『光る君へ』第6話「二人の才女」で、倫子のサロンにおいて『蜻蛉日記』について講義している場面がありました。

 

道綱母の和歌が詠まれると、貴族令嬢たちが「『蜻蛉日記』をお書きになった御方のようにはなりたくありませぬ」とクスクスしながら感想を言います。すると、まひろがすかさず反論。

 

「『蜻蛉日記』は、殿御に顧みられなかった作者が、その嘆きを綴ったものではないと思いますよ」

「前書きにも『身分の高い男に愛された女の思い出の記』とございます」

「身分の低い私は、身分の高い殿御に愛され、煩悩の限り激しく生きたのでございますという、自慢話ではないでしょうか」

 

この場では、赤染衛門も賛意を示しおりましたが、はてさて。

 

『蜻蛉日記』が書かれたことの真意は、何が本当のところだったのだろうか。

 

 

ワタクシ『蜻蛉日記』は大昔に読んだことがある…のですが、全部ではなく部分部分…つまみ食いみたいな…。

 

というのも、兼家とその周辺を知りたくて…という、だいぶ不純な動機だったので…。なので、あまり理解も進んでいません…。

 

などという不勉強を棚に上げておいて、考えてみると。

 

 

まず前提として、史料を読み解くと『蜻蛉日記』が嘆くほど兼家の足は道綱母から遠のいては居ないという指摘があるそうです。


そして、『蜻蛉日記』が当時流布したということは、貴重だったはずの紙を使っていたということ。

 

そんなことができるのは、恨みをぶつけられている張本人・兼家その人のはず。

つまり、『蜻蛉日記』は、書かれている内容とは裏腹に、兼家の同意のもとで綴られていた…と考えられます。

 

そして、『蜻蛉日記』には「贈答歌」という形で、憎いはずの兼家の和歌が、これでもかというほどヤマと出てきます。しかも、歌人として評価の高い道綱母のお相手として、です。

 

『蜻蛉日記』が流布したら、歌詠み文化人としての兼家の宣伝になるわけです。

 

これを進展させて考えると、兼家は協力的だったどころか、兼家が書かせていたのかもしれない…となっていきます。

 

憎まれ口を叩かれている兼家ですが、その内容だって兼家の意向で「虚構」「脚色」にまみれている可能性も、ありそうな気がします。

 

「面白ければ面白いほど広まるだろ」みたいな。「もっと盛れ、もっと悪しざまに書け!」と、彼女の横で楽しく指示していたかもしれないのです(兼家は「猿楽言=ジョーク」が好きだったと言われています)。兼家には、ディレクター的才能があったんでしょうかねw

 

 

…というような『蜻蛉日記』評が近年は大きく取り沙汰されているようで(主流かどうかは分かりませんが)。

 

『光る君へ』では、これをもう少し進めさせて「本当は道綱母の自慢話だった」という「文学オタク」まひろの評価として採用した…ということなんでしょうかね。

 

(実際、第5話では兼家と道綱母が楽しそうに会っているシーンがありましたし、少なくともドラマの中では「これが真相に近い」という設定なのかもしれません)

 

 

まひろの評価を否定しない上で、「兼家が書かせた」という推測に乗っかって、自慢していたのは、道綱母ではなく兼家のほうだったのではなかろうか…と、ワタクシは考えています。

 

道綱母は「日本三大美人」に数えられたりして、多分に兼家のトロフィーワイフとして機能していますし、内容は道綱母の恨みつらみと見せかけて、「こんな才女に、こんなにも愛されていたんだぞ」と言いふらしているようにも取れます。

 

これを読んだら、歌人として、また色男として、ダンディ兼家の名声は広がります。

 

『蜻蛉日記』には、そうした裏のコンセプトがあったと考えるのは楽しいし、「らしさ」があるような気もしますなー。

 

(それを自分ではなくトロフィーワイフに書かせるあたり、兼家も中々やるな!って思いますw)

 

 

ところで、「兼家とその周辺を知りたくて『蜻蛉日記』をつまみ食いした」と、さきほど懺悔(?)したことについて。

 

『蜻蛉日記』は、歴史本だけでは見えてこない兼家とその周辺のことが、ちらほら見えてくるという利点があるんです。

 

そこで、今日は『光る君へ』にかこつけて、『蜻蛉日記』の中身を紹介する…と、そんなブログをやってみようかと。

 

つまみ食いしたものをおっ広げる…なんだか下品のような気もしますが(笑)、今年は登場人物がビジュアル化されていますから、立ち振る舞いや台詞なんかも脳内再生余裕で、楽しく想像できてしまえそうですしねー。

 

というわけで、さっそく取り掛かろうと思うのですが、その前に1つ。

 

『蜻蛉日記』の作者って誰?というと、大抵は「道綱母」という答えが返って来るのではなかろうか。

 

「兼家室」でも「倫寧女」でもなく「道綱母」

 

これはこれでいいのですが、この呼び方だと「母属性」に引き摺られてしまって、彼女が未婚だった時代からお話は始まるのに、なんだか不便だなと思いまして。

 

幸い、『光る君へ』では「寧子(やすこ)」という役名が付けられています。

 

なので、今回のブログは彼女を「寧子」という呼称で統一していきたいと思います。

 

 

 

『蜻蛉日記』は、天暦8年(953年)の2人の馴れ初めから、天延元年(973年)までの20年間を記した日記。

 

(ということは、『光る君へ』第1話の時点で『蜻蛉日記』は完結していたわけですな)

 

日記と言っても日付けで箇条書きになっているわけではなく、物語がいくつも連なって成している「一代記」のような書物となっています。

 

で、まずは内容に入っていく前に…。

 

まひろが言っていた「身分の高い男に愛された女の思い出の記」と書かれた前書き部分を確認すると、こんなかんじになっています。

 

かくありし時過ぎて 世の中にいとものはかなく とにもかくにもつかで 世に経る人ありけり

かたちとても人にも似ず 心魂もあるにもあらで かうものの要にもあらであるも ことわりと思ひつつ ただ臥し起き明かし暮らすままに 世の中に多かる古物語のはしなどを見れば 世に多かるそらごとだにあり 人にもあらぬ身の上まで書き日記にして めづらしきさまにもありなむ 天下の人の品たかきやと問はむためしにもせよかし とおぼゆるも 過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ さてもありぬべきことなむ多かりける

 

「世の中には昔物語がたくさんあふれていて、読んでみるとありきたりなのに、注目を集めていたりする。だったら、大して存在価値のあるわけでもない私だけど、身分の高い人と結婚した体験話を書いてみたら、そこそこ興味を引いてもらえる物語になりえるのではないでしょうか。ただ、昔のことなので忘れかけたことも多くて…。でも書かないよりマシかなって」みたいな意味。

 

人にもあらぬ身の上まで書き日記にして(身分の高い殿方に愛された、珍しい体験談を日記にして)」

天下の人の品たかきやと問はむためしにもせよかし(身分の高い殿方との結婚生活って、どのようなものかしら?と興味がある人への、答えの1つになったらいいな)」

 

言っています言っています。まひろは、前書き部分もちゃんと丁寧に読んで覚えていたわけですなw

 

そして、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ(昔のことなので、記憶が曖昧になりかけているのだけれど)」ということは、「日記」と言いながら「その日その日に記したもの」ではなく「後から思い出しながら書いたもの」ということになりそうですね(全部ではないにしても、それなりの紙面は後から書いたんですかね。そもそも日記に前書きがある時点で、それ日記…?なんて)

 

 

さて、お話は「兵衛佐」こと藤原兼家が寧子の邸にやってきて求婚するところから始まります。

 

天暦8年(953年)、寧子は18歳。

兼家は24歳で従五位下・右兵衛佐。

 

兼家の父・師輔はまだ健在で(960年没)、時姫との間に長男・道隆が生まれたばかり…そんな年でした。

 

 

当時、男が部下を使って恋文を送って、女が返事をして…を繰り返しながら、徐々に距離を縮めて行って結婚に至る…というのが、一般的な求愛作法。

 

しかし、兼家はこれを完全無視。馬で邸に乗り込むと、なんと寧子の父に「娘さんに会わせてください」と直談判

 

その場は「いや、身分が合いませんから…」と丁重にお断りされたようなのですが、その後は襟を正して、たびたび手紙を送ってくるようになります。

 

女子なら、じれったい手紙の応酬から恋が芽生える…というシチュエーションに萌え期待も高まるところを、常識外れな始まり方をされて、寧子も呆れ返ったのではなかろうか。

 

しかし、このインパクトがかえって「忘れられない男」というイメージを植え付けたようで、この後は頻繁に手紙のやりとりを交わしています(兼家が詠んだ和歌がいっぱい掲載されています)

 

 

最初の事件が起きたのは、道綱が生まれて(ということは天暦9年8月(955年))間もない頃の9月。

 

兼家が置いて行った文箱をなんとなく開けてみると、ほかの女性に送ろうとした手紙が入っていました。

 

「何よこれ…」信じられない気持ちで心が動転する寧子。

 

その場は「この手紙、私見たわよ」と、余白にサラっと書き記しておく程度で済ませたのですが、この次なる愛人…「町小路の女」への嫉妬に、寧子は苦しめられていくことになります。

 

もうどうしていいか分からないあまり、兼家が訪ねて来たのに門を開けることができず。すると、そのままの足で「町小路の女」のもとへと行ってしまう兼家。

 

「えっ…何なのあの人は!?でも、無視したままというのも宜しくない…」

 

その時に兼家に送られたものが、『百人一首』に採用された、あの和歌です。

 

入道摂政まかりたりけるに 門を遅く開けければ 立ちわづらひぬと言ひ入れてはべりければ

なげきつつ ひとりぬる夜の明くるまは
いかに久しきものとかは知る


右大将道綱母/拾遺集 恋 912

 

嘆きながら独り寝をする夜の明けるまでが、どんなに長くつらいのか、貴方には分からないでしょう。門が開けられるのを待つこともできないんですから。

 

別の女ができたショックで頭が回らなかったのでしょうか。「明くる」と「開くる」が掛詞になっている程度で、あまり技巧が凝らされていません。

 

この和歌には、色が褪せた菊の花をつけて届けられたそうです。なんとも可哀想な雰囲気をかきたてる(でもロマンチックな)演出ですなー。

 

これに対する兼家の返しは、こんなかんじ。

 

げにやげに 冬の夜ならぬ真木の戸も
遅くあくるは わびしかりけり

 

もっともなことでございます。冬の夜は長く明けないものですが、冬の夜でもない真木の戸も中々開かないのは、つらいものですよ。

 

「げにやげに」…なんだか、ふざけているような語感で返してくる兼家(^^;

 

これを聞いた寧子の反応はさても いとあやしかりつるほどに ことなしびたる(それにしても、不思議なくらいに何事もなかったような顔してるのは何なん??)」と、不愉快極まりないのでした(笑)

 

なお余談ですが、このあたりの出来事の描写は、寧子の姉のもとに通う男のことと同時進行でされています。

 

その男は、藤原為雅という、紫式部の母方の大伯父にあたる人物だったりします。

 

 

兼家の不純に嘆くあまり為雅に対して激しく愚痴る寧子に「兼家殿は兼家殿、私は私です。一緒にしないでください…」と弱っていたりしています(笑)

 

この後も度々、兼家は訪ねて来るのですが、心が安らがない寧子は、機嫌が悪かったり、ぼーっとしたりしています。

 

そうこうするうちに、「町小町の女」が兼家の子を出産。

 

ますます寧子は兼家と関係がこじれてしまい、しかしここでも兼家との贈答歌がずらっと繰り返されます。

 

それでも気がまぎれなかったのか、寧子…なんと、時姫と連絡を取り始めてしまいます(!)

 

第一夫人の時姫も、「町小町の女」の出現に気が気でないだろうと思い、慰めたいのと自分の苦悩を分かち合いたいのとで、和歌を送ってしまうのです。

 

 

天暦10年5月(956年)、時姫に和歌が送られてきます。

 

そこにさへ かるといふなる真菰草
いかなる沢に ねをとどむらね

 

マコモ草が兼家のことを指し、「かる」が「刈る」と「離る(さかる)」の掛詞。「ねをとどむ」は「根」と「寝」の掛詞。

「貴女のところにも帰らないとは、兼家はどこに行っているのでしょうか…」みたいな意味。

 

時姫からしたら「寧子…私から見たら貴女も町小町の女も同じなんですけど…」と、呆れた気分でしょうなw

 

こんな和歌を返しています。

 

真菰草 かるとはよどの沢なれや
ねをとどむてふ沢はそことか

 

「よど」は真菰草の産地「淀川」と「夜殿」の掛詞。

「あなたのところに行っていると聞いてますよ」みたいな意味。

 

時姫は「町小町の女」のことを、知らない人よとでも言うかのように、わざとトボケてみせた…と言われています。

 

 

そんな時姫とは、賀茂祭でも和歌を取り交わしています。

ただし、こちらは慰めや様子伺いではなく、バチバチの短連歌対決

 

康保3年4月(966年)、賀茂祭を見物に来た寧子は、時姫がいるのを発見。道の向かいに車を停めるも、何の反応もありません。

 

行列を待つ間、手持ち無沙汰になっていた寧子は、時姫と短連歌対決をしてみようと、手元にあった葵と橘の実を添えて上の句を送ります。

 

 

あふひとか 聞けどもよそに たちばなの

 

「葵祭は人と逢う日だと聞いていますのに、あなたは知らん顔で立ったままで…」

(「葵」と「会ふ日」、「立ち」と「橘」が掛詞)

 

 

すると、だいぶ時間が経ってから、時姫から返事が送られてきます。

 

 

きみがつらさを今日こそは見れ

 

「向こうに車を停めた、あなたの冷たさを今日、目にしましたわよ」

(「きみ」が「君」と「黄色い橘の実」の掛詞)

 

 

こちらが「そんな知らんぷりしなくてもいいじゃない」と送ったものが、「向こうに車を停めて…あなたって冷たいのね」と返って来たわけ。

 

これは寧子の勝ちか?時姫の勝ちか?

 

ワタクシには分かりませんが、わざわざ返事が来るまでをやや久しうありて(だいぶ時間が経ってから)」と書いているあたり、本人は勝ったと思ってるのではなかろうかw

 

しかし、考えてみれば、この賀茂祭で短連歌勝負をした康保3年(966年)といえば、道長が生まれた年。

 

見物に来ていた時姫は妊娠中だったのか?出産後だったのか?ともあれ、コンディションが万全ではなかった可能性もありますね。

 

弱ってるところに勝負を挑むのは、スポーツマンシップに反しますぜ寧子さん。

 

 

康保4年(967年)、村上天皇から冷泉天皇へと御世が移った時、「蔵人頭」だった兼通が再任されず、兼家が新任として就任し、兄弟間の確執の原因となった…とは、以前にも触れた通り。

 

コウメイの罠(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html

 

この頃の『蜻蛉日記』には、「帝が亡くなったと言うのに、あの人は『蔵人頭になった!』と騒いでいる」と記されています。

 

『光る君へ』の兼家の人心知らずの鬼みたいなキャラは、このへんも参考にされているのではなかろうか(笑)

 

この時、村上天皇の後宮にいた「貞観殿(登子(なりこ)。兼家の同母妹)」に、慰めの和歌を送ったりしています(登子、『光る君へ』に出ると思ったんだけどな…)

 

よく「『蜻蛉日記』は表向きの政治のことは書かれず兼家との日常ばかりが描写されている」と紹介されているので、ちゃんとリンクしたこともあるんですよと、一応ねw

 

 

『蜻蛉日記』最大の事件と言えば、「鳴滝アマガエル騒動」(註:勝手にワタクシが命名しただけで、一般的にこう呼ばれているわけではありません)

 

兼家が新居「東三条第」に移り住んだ時、迎え入れられたのは寧子ではなく時姫でした。

 

完全に敗北を悟った寧子は、「いっそ出家してしまおう」と思い詰めてしまいます。

 

天禄2年6月(971年)、子息の道綱を連れて「鳴滝」に籠ることになりました。

 

 

「鳴滝」というのは、現在の「京都市右京区鳴滝般若寺町」のことみたい。

 

 

現在は地名しか残っていませんが、当時は「五台山 般若寺」という、とても栄えたお寺があったそうです。

 

ここに3週間ほど参篭することになるのですが、『蜻蛉日記』には仏事や精進のことはあまり描かれず、自然描写や見舞いにくる人との交流にページが割かれていて、「出家は寧子の本心ではなかった」と言われています。

 

寧子に出家されると兼家も体裁が悪いので、迎えを寄越してきます。

 

「帰るんなら今のうちですよ…後になって退けなくなったら大事でしょう。それに、叙爵されてこれからが大事な御子息の道綱さままでお連れになって、学びも何もできない無為な時間をお過ごしさせるのが、惨いことだと思いませんか」

 

それでも帰らない寧子に、しびれを切らせたのか、兼家はなんと長男・道隆を派遣してきます。

 

道隆は天暦7年(953年)生まれなので、この時19歳。

奇しくも、求婚に来た時の兼家と同じ「兵衛佐」の地位にありました。

 

(兼家は24歳で「兵衛佐」ですから、道隆の方が出世が早いですな…さすが長男w)

 

 

この時の様子を、『蜻蛉日記』はこのように記しています。

 

あるひの昼つ方 大門の方に 馬のいななくこゑして 人のあまたあるけはひしたり

木の間より見通しやりたれば ここかしこ 直人あまた見えて あゆみくめるは 兵衛の佐なめりと思へば 大夫呼びいだして 「今まで聞えさせざりつるかしこまり 取り重ねてとてなむ 参り来たる」といひ入れて 木陰に立ち休らふさま 京おぼえて いとをかしかめり

このごろは「のちに」といひし人も のぼりあれば それになほしもあらぬやうにあれば いたくけしきばみて立てり

返りごとは「いとうれしき御名なるを 早くこなたに入り給へ さきざきの御不浄は いかで事なかるべく祈り聞えむ」と物したれば あゆみ出でて高欄におしかかりて まづ手水など物して入りたり

 

ある日の昼頃、大門の方から馬の音がして、人が集まっている様子だったので、木々の間から覗いてみると、大勢の地下人たちが見える中、馬から下りて歩いてくる兵衛佐(道隆)らしき人が見えました。

…と思ったら道綱が呼び出されて、「今までお見舞い申し上げなかったお詫び方々参上しました」と来意を告げ、木陰に立ったまま佇んでいる様子の優雅さが、京が思い出されて趣深い。まぁ、「後で来るね」と言っていたウチの妹が登って来ているので、道隆はそれを気にして気取って立っているんでしょうけれど。

「大層嬉しいお名前を伺いました。早くこちらにお入りください。あなたのために祈って差し上げますよ」と返事を送ったところ、道隆は口禊をして入ってきました。

 

息子のライバルとはいえ、見目麗しい若武者がわざわざ迎えに来てくれたことは、寧子も嬉しかったんでしょうね。

 

嬉し過ぎたのか、「あなたのために祈って差し上げます(さきざきの御不浄は いかで事なかるべく祈り聞えむ)」と、意味がよく分からない頓珍漢なことを言っています(笑)

 

(それなのに、ちゃんと祈ってもらおうと、手水で禊をして入って来る道隆は立派ですな)

 

ともあれ、兼家の作戦大成功といったところw

 

よろづのことどもいひもてゆくに「昔 ここは見給ひしは おぼえさせ給ふや」と問へば「いかがは いと確かにおぼえて 今こそかく疎くても候へ」などいふを 思ひまはせば 物もいひさして 声変はる心ちすれば しばしためらへば 人もいみじと思ひて とみに物もいはず

さて「御声など変はらせ給ふなるは いとことわりにはあれど さらにかくおぼさじ よにかくてやみ給ふやうはあらじ」など ひがざまに思ひなしてにやあらむ

いふ「『かく参らば よく聞えあはせよ』などのたまひつる」といへば 「などか 人のさのたまはずとも 今にもなむ」などいへば 「さらば 同じくは けふ出でさせ給へ やがて御供つかまつらむ まづは この大夫の まれまれ京に物しては 日かげかたぶけば 山寺へと急ぐを見給ふるに いとなむゆゆしき心ちし侍る」などいへど けしきもなければ しばし休らひて 帰りぬ

 

「道隆さん、むかし会ったことがありますが、私の顔を覚えていましたか?」と問うと「もちろんでございます。今でこそこうしてご無沙汰もしておりますが」などと言うので、色々なことが思い起こされて、言葉が途中で出なくなって、涙声になるのをこらえているうちに、道隆も深刻だと思って静かにしていました。「涙声になっておられますが、決して深刻にお考えにならないでください。絶対に、このまま出家して終わりにしてはなりません」などと、世間の噂を耳にして考えておられるのかもしれません。

すると道隆が「父上が『お前が般若寺に参上するなら、あの方とよく相談申し上げよ』とおっしゃっておりました」と言ったので、「なんで相談する必要がありましょうか。あの方がいちいちおっしゃらなくても、私は今にも勝手に下山するつもりなんですから」と答えると、「そうでございましたか。同じことであれば、今日下山なされませ。このままお供申し上げます。この道綱が夕方日が暮れる前にと急いで般若寺に帰るのをたまに見かけますが、大層大変そうでございましたよ」

 

19歳にして、とてもしっかりとした言葉で寧子が下山するように仕向ける道隆。

ひとかどの人物ではない…というかんじがしますね。さすが兄上。

 

寧子が「むかし会ったことがありますが覚えていますか?」と言葉をかけていますが、道隆が寧子を迎えに来たのは、実はこれが2回目

 

1回目は、これより3年前の安和元年(968年)初瀬詣での時に、宇治院まで出迎えに来ていたのでした(この時は衛府佐)。

 

初瀬詣の話には、兼家の叔父である師氏(按察使の大納言)が差し入れを寄越してきたりと、中々の見所があるのですが、今回は割愛して。

 

下山して迎えに来た車に乗ると、兼家が同じ車に乗り込んできます。

 

そして楽しそうにジョークを飛ばしながら、これまでのことは何事もなかったかのうに、帰路についたのでした。

 

ほっとほだされた寧子でしたが、意地悪い兼家は彼女に「今日からお前を『アマガエル』と呼ぶことにする」と言い放ちます。

 

「アマガエル=雨蛙」と「アマガエル=尼返る」を掛けているわけ。

兼家、どこまでもジョークが好きな明るいオッサンです(笑)

 

こんな風にイジられたり喧嘩したりしながら、『蜻蛉日記』は天延元年(973年)、追儺(ついな。大晦日の日に悪鬼を追い払う行事)の節会があったことで、終了しています。

 

 

というわけで、今回は以上ここまでといたします。

 

本日はバレンタインデーと言うことで、義理なんだか本命なんだか分からない、兼家と寧子の夫婦生活を取りあげるのも面白いかなーと。急ぎ足ながら『蜻蛉日記』を紹介してみました。

 

しかし、全容を読破したことがない、知らないワタクシが書いても、こんなに長文になってしまう…。

 

全部紹介したら大変なことになりますね(汗)

 

 

 

 

以下、余談。

 

 

 

 

余談、その1。

 

上記でも紹介しましたが、寧子は紫式部とは親戚筋。

寧子の姉が、紫式部の母の伯父と結婚しているのです。

 

そして、以前に紹介しましたが、寧子は清少納言とも親戚筋。

清少納言の姉が、寧子の兄・理能と結婚しているので、義理の姉妹にあたるのです。

 

 

さらに、寧子の妹は菅原孝標(たかすえ)に嫁いでおり、生まれた娘は『更級日記』の作者として知られています。

 

『紫日記』の紫式部、『枕草子』の清少納言、『更級日記』の菅原孝標女。

 

何故、寧子はこんなにも日記文学の担い手たちに囲まれているのか?

 

ここまで語ってきたことを踏まえれば、これ「寧子が囲まれている」んじゃないですよね。「寧子が始まりになっている」んです。

 

なんてったって、『蜻蛉日記』が完結したのは天延元年(973年)。

 

3人の中で最年長と言われている清少納言でも7歳。紫式部は、おそらく生まれたばかりで、菅原孝標女は影も形もありません(父の孝標が5歳くらい)

 

彼女たちが文学の担い手になったのは、もしかしたら親戚筋の才女が『蜻蛉日記』を書いていて、それを読む機会があったから…何なら、お話する機会さえあったから、なのかもしれません。

 

『蜻蛉日記』の何が、それぞれの作品の何処に影響しているのか?という比較分析はやめておきますが(そんな知識もスキルもありませんw)、寧子もまた、日本の文化において無視できない存在なのかもしれないな…となりますねー。

 

 

 

余談、その2。

 

『光る君へ』では、『蜻蛉日記』を「読んだことがない」という倫子に、まひろが「写本を貸しましょうか?」と手を差し伸べた所を「要らないわ」と言われていました。

 

表向きは「私、本を読むのが苦手なの」でしたし、おそらくは本当のことなんでしょうけど、ドラマ的に考えると…。

 

将来、道長の妻になる倫子。

 

『蜻蛉日記』は「身分の低い私は、身分の高い殿御に愛され、煩悩の限り激しく生きたのでございますという、自慢話」とするなら。

 

「まひろさん。私の殿御に、手を出しちゃダメよ」という未来への暗示になっている…?

 

もしそうだとしたら、作り込みがある意味怖いドラマ…となりそうですねぇ(汗)

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html