大河ドラマ『光る君へ』の第14話では、兼家が薨御。

 

いよいよ「中関白家」たる道隆政権が「道隆の独裁が始まった」というアナウンスとともに、スタートを切りました。

 

道隆の独裁…それは大河ドラマでも描かれていた通り、「身内の強引な引き上げ」「四后並立」のことを指します。

 

「身内の強引な引き上げ」は、実資が「ぐぬぬ…」とばかりに北の方(婉子女王)に愚痴り、いきり立っていたことでもお察し(まぁ、あんなもんでは終わらないんですけどねw)

 

もう1つの「四后並立」って何…?というと、「皇后に準ずる地位の女性が4人立ち並ぶ」ことを意味する言葉です。

 

それの何が問題なのかと言うと、本来は定員が「3人」だから。

 

4人が並び立ったら、定員オーバーですよね。そんな前例のないこと・ルール違反なことは認められないし、やったら信用を無くしてしまいます。

 

そんなことは道隆だって分かっていたはず。どうして道隆は、それに踏み切ってしまったのか?

 

そこには、一条天皇のとある事情が間接的に関わり、そのために兼家が立てた計算の代償が招いたかもしれないんです…としたら、面白そうじゃありません?

 

というあたりを、今日はメインに語ってみようかな…と思うのですが、ここでひとつ。

 

『光る君へ』は、意外なことに「立后」に関して割りと丁寧に描かれていたように思われます。

 

たぶん、主人公の1人・道長が「立后」を利用して最高権力者に上がった人物なので、それを浮き彫りにするために、丁寧に描いていたのかなぁ…と推測するのですが。


そこで、今回は「立后」周りのことを『光る君へ』を振り返りながらまとめて、「四后並立」に至った経緯などを確認してみようと。そんな試みでやってみたいと思います。

 

 

 

平安時代を含め、古代日本は一応「律令制」の社会体制で政治を回しておりました。

 

律令制は「天皇」がトップに立って「太政官」を率いて政治を行う体制。

 

そして、もしも天皇が「天皇大権」を行使できない緊急事態に陥った場合を想定して、いくつかの「代行者」が用意されていました。

 

後には「関白」が現れますが、初期にあったのは「太上天皇」「太皇太后」「皇太后」「皇后」のポストでした。

 

「太上天皇(上皇)」は、退位した天皇のこと。

「太皇太后」は、前々天皇の正妃。

「皇太后」は、前天皇の正妃。

「皇后」は、天皇の正妃。

 

この中で、天皇の配偶者という立場で身分を決められている「太皇太后」「皇太后」「皇后」を、居住場所が「中宮」だったことから「令制中宮」と呼ぶそうです。

 

その中でも特に、現役天皇の正妃である「皇后」が「中宮」と呼ばれるようになっていきました。

 

「皇太子」の居住場所が「東宮」だったから「皇太子を東宮と呼ぶ」のと同じ原理となりそうですねー。

 

「令制中宮」の定員は、もちろん「太皇太后」「皇太后」「皇后」それぞれで1人。合計で3人しかなれません(「三后」)

 

皇位が「父→子→孫」と受け継がれていたら、順当に「太皇太后=天皇の祖母」「皇太后=天皇の母」「皇后=天皇の妻」となり、定員は特別には問題にならないことが多かったみたい。

 

しかし『光る君へ』の前後は、皇統が「冷泉系」と「円融系」に分裂。

 

皇位が「兄→弟」「叔父→甥」「従兄弟→従兄弟」と短いスパンで巡るため、定員からあふれる人が出始めるようになってきます。

 

 

 

まずは、一条天皇の父帝で、先々代の帝、『光る君へ』第1話時点の主上である、円融天皇の時代の「三后」から確認。

 

64代・円融朝後半
三后 当代 備考 円融天皇との関係
太皇太后 [贈]藤原安子 62代村上皇后 生母(故人)
皇太后 [転]昌子内親王 63代冷泉皇后 兄の皇后
皇后 [故]藤原媓子
     ↓
[新]藤原遵子
64代円融皇后 正妃(979年崩御)

正妃

 

円融天皇が即位したのは安和2年(969年)。

 

先々代の村上天皇の皇后である藤原安子(冷泉・円融両帝の生母でもあります)は、応和4年(964年)に世を去っていたので「太皇太后」は贈号(実質上の空位)

 

先代・冷泉天皇の「皇后」である昌子内親王は、転上して「皇太后」となりました。

 

ちなみに、昌子内親王は朱雀天皇(村上天皇の同母兄)の皇女。円融天皇にとっては「兄の皇后」。和泉式部が最初に仕えた主人でもあります。

 

円融天皇には、藤原兼通(兼家の兄)の娘である媓子(てるこ)が「皇后」に立てられていたのですが、天元2年(979年)に崩御し、空位となりました。

 

そこで、次なる「皇后」に女御だった遵子(のぶこ)を冊立。遵子は「声の小さい関白」頼忠の娘ですね。

 

円融天皇がただ1人の皇子・懐仁親王の生母である詮子を差し置いてまで、関白の娘を「皇后」にした経緯は、『光る君へ』でも描かれておりましたねー。

 


藤原遵子@中村静香さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

時は過ぎて、永観2年(984年)、花山天皇が即位した時。

 

昌子内親王は、花山天皇にとって生母ではないですが、「父(冷泉天皇)の皇后」なので「皇太后」のままが相応しいことになります。

 

遵子は「叔父の皇后」ですが、これを置く適当な「三后」がなく、そもそも「皇太后」が埋まっているので、そのまま「皇后」に留め置かれました。

 

なお、花山帝の生母・藤原懐子は天延3年4(975年)に亡くなっていたので、「三后」のどれかを占めることはありませんでしたが、「贈皇太后」を贈られています(昌子内親王が「皇太后」として在位しているにも関わらず…)。

 

『光る君へ』第7話「おかしきことこそ」では、花山天皇が寵姫の忯子(よしこ)に「皇后」を贈りたいと言っている…と「陣の座」にかけられ、「皇后はおりますので難しいです…」と否決されるという一幕がありましたが、こんな状態での議論だったわけですねー。

 

65代・花山天皇(即位直後)
三后 当代 備考 花山天皇との関係
太皇太后 [贈]藤原安子 62代村上皇后 祖母(故人)
皇太后 昌子内親王 63代冷泉皇后 父の皇后
[贈]藤原懐子 63代冷泉女御 生母(故人)
皇后 藤原遵子 64代円融皇后 叔父の皇后

 

あの時の花山帝の理屈は、昌子内親王が「皇太后」として在位していても、生母の懐子に「贈皇太后」できたんだから、遵子が「皇后」として在位していようが、愛する忯子に「贈皇后」するのもできるでしょ?同じことでしょ?ってことだったのかもしれないですね。

 

(しかし、この場面で藤原佐理が指摘していたように、「贈皇太后」「贈太皇太后」ならまだしも「贈皇后」は話が違ってきて。「皇太子時代に亡くなった皇太子妃に対し、即位後に贈る」が大体で、「即位後に入内した女御が亡くなったため、贈る」というのは、かなり特殊。あの時、兼家は「前例があればよろしいかと」と言ってましたが、過去に誰かいるのかな…?)

 

 

その忯子が、もしも死なずに皇子を産んでいたら。あるいは(兼家に騙されずに?)花山天皇の御世が長くつづいて、誰かの娘が皇子を産むケースが現れていたら。誰かが新しく「皇后」となる可能性は、あったのかもしれません(それこそ忯子か、あるいは為光の「四の姫」だったかもしれず)

 

その時は、昌子内親王を(先々代の皇后ということで)「太皇太后」に、遵子を(先代の皇后ということで)「皇太后」に玉突き式に転上させて「皇后」位を空け、行われたかもしれません。

 

しかし、花山天皇は「寛和の変」により「皇后」を立てる前に出家してしまったので、ここに手を付けることはありませんでした。

 

ゆえに、花山朝を通して「三后」に変動はなく、同じ状態で一条天皇の即位を迎えることになります。



寛和2年7月22日(986年)、一条天皇は久しぶりに「生母が生存している中での即位」となりました。

 

生母はもちろん、藤原兼家の娘・詮子

 


藤原詮子@吉田羊さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

先程も触れた通り、詮子は円融天皇の「皇后」になりそこなっていたので、肩書きがありません。

 

国母となった詮子に肩書きがないのは不便だ…となったみたい。

昌子内親王は、一条天皇にとっては伯父の皇后。歴代で数えれば先々々代の皇后だから…という理屈かどうかは分からないのですが、これを「太皇太后」に転上させて、空いた「皇太后」に詮子が収まることになりました。

 

「皇太后」は順当に行けば「天皇の生母」が就くのが相応しい。その通りになったわけですね。

 

これは円融朝において「皇后」になれなかった詮子が、円融皇后の遵子に逆転勝ちした瞬間であり、公任に向けられた意趣返し「素腹の后」のエピソードが、このタイミングで発現しています。

 

66代・一条天皇(即位直後)
三后 当代 備考 一条天皇との関係
太皇太后 [転]昌子内親王 63代冷泉皇后 伯父の皇后
皇太后 [新]藤原詮子 64代円融女御 生母
皇后 藤原遵子 64代円融皇后 父の皇后

 

「皇后」が遵子なのは、一条天皇からすると父の「皇后」が自分の「皇后」として在位しているわけで、なんだか不自然な感じがしますが、本来行くべき「皇太后」に詮子が入ってしまったので仕方がありませんw

 

「幼帝の国母に肩書きを与えて政権を牛耳らせる」そのために詮子を「皇太后」にする、という兼家の構想と判断は、それはそれで正しかったのでしょう。

 

しかし、これにより「三后」は満室となり、兼家の子供たちが「無理」をやらかしてまう、きっかけになってしまいました。

 

そんな折の正暦元年(990年)、道隆の娘・定子が一条天皇に入内。まもなく従四位下に叙せられ、ついで「女御」宣下を受け、順当に一条天皇の女御となります。

 

 

ところで、「詮子に肩書きがないのは不便」というのは、具体的には何のことだったのだろうか。

 

もちろん、序列上で「天皇の親を上席に座らせる法的な根拠がない」という、江戸時代の「尊号事件」(1789年)の時のような事情もあったでしょう。

 

それも認めつつ、一条天皇の特殊な背景も、詮子を「皇太后」にする必要性に拘わっていたのだと思います。

 

一条天皇の最大の弱み…それは「本当は傍流である円融皇統の一粒種」だったこと。

 

転機の子(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837067674.html

 

一条天皇の父である円融天皇は、中継ぎとして即位した「一代限りの帝王」だったのですが、長い治世を経るうちに自分の皇統を確立したい気持ちが芽生え、兼家を利用して、息子の懐仁親王を「次期天皇」にすることに成功しました。

 

その結果の中で即位した一条天皇ですが、皇太子には、冷泉天皇の皇子である居貞親王(のちの三条天皇)が選ばれています。

 

居貞は一条天皇の4歳年上。年長者を皇太子にするというのは、かなり無理矢理感があります。

 

そこまでしたのは、居貞親王は「本当は正統である冷泉皇統の皇子」なので、兼家が「後で正統に戻しますから」という建前で公家社会を説得せざるを得なくて、この人選になったのかな…というかんじがあります。

 

考えてみれば、花山天皇が即位した時。昌子内親王は、先々代の天皇の后なのだから、「太皇太后」にするのが順当なのに、「皇太后」のまま留め置かれました。 

 

何故なのかというと、花山天皇が「円融を傍流だ」と思っていた証拠。

 

花山天皇の中では皇統の流れは「村上ー冷泉ー花山」という認識だったのです。

 

「律令中宮」には、ここを読み取る使い道もあるのですねー。

 

 

そこで、ちょこっと物申したいことがあるのですが。

 

『光る君へ』では、詮子が定子に冷たい目を向けている姿が「円融に愛されなかったがゆえに、一条に愛されている定子に嫉妬している」という設定で進んでいて、それどころかドラマ以外でも、例えば書籍でも結構多くの本に採られている解釈になっています。

 

でも、「本当は嫉妬ではなかったのでは」と、ワタクシは考えています。

 

一条帝は、繰り返すようですが本来なら傍流の「円融皇統」の天皇。

 

油断して失態を見せたら「やっぱり傍流の帝王やわ。天皇失格であらしゃいます」と公家社会から烙印を押されやすい、正統性に疑問を持たれている弱い立場と見ることができます。

 

「しっかり帝として自立しないと、兼家のように誰かが策謀を巡らせて退位に連れ込まれるか、最悪の場合は廃位されて出家もしくは流されてしまうかもしれない」という危機感が、詮子には常にあったはず。

 

詮子が一条天皇にも定子にも厳しくなっていたのは、一条天皇が皇位から追放されてしまわないように、この夫婦に対して気を張っていたからではなかろうかと、ワタクシは思うのです。

 

嫉妬で冷たいのではなく、過度な気合いと不安で目が厳しくなり過ぎているんです。おままごと夫婦を見守る教育ママゴンって、どんな顔になると思います?という話なんです(笑)

 

なので、『光る君へ』の詮子は、道隆を嫌っていて、道兼とも疎遠ですが、現実には(好きか嫌いかはともかく)親密な関係だったと思います。

 

一条天皇の盤石ではない政治基盤を支えるには、理解者は多い方がいいし、それが血の繋がった同母兄なら、なお心強いはずだからです。

 

ともあれ、この危機感は兼家も持っていたからこそ、詮子を「皇太后」に就かせて、一条天皇の政治的弱点をカバーさせる布陣に出た…これが「詮子に肩書きがないのは不便」の解消だったのかなと、ワタクシは思います。

 

 

…と、詮子についての人物考をかましたところで、再び「皇后」に話を戻して。

 

天皇のもとに入内した娘は、「女御」のままでいるのと「皇后」になるのとでは、結構な違いがあったみたい。

 

まず、これまで見てきたように「皇后」は、たとえ夫である天皇が退位しても、崩御したとしても、その地位を追われることはありません

 

本人が亡くなってしまうか、何かしらの事情で「剥奪」でもされない限りは、ずっと「三后」の1人なのです。

 

一方の女御の地位は、たとえば実資の「北の方」になった婉子女王は、元々は花山天皇の女御でしたが、夫の退位に伴って実家に戻されてしまったように、夫の立場に左右されたようです。

 

そして、「皇后」には「中宮職」というオフィスが付属しました。

これに関連して「皇后」は「官位」や「官職」を給う独自の人事権を持っていました。

 

いつの世も、権力とはすなわち人事権のこと。この人事権パワーの効果は絶大で、その恩恵に浴したい官人たちが多く集まって来ることになりました。

 

「不可侵」と「人事権」。権威と権力の両方をガッチリ握れるだなんて、「皇后」ってなんて美味しいポジションw

 

兼家が亡くなって道隆政権の時代となると、太政官の経験が浅いまま「摂政・関白」になってしまった道隆は、さらなる権力強化の必要性を察知しました。

 

そこで行われたのが、身内の強引な引き上げだったのですが、「太政官」だけでなく「中宮職」も手に入れて、万全な政治力を整えたいと画策します。

 

しかし、「三后」が定員で満室となっているため、女御となった定子が「皇后」になれない…という問題が発生していました。

 

本当は、一条天皇の父院の皇后である遵子を「皇太后」に転上させて「皇后」を空けたいのですが、詮子が「皇太后」として滑り込んでいたために、それができなかったのです。

 

ここで、「皇太后」が空いていたら、「中関白家」があそこまで貴族たちの信用を失うことはなかったのかもしれません。

 

苦し紛れに道隆が繰り出した手が『光る君へ』第14話にも出て来た、独裁への道。

 

「中宮と皇后を別の職とする」というウルトラCでした。

 

「中宮」は、本来は「三后」が居住する場所の呼称で、やがて「皇后」を指すようになった言葉…というのは、最初の方で触れました。

 

それを「皇后」と切り離したのです。例えるなら「皇太子」と「東宮」を分けて、それぞれ別の人を立てるようなかんじ。もう無茶苦茶です(笑)

 

遵子は「皇后」のまま「皇后宮職」という新しいオフィスを与えられて、「中宮」から分離。

 

新設された「中宮」に娘の定子を「冊后」して「中宮職」を付属させ、道隆はさらなる権力基盤を形成したのでした。

 

66代・一条天皇(道隆政権発足時)
三后→四后 当代 備考 一条天皇との関係
太皇太后 昌子内親王 63代冷泉皇后 伯父の皇后
皇太后 藤原詮子 64代円融女御 生母
皇后 藤原遵子 64代円融皇后 父の皇后
中宮 [新]藤原定子 66代一条皇后 正妃

 

こうして、「太皇太后」「皇太后」「皇后」「中宮」の4人の「令制中宮」が並び立つ、前代未聞の社会秩序が誕生(990年「四后並立」)

 

道隆は、こういう強引なやり方を繰り返したために、公家社会から信用を失っていったと言われています。

 

後に伊周も信用されず、「中関白家」と呼ばれて没落していく最初のきっかけは、兼家が詮子を「皇太后」に据えた、そこから始まっていた…とも言えそうですなー。

 

道長も、この強引さには少々面喰っていたみたい。道隆によって「中宮大夫(中宮職の官)」に立てられていたにも拘らず、定子の立后の儀式を「父の喪中なので」と、欠席までしています(まぁ、父親の服喪期間に立后を急いだ道隆が悪いんですが…)

 

 

定子立后の翌年、正暦2年2月12日(991年)に、円融上皇が崩御

 

すると、半年後の9月16日、詮子が「院の菩提を弔いたい」と願い出ました。

詮子の出家によって「皇太后」は空位に。詮子は日本史上初の「女院」となります。

 

66代・一条天皇(円融上皇崩御後)
四后 当代 備考 一条天皇との関係
太皇太后 昌子内親王 63代冷泉皇后 伯父の皇后
皇太后 [出]藤原詮子
     ↓
(空位)
64代円融女御

生母

皇后 藤原遵子 64代円融皇后 父の皇后
中宮 藤原定子 66代一条皇后 正妃

 

ということは…道隆はもう1年ガマンしていれば、詮子が出家して空いた「皇太后」に遵子を転上させて、誰の非難も受けることなく定子を「皇后」にできていたんですかね…(円融院が亡くなるとか、それで妹が出家するとか、なってみないと分からないこととはいえ…)

 

その後、道隆の早過ぎる薨去と「中関白家」の没落からの、道長の栄光への道「後宮対策」がスタートを切って、「三后」の行方も複雑な道程を見せていく…のですが。

 

これ以降は本題から外れますし、何よりネタバレになってしまう(笑)ので、本日はこれまで。

 

 

全く慣れていない分野の話なので、複雑になるかなとは思っておりましたが、ここまで話が入り組んでしまうとは…。

 

なんだか無駄に煩雑なブログになってしまい、お目汚し大変失礼イタシマシタ。

 

 

道長の最高権力者への道は、自分の娘を「立后」することで切り開いたもの。

 

だから、道長の4人の娘も、今回のように解析しながら読み解くと面白いかなと思うのですが、それまた別の機会に…。

 

もしかしたらオタノシミニ…ということで。ではではー。

 

 

 

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