大河ドラマ『光る君へ』は、第1話終了時の貞元3年(978年)から第2話開始の永観2年(984年)まで、6年の歳月をすっ飛ばしています。

 

この間、もしも「藤原道長が大河の主役」だったら、スルーされなかっただろうな…という出来事がいくつかありました。

 

母・時姫との別れ(天元3年(980年))もそのひとつ…ですが、今回のようにナレ退場の可能性もありそうな気がするので、これは置いておいて(臨終間際の三石琴乃さんというのも貴重で見てみたかったですけどねw)

 

最大級にして、今後の歴史にも大きく関わって来るとワタクシが妄想しているのが、藤原超子(とおこ)の逝去

 

それは第2話開始より2年前。

天元5年1月28日(982年)の出来事でした。

 

 

『光る君へ』では、まっっったく触れられていませんが、超子は兼家の長女で道長の同母姉にあたります。

 

生年は不詳ながら、長兄・道隆(953年生)と次兄・道兼(961年生)の間。入内した年から計算して、異母兄弟の道綱(955年生)の前後の生まれだったと考えられています(道長よりひと回りくらい上になりそうですな)

 

安和元年(968年)、冷泉天皇に入内し、女御宣下。

 

父の兼家は、冷泉天皇の蔵人頭。

「公卿ではない者の娘が天皇の女御になる」初めての例となりました。

 

なんでこんなことができたのか?

 

兼家が兄・伊尹の懐刀として活躍していたことで特例を認められたから…?

「すぐ退位するし、もう師貞親王(師貞は伊尹の孫)もいるし、まぁいいか」と伊尹が判断した…?

 

正解はワタクシには分かりませんw

 

ともあれ、第1話(977年)で「東三条家のメンバー(兼家の一家)が勢ぞろい」するシーンがありましたが、すでに入内後なので一緒に登場させることはできなかったわけですなー。

 

入内した翌年の安和2年3月(969年)に「安和の変」が勃発。半年後の8月には、病気を理由に冷泉天皇が弟の守平親王に譲位。円融天皇が即位します。

 

こうして退位後の身となった冷泉上皇との間に、超子は光子内親王(973年生。2歳で夭折)、居貞親王(おきさだ。976年生。後の三条天皇)、為尊親王(ためたか。977年生。和泉式部との熱愛で有名)、敦道親王(あつみち。981年生。これまた和泉式部と以下略)と、三男一女をもうけることになりました。

 

「円融天皇は師貞親王が成長するまでの中継ぎ」で、冷泉天皇の皇統こそが正統

そんな冷泉天皇の皇子を3人も抱えることになった兼家は、明るい未来に胸を躍らせたことでしょう。

 

…と思いきや、関係良好な兄の伊尹が天禄3年(972年)に亡くなって、犬猿の仲な兄・兼通が「関白」となっていたので、当初は冷や飯食いの不遇をかこっておりました。

 

「おのれ…いやしかし、東宮さま(師貞親王)が即位して冷泉皇統が復活したら、俺の時代が来る…この子は俺の宝だ!」

 

雌伏の時を過ごすこと5年。貞元2年(977年…第1話開始時)という、兼家にとって幸運の年がやってきます。

 

この年、冷泉上皇と超子との間に、2人目の皇子(為尊親王)が誕生。そして、年の暮れの11月8日、兼通が薨去。

 

「関白」の座こそ(病身を押して参内した兼通の意地で)小野宮流の頼忠に持っていかれましたが、目の上のタンコブがなくなったことで、兼家は晴れ晴れした踊る心地になったことでしょうなー。

 

「円融天皇を中継ぎにして冷泉院の皇子・師貞の即位を目指す」という構想をぶち上げて遂行した通り、伊尹の政治主義は「冷泉皇統重視派」でした。

 

その腹心だった兼家も同じで、冷泉皇統重視派。ゆえに、伊尹・兼通亡き後の兼家の構想は「既定路線で円融の次は師貞(叔父→甥)、師貞の次は頑張って居貞(兄→弟)にする」だったと思います。

 

冷泉天皇の皇子を3人も産んだ超子は、兼家にとって本当に可愛くて本当に頼りになる、『光る君へ』に登場しなかったのが不思議なくらいの愛娘だったでしょう(まぁ、主役が兼家や道長じゃないからね…)

 

 

大河ドラマでも描かれた詮子の円融天皇への入内は、当初は「牽制」のような意味合いだったと思います。

 

円融天皇の中宮となっていたのは、兼通の娘である媓子(てるこ)

媓子は天皇の12歳も年上なので、二人の間に子女はいませんでしたが、仲は大変睦まじかったそう。

 

「中継ぎ」の天皇に、貴族たちが娘を入内させるのを敬遠していた中で、娘を入れた兼通の判断は中々に目を見張るものがありますな。

 

兼通が亡くなった時、円融天皇は18歳前後。即位からすでに8年。

 

どことなく存在感が培われてきた円融王朝に、政敵だった兄の娘が中宮として君臨しているのは、どこか不気味。

 

さらに、兼通の盟友的存在だった関白・頼忠も、娘の遵子(のぶこ)を貞元3年4月(978年)に入内。

 

「円融皇統の再構築」という構想が見えてきたことで、兼家に焦りが生じます。

 


藤原遵子@中村静香さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

「ちょこっと手を入れておくか…」と、娘の詮子を円融天皇に入内させたのは、天元元年8月(978年)のこと。

 

すると、天皇の寵愛が詮子に移った寂しさが堪えたのか、天元2年(979年)に媓子が崩御

 

空位になった皇后の座を巡り、遵子との熾烈な争奪戦が始まってしまいました。

 

天元3年(980年)、懐仁親王(のちの一条天皇)が誕生というアドバンテージを上げ、詮子側が一歩リードを果たします。

 

ひとまず皇后位戦には優位になりましたが、兼家が「この子を天皇に…」と考えたかどうかは、ちと疑問なのではなかろうか。

 

なんてったって、貴族たちにとって円融天皇は「中継ぎ」という認識。そして兼家には、居貞親王らの冷泉院の三皇子がいます。本命はこっちだったはずなのです。

 

懐仁親王の誕生は、あくまで円融皇統に好き勝手させないための布石。

 

しかし、その思惑を変えざるを得なくなる、衝撃のニュースが飛び込みます。

 

それは「超子が亡くなった」という、思ってもいなかった訃報。

 

「庚申」の夜は、閻魔大王の元へ「三尸の虫」がいかないように見張るため、みんなで「徹夜」をするのですが、その夜に超子は突然死。

 

脇息にもたれかかったまま、亡くなっていました。

 

以来、悲しみに暮れた東三条家では「庚申の行事」をやらなくなった…と言われています。

 

 

「冷泉皇統重視派」だったはずの兼家の戦略は、超子の突然死によって転換されたのではなかろうか…というのが、MY歴史考。

 

「天皇に娘を入内させ、皇子を産ませ、外祖父として権力を握る」

 

この政治手段は「国母」である娘を通じて行われるものでした。

 

大河ドラマでも描かれていたとおり、天皇の后は親でも敬語を使うほど高貴な存在。まして天皇の母ともなれば、その影響力は絶大です。

 

そして、外祖父が権力を握る時、天皇は幼いことが普通です。孫が成長してから即位すると、自分の寿命が尽きている可能性があります(笑)。だから、早期の即位を渇望しているわけです。

 

幼い天皇を操るには、お爺ちゃんではキビシイ…。乳母とか養母とか祖母とかでもいいかもしれないですが、やっぱり母親が一番。

 

だというのに、超子が亡くなってしまっては、居貞親王が即位したとしても、国母たる人物がいません。

 

ひるがえって見て…新たに誕生した円融天皇の皇子・懐仁親王なら、生母の詮子が健在です。

 

「師貞の次は、居貞ではなく懐仁にするか…」

「そうすれば、円融天皇に譲位を迫る条件にもできるか…」

 

円融天皇の皇統が「中継ぎ」から「正統」になっていく歴史的転換点

 

それは、超子の死という、東三条家にとっての大激震が幕開けになった…と思うのですが、どうでしょうかねー。

 

 

「懐仁親王を切り札にする」ならば、皇子の優位性を維持することが、兼家の次の打つ手。

 

この勝利条件は、2つありました。

 

  1. 詮子以外の女御から皇子が誕生しないこと。
  2. 媓子亡き後の空位となった皇后に詮子を立てるか、もしくは空位状態を維持すること。

 

勝利条件1は、現実には円融天皇には懐仁親王以外、女の子さえも産まれませんでしたが、これは結果論であって、現実には兼家も気が気ではなかったと思います。

大河ドラマみたいに安倍晴明に命じたい気持ちでいっぱいだったでしょうね(笑)

 

しかし、懐仁親王しか生まれなかったってのは、歴史の偶然にしても…ねぇ?

実際に兼家がナニかしていたのか、本当に歴史の偶然だったのか、あるいは豊臣の頃の淀殿みたいに詮子(以下略…つーか、やめなさい)

 

問題は勝利条件2。もしも遵子が「皇后」になってしまうと、遵子に男の子が誕生してしまった場合、懐仁親王が長子といえども優位性が危うくなってしまうからです。

 

そんな大事な時に、詮子は円融天皇の寵愛を失ってしまいます。

 

円融天皇は廷臣たちの権力のバランスを取るために詮子を遠ざけた…と言われていて、実際にその通りだったと思います。

 

「詮子が立后されるのが難しいか…ならば、遵子が皇后にならないようにしなければならん。どうするか………あ。せや、あの手を使おう!」

 

兼家が打った手。それは、尊子内親王の入内

 

尊子内親王は、冷泉天皇の皇女。師貞親王の同母姉(ということは、伊尹の孫)

冷泉天皇の時代に賀茂斎院を務め、その前途も明るい皇女さまだったのですが、祖父の伊尹、母の懐子と、立て続けに後ろ盾を失った不運な人でした。

 

「円融皇統」の再構築を模索し始めた円融天皇にとって、冷泉天皇の皇女を入内させるのは、自身の正統性にも大きく寄与すること。円融天皇は、この入内に乗り気になります。

 

懐仁親王の誕生から半年ほど経った、天元3年(980年)10月、尊子内親王が入内。御年14歳。

 

直後に内裏の焼亡というアクシデントが発生してしまいますが、天元4年(981年)1月、二品に昇叙。従四位に過ぎない遵子と詮子を、位階の上で軽々と越えます。さすが皇女様。

 

「これで、位階の低い遵子が、尊子を飛び越えて『皇后』となることはなかろう」

 

兼家が安心したのも束の間の、天元5年(982年)。

 

1月に超子が亡くなり、2月に師貞親王が元服した、その翌月の3月。大河ドラマでもあった通り、皇子の生母である詮子、位階で上位の尊子を差し置いて、遵子が立后し「皇后」となりました

 

唖然とする兼家。一体、何が起きたのか…?

 

遵子の立后は、どうやら昌子皇太后が強力に推進していたみたい。

昌子皇太后は冷泉天皇の皇后(ついでに言うと、和泉式部の最初の主人)

 

昌子皇太后は、冷泉院と円融帝の両方に外戚としての布石を打ち、政をほしいままに壟断しようとする兼家に、強い反感を抱いていたようなのです。

 

円融天皇としても、皇子を掌握している兼家に対し、関白の娘を皇后にするのは、バランス政策の一環として好都合。

 

円融天皇の腹心である蔵人頭・実資にとっては、小野宮流の遵子(実資の従兄妹)が立后するのは嬉しい御聖断。

加えて兼家が「好きではない」ので(笑)、可及的密かに立后を進める役を、喜んで務めあげた感があります。

 

こうして、遵子が皇后に就任。兼家と詮子は、勝利条件を逸してしまうのでした。

 

尊子内親王も、兼家に利用されていたことに気が付いたのか、翌月の4月9日に落髪。

 

前賀茂斎院として尊敬されていたのに、右大臣なんかに利用され、政局に巻き込まれて身を穢し、入内直後に内裏が焼けてしまったことから「火の宮」などというあだ名を付けられてしまうほどに、落とされた立場を嘆いたのでした(ひどい話だ…)

 

超子の死と、詮子の立后の失敗。

 

相次ぐ敗北に打ちのめされた兼家は、詮子と懐子親王を後宮から下がらせ、東三条第に籠って、次の手を思案するハメになりました。

 

その後のことは…大河ドラマでオタノシミニw

 

 

 

…そういえば、第2話でやっていた散楽は「詮子が皇子を産んだ」の諷刺ネタ。

 

図らずも2回連続で「散楽」の捕捉みたいなブログになってしまいました…。

 

目指していたわけじゃないですよと、一応言っておきます(笑)

 

 

 

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