

クラスターになっちゃうよ!

せめてパーテーションをだな!

 

サイアクですよ伊周…と、ここ数年の新型ウイルスによるあれこれを経験した人間なら、ぞわっとすることでしょう(笑)

 

「ようこそ、おいでくださった」姿勢を正すと、主催の伊周が語り出します。

 

「志半ばにも達せず病にて身罷りました父・道隆は、皆さまのご意見を聞き入れることの大切さを繰り返し私に語っておりました」

 

ここで「えっ」という顔をする公任w

 

「これよりは己を強く持ち父の遺志を継がねばと胸に誓っております。おかげさまで我が妹中宮は帝の御寵愛深く、わたしも帝と近しくさせて頂いておりますので、皆さまと帝を繋ぐ架け橋となれるよう精進したく存じます」

 

自己陶酔…というかんじの表情で、滔々と所信表明演説をかます伊周。

参加していなかった実資も「次はいよいよ伊周か…」と、不安を隠せない様子。

 

しかし…思ってもみなかった大どんでん返しで、渾身の会食がギャグシーンになってしまうとは、伊周もツイテナイなw

 

(しかし…道兼没が5月8日で、道長内覧宣旨が5月11日。この会食はいつやったことにしているんだろう…?)

 

(5月2日に寧子が亡くなってるんですけど、道綱にはそんな素振りが見られなかったのも残念…というか喪中でないの??)

 

 

◆どけ…どけ!!

 

今回、「どけ…どけ!!」と、鬼のような形相で人払いを行った人が2人、おりました。

 

1人目は、「女院さま」こと藤原詮子。

 

人事発表の前夜に一条天皇の寝所に押しかけて来て、蔵人頭・俊賢に対してプレッシャーをかけて退室させると、「次の関白には伊周を」と心に決めていた一条天皇に「次の関白には道長を」に翻意させるため、プレゼンを開始。

 

『大鏡』にも記載のある名シーン。詮子役の吉田羊さんの名演技で、迫力の雰囲気が画面からバリバリ出ておりました。

 

しかし、よくよく吟味してみると…。

正直言って、わけのわからないシーンでしたね(笑)

 

「母を捨てて后を取るのですか!?」と言いながら「母は自分のことなぞ、どうでもいいのです!!」←どっちなん?というツッコミはまだ可愛い方で、問題なのはこの台詞。

 

 

「お上のお父上は、いつも己の思いを汲もうとせぬ関白の横暴を嘆いておいででした!父上の無念をお上が果たさずして、誰が果たしましょう!?」

 

 

この「関白」って、誰のことを言っているのだろうか?

 

一条天皇の父・円融天皇の御世は安和2年(969年)~永観2年(984年)。

この時期に「関白」だった人は2人います。

 

・藤原兼通(兼家の兄):974年~977年(※始まりについては諸説あり)

・藤原頼忠(公任の父):977年~984年

 

(969年~972年は、藤原伊尹の「摂政」期、972年~974年は兼通の「内覧」期)

 

円融天皇は「中継ぎ」という約束で皇位についた人物ゆえに、当初は誰も娘を入内させなかったのですが、唯一娘を入内させていたのが兼通でした。

 

この事例からも分かるように、兼通は円融天皇を傍流として軽視することなく、協調路線を取っていた関白でした。

 

頼忠は円融天皇の外戚ではなく、ゆえに娘の遵子を円融天皇に入内させて関係を構築。円融天皇は一人息子・懐仁親王(のちの一条天皇)の生母である詮子を差し置いてまで、遵子を「皇后」に立て報いています。

 

その事例からも分かるように、頼忠もまた、円融天皇と協調路線を取っていた関白でした。

 

なので、円融天皇の御時には「横暴な関白」は見当たりません…。

 

百歩譲って、そんな細かい歴史の話は見なかったことにしてみても、兼通は大河には登場しなかったし、頼忠は「声の小さい関白」なんて言われて、むしろ慎ましかったようにしか見えず。イメージだけで考えても「横暴な関白」は出てきません。

 

というわけで、あのシーンは、

 

詮子「お上のお父上は、関白の横暴を嘆いておいででした!」

故・兼通「えっ?」

故・頼忠「えっ?」

 

というかんじにしか、ワタクシには見えませなんだ(笑)

 

「横暴な関白」は、強いて言えば兼家と道隆が当てはまるかもしれないですが、どちらも一条天皇の御時の関白で「父上の無念」には繋がりません。

 

脚本家さん、これ一体どういう意味だったんですか…?

 

しかし、「お上はどんな帝になろうとお望みなのですか?何でも関白にお任せの帝で宜しいのですか?」という母の苦言は、胸を打ちます。

 

伊周、いかにも「俺が俺が」な感じの関白になりそうですもんね…。

 

しかし、一条天皇は母の助言も蹴って「伊周に決めております!」と涙目で決意を表明し、足早に退出。詮子は「無念…」と泣き崩れた…のですが。

 

その次のシーンでは「翌日、一条天皇は伊周ではなく道長の内覧宣旨を下した(ナレ)」。なんだそりゃ(笑)

 

あの一条天皇と詮子の涙は何だったのですか、脚本家さん…(結局これに戻る)

 

 

もう1人の「どけ…どけ!!」は、藤原伊周。

 

自分が「関白」に選ばれず、道長に「内覧」が下ったことに激しく立腹し、定子に八つ当たり。

 

あの宴席でぶちかました所信表明が、赤っ恥になってしまったのですから、当然と言えば当然か(^^;

 

「早く皇子を産め…皇子を…産めェェェッ!(絶叫)」

 

ただでさえ周囲が見えなかったのが、さらに視野が狭くなって、重病と焦燥のために狂っていた父・道隆と同じ台詞を、定子にぶつけるようになっています。

 

あの時は、道隆の醜態を隠すかのように、ききょうが御簾を下げさせておりましたが、今回はそんな素振りはなく…。

 

伊周の醜態は衆目に晒してもいいってこと?これは人望の無さの表れなんでしょうか…。

 

「素腹の中宮などと言われているのを知っているか?」

 

「素腹」というのは「妊娠したことがないお腹」のこと。元は「遵子&公任vs詮子」の「皇后位」を巡る争いでのエピソードですが、『光る君へ』ではスルーされておりました。

 

そんな「素腹の后」のエピソードを、ここでぶち込み。「おお…」となりましたw

(ただ、ここでやられると公任の「失言キング」という旨味は味わえないんですけど…)

 

定子さま、涙は固く見せませんでしたが、深く深く傷付いているかんじがしました(定子役の高橋充希サンによると、この頃はつらい撮影が続いて大変だったそうで…)

 

 

◆内覧宣旨

 

「道長と伊周以外の権大納言以上が全滅」という長徳元年の疫病。

 

具体的には誰が亡くなったのかというと、以下の表の通り。

 

長徳元年 公卿・中納言以上(疫病犠牲者)
関白 藤原道隆 長徳元年4月10日・42歳没
左大臣 源重信 長徳元年5月8日・73歳没
右大臣 藤原道兼 長徳元年5月8日・34歳没
内大臣 藤原伊周
大納言 藤原朝光 長徳元年3月20日・44歳没
大納言 藤原済時 長徳元年4月23日・54歳没
権大納言 藤原道長
権大納言 藤原道頼 長徳元年6月11日・24歳没
中納言 藤原顕光
中納言 源保光 長徳元年5月9日・71歳没
中納言 藤原公季
中納言 源伊陟 長徳元年5月22日・57歳没
権中納言 源時中
権中納言 藤原懐忠

 

上層部がごっそり世を去っています(藤原道頼と源伊陟は、道長の「内覧」宣旨後の没ですが)

 

このほかにも、五位の者が多数、六位以下は数知れず、京の民は半数が亡くなったと言われています。猛威おそるべし…。

 

こんな最中、定子が「伊周を関白に」と推し、詮子に「道長を関白に」と説得され、板挟みとなってしまった一条天皇(15歳)

 

だいぶ年若で人望もない伊周を「関白」とするには、公家社会の反発に対する心配が大きくて、とてもできない。

 

けれども、「内大臣」で「中宮の兄」である伊周を差し置いて、大臣でも何でもない、ただの「権大納言」で「天皇の叔父」に過ぎない道長を「関白」とするのは無理筋。

 

どうする…?と悩む暇は、ない。疫病によって上級太政官が軒並み空席となっている今、このままでは政治は停滞してしまう。

 

この混乱を乗り切るには…と一条天皇が採った最終判断が「道長を内覧に」。

 

定子と詮子、両方に配慮した「折衷案」と見る説もありますが、どちらかというと「苦し紛れの先送り」な装いの方が強そうな感じもしますよね(^^;

 

『光る君へ』では、詮子に喝を入れられるほど権力の座に乗り気ではなかった道長ですが、この「内覧」というのが気に入ったのか、後一条天皇の時代にあたる長和4年(1015年)までの20年間、「内覧」を手放すことはありませんでした。

 

 

ところで、「内覧」と「関白」の違いって何だろう?

 

その前に、共通点は「太政官会議の結果を、天皇に奏上する前に内々に見ることができる」ということ。

 

見た後で、それを奏上するか却下するか、最終決定権を持っています。どんなに公卿たちの多くが賛成しても「内覧」「関白」がダメと言ったらダメ。国連理事国の「拒否権」みたいなものですかね。

 

で、両者の違いは、小さなところでは「太政官会議への参加資格」が挙げられます。

 

「内覧」は「太政官」としての役職も兼ねているので、「太政官会議」に参加できます。

 

皆の意見を聞くことができますし、自分の意見も述べて、公卿たちの利害や意見を調整し、人事について推薦することもできるわけです。

 

一方の「関白」は基本的には「太政官会議」に参加できません。

 

「関白」は「人臣」ではなく「天皇の代理」。

「太政官」から「皇族」へ籍を移しているようなイメージです。

 

『光る君へ』の少し前、賜姓源氏だった左大臣の源兼明に対して「皇族に戻して左大臣を辞めさせる」という強引な計略が実行されたことがありました。皇族は基本的に「太政官会議」には出れないわけです(だから左大臣を辞めざるを得ませんでした)

 

こうやって見ると、「太政官会議」に参加できない「関白」より、参加できる「内覧」の方が有利のような気もしますが、そうではありません。

 

両者の大きな違いは「格」が違うこと。「関白」は天皇の代理・相談役。「太政官」とは格が違います。

 

なので、格の低い「内覧」は奏上前の意見を内々に見ることができるだけなのに対し、格の高い「関白」は奏上する時に天皇に直接意見を申し上げることができます。

 

つまり、「却下」する時は「内覧」と「関白」には大して差はありませんが、「奏上」するとなった時には、明らかな差が出てしまう…ということ。

 

「内覧」「関白」がOKを出しても、最終裁定をする天皇がダメと言ったらダメですが、「内覧」はここで終わってしまうところ、「関白」なら異議を申し立て説得を試みて、OKに翻意させる可能性を作り出せるわけです。

 

…と、ワタクシは解釈しているのですが…

 

SNSでもネット記事でも「太政官会議の参加資格の有無」は紹介されるけれど、「奏上時の意見具申」には、あまり触れられることがないですよね…。

 

なので、もしかして間違っている?という可能性もありながら…

 

ここまで解説してみたところで、なぜ道長は20年もの間「関白」に昇らずに「内覧」に留まったのか?を考えてみるのは、道長の人物像を想像する意味でも、中々に楽しいことなのではなかろうか。

 

「陣の座の参加資格」と「拒否権」の方が大事で、「天皇への意見具申」は別にいらなかった…という、政治手腕、政治姿勢、道長の性格、環境、天皇との関係性。

 

色々な要素、様々な可能性が絡み合っている、それを因数分解して見えてくるのは…何ですかねw

 

 

というわけで、今回は以上。

 

 

道兼薨去。これまで道長パートとまひろパートの両方を、変則的な形で牽引していた名物キャラが、ついにクランクアップ。

 

開始15分という序盤も序盤で退場してしまったので、終わった時には「あれ、今回だったっけ」と一瞬なりましたが…。

 

『光る君へ』が始まる前、道兼を知っていた人って、どれくらいいらっしゃっただろう?

 

このあたりの時代が好きで漁っていた人でも、ここまではっきりした人物像は、持っていなかったのではなかろうか。

 

まさか、道兼ロスにまどう視聴者が、こんなにも見受けられることになるなんて、思いもしなかったです。

 

これも、演じられた玉置玲央さんの好演のタマモノですねw

 

改めて、お疲れ様でしたと…いや、違うな。

 

道兼を演じてくださって、ありがとうございましたと、言いたいですねー。

 

 

 

 

 

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