FaceBookであの高遠菜穂子さんが、イラク・クルド自治区入りをしたことを知る。
クルド人数千人のヤジディ教徒が山に閉じ込められているようだ。

イラク・トルコ国境にて

今からちょうど23年前の1991年7月23日、私はトルコ・イラク国境の町ジズレからイラク入国をしようとしていた。
トルコ国境からは、パスポートにトルコ入出国のスタンプが押されるが、イラク側は当時(今も?)クルド支配地域で、出入国管理がなされておらず、クルド民兵が立っているだけだった。
私は、約束したクルド人のジャーナリストに言われるまま、国境越えをしてそのジャーナリストの出迎えの車を国境で待っていた。
なにしろ、のんびりした空間が流れ、その国境警備?のクルド民兵と記念撮影?をしてみたり、暇を持て余していた。
何人かの女性たちが国境を越えてトルコ入国をするため、待っていた。
その時、私が「クルド人ですか?」と尋ねると「クリスチャンです」と答えた。
多分、国を持たない最大の民族としてよりも自らの信じる宗教をアイデンティティとしていたのだろう。宗教心の薄い日本人からは、感覚的にわからない話しだ。
 
「ヤジディ教徒」って聞いたことがなかった。国を持たないクルド人にとって、自治区としてもっとも国に近い形で生活できる空間、イラク北部地区には、いろんな宗教があるのだろう。そのアイデンティティは、クルド語を話すということなのだと思う。
そのクルド人としての天国が今揺さぶられている。何が正しいのか、わからない。ただ武力による制圧で思想信条を押し付ける(米国も同じ)解決方法は、また憎しみの連鎖を生むだけだ。
高遠さんが「微力を全力でつくすだけ・・・声に出し見る」と言い聞かせるように気合を入れている難しさがガンガン伝わってくる。
 ガザ

「約束の地」に集結して、そこに住んでいたパレスチナ人を追い出して国を創ったユダヤ人=イスラエル人とは、肌の色=人種、言語も違う。ユダヤ教徒という共通点だけだということは、広く知られている。今、先住のパレスチナ人が、国を追われ、ガザという狭い地域(東京23区の6割程度の面積)150万人が住まわされ、特にその内120万人が難民で8つの難民キャンプの更に狭いところに住んでいる。そればかりか、外部と封鎖され人とモノの往来ができないように追い詰められている。
ハマスもロケット弾攻撃をやめるべきだと思いつつ、追い詰められたその気持ちがわからないわけではない。
どちらの側にたっても、殺人は更に憎悪を倍増するだけだ。

<参考 今朝の高遠さんのFaceBookより>
国内避難民で溢れかえるイラク北部クルド自治区アルビルに来ました。灼熱の46度。新聞の週間天気予報によると、まだ上がるもよう。この過酷な暑さの中、今もまだシンジャルの山の上に数千人のヤジディ教徒たちが動けずにいるのか…。全く日陰のないあの山で…。
 
地元の人権団体によると、アルビル県内に難民・避難民キャンプなど(教会、地域含む) 5カ所。「建築中の建物にいる家族たちは文字通り何もなく悲惨です」とのこと。人口70万人のドホークは、シンジャルからの人々も含めるとすでに人口以上の避難民を受け入れているそう。
 
微力を全力で尽くすだけ。ゼロじゃない。と、声に出してみる。

20万人以上の避難民

<参考 朝日新聞 3回連載の高遠菜穂子さんの紹介?
高遠菜穂子さんの朝日新聞3連載の2回目です。
苦難を乗り越え、イラク民衆への支援を続け、情報を発信続けてくれている。
 
(逆風満帆)体当たりで少年らの自立促す
吉川一樹2014年8月9日03時30分
人質事件前、シンナーを吸う少年のけんかを仲裁することも=2003年12月、イラク・バグダッド、小玉直也氏撮影

高遠菜穂子さん1

■イラク支援ボランティア 高遠菜穂子(中)
 
 イラク戦争の開戦から1カ月あまりたった2003年5月、高遠菜穂子(44)は初めて現地に足を踏み入れた。
 
 戦闘地域の病院や学校、孤児院を回ると、クラスター爆弾や銃撃で負傷した子どもが多数いた。滞在先のホテルも何者かに襲撃され、床をはって身を隠した。
 
 一時帰国し、再びイラクへ。戦災や虐待、貧困などで路上生活を強いられる子どもの支援に力を入れた。とりわけシンナー中毒の10代の少年たちは周りの大人たちからも避けられていた。
 
 「少年に体当たりで接していた」と、高遠をよく知るフォトジャーナリスト森住卓(もりずみたかし)(63)は言う。汚れた手で差し出された食べ物を口にし、時に一緒にたばこを吸って距離を縮めていった。日本人ボランティアたちと借りた部屋で、少年たちは洗濯をし、シャワーを浴びた。すると周りの見る目も変わり、少年たちも自立を真剣に考えるようになった。
 
 小泉政権はイラク復興支援のためとして自衛隊の派遣を決定。04年2月、陸上自衛隊本隊の第1陣がイラク・サマワに到着した。
 
 ストリートチルドレンの自立支援を本格化させるため高遠は同年4月、今井紀明(29)、郡山総一郎(42)と3人で隣国ヨルダンからタクシーに乗り、イラクの首都バグダッドを目指した。劣化ウラン弾被害の取材が目的の今井とはもともと一緒に行く計画で、写真家の郡山とはヨルダンで出会った。
 
 国境を越え、4度目のイラク入り。危険地帯のファルージャを迂回(うかい)する途中、ガソリンスタンドに立ち寄った。気づくと車は数十人の住民らに取り囲まれていた。刺すような視線。
 「ヤバニ ムー ゼン(日本人はよくない)」。男が怒鳴り、親指で首をかき切るしぐさをした。小型の対戦車ロケット砲を背負った覆面の男が走ってくる。運転手が抱きついてなだめても収まらない。「殺せ」「スパイだ」
 
 車で拉致された。連れ込まれた薄暗い室内に、重武装の男たちが荒々しく入ってきた。目隠しされると、「ノー コイズミ!」と男たちが大合唱し、「お前も叫べ」とばかりに、のど元に硬い物を押しつけられた。刃物か。恐怖に駆られ「ノー コイズミ!」と繰り返し、嗚咽(おえつ)した。この時の映像が日本のテレビで流れるとは思いもしなかった。
 砂漠の中の建物や民家を転々とし、軟禁は9日間に及んだ。イスラム宗教者委員会に保護され、日本大使館で初めて自分たちが「人質」として利用されたことを知った。
 
■バッシングに心が崩壊
 
 待っていたのは、過熱取材と猛烈なバッシングだった。ドバイに迎えに来た家族から、日本では「自己責任」という言葉で批判されていると聞かされた。
 
 「『人質報道』に隠された『本当の話』」(週刊新潮04年4月22日号)、「『運まかせ人質3人組』生い立ちと家庭環境」(週刊文春同日号)――。3人のプライバシーを書き立てる報道の嵐。「人質事件は自衛隊撤退をもくろんだ高遠らの自作自演」との説まで流された。
 
 「受け止めきれず、自分が崩壊しました」。心のバランスを崩し、帰国後は自宅に引きこもった。
 
 中傷、脅迫の手紙やはがきが届いた。母は娘の目にふれないよう隠していたが、ある日、郵便受けのはがきを見てしまった。家族の名と「天誅(てんちゅう)」の2文字。「私が殺されていればよかった!」。わめいていると母にぶたれた。「いつまで寝込んでるんだ。早く起き上がってイラク人に会ってこい!」
 
 母の厳しいひと言が、立ち直りのきっかけになった。7月、報道陣が詰めかけた東京・中野のホールで講演。改めてイラク支援を呼びかけ、市民団体「イラクホープネットワーク」を設立した。
 
 その間もイラクでは混乱が続いた。武装勢力は「人質作戦」で米軍に抵抗。高遠らの事件後、外国人を狙った人質事件が相次ぎ、同年10月には日本人旅行者(当時24)が殺害された。
 
 高遠は講演の冒頭で「ご迷惑をおかけしました」と必ず頭を下げた。直近のイラク情勢を話すのだが、まだ心は不安定で「私が私でないような感じでした」。一方でヨルダンに頻繁に通い、イラクからの避難民を支援。イラク人スタッフと連携して、イラクでの建築工事の仕事を若者に斡旋(あっせん)した。
 
 09年4月、イラクの部族長の招きで、人質事件以来5年ぶりにイラクを訪れた。ファルージャの集団墓地に行き、犠牲者の墓碑に水をかけ、手を合わせた。「イラクに置いてきた自分をやっと取り戻せた感覚でした」。本当の意味でイラク支援が再開した。
 
=敬称略(吉川一樹)


8月2日(土)朝日新聞Beで始まった連載(3回完結)
(逆風満帆)人質事件越え戦地に寄り添う
吉川一樹2014年8月2日03時30分
 
母校の小学校でイラクの戦争被害を語る。映像を見せ、現地の子どもへの悪影響を憂えた=北海道千歳市、野口隆史撮影

高遠菜穂子さん2

■イラク支援ボランティア 高遠菜穂子(上)
 
 北海道で蝦夷(えぞ)梅雨と呼ばれる雨が降り続いた6月中旬。高遠菜穂子(44)は千歳市立桜木小学校を訪れた。32年前に卒業した母校。6年生の総合学習の授業に講師として招かれた。
 
 音楽室に児童約60人が集まった。「こわいなーと思ったら見なくてもいいですよ」と前置きし、イラク政府による「対テロ空爆」の被害者の映像を流した。血まみれで泣き叫ぶ子どもたち、毛布にくるまれた家族の遺体を前に「誰を狙ってるんだ」と訴える男性。身を乗り出す児童に「テロリストを狙うと言って、死ぬのは一般の人たちが圧倒的に多いんです」と話した。
 
 2004年4月、イラクで起きた人質事件。武装勢力が高遠ら3人の日本人を拘束し、日本政府にイラクからの自衛隊撤退を要求した。
 
 前年に始まったイラク戦争を受け、小泉政権はイラクの復興支援のためとして自衛隊を派遣。外務省は日本人にイラクからの退避を勧告していた。開戦直後からイラクに入り、戦闘地域への緊急支援や子どもたちの支援をしていた高遠は、4度目の入国時に事件に遭う。日本では「あえて危険な場所に行ったのだから、つかまっても責任は本人にある」という「自己責任論」が噴出。9日間の拘束の後に解放された3人は、マスコミや世間から猛烈なバッシングを受けた。
 
 あれから10年。高遠は今も戦闘の終わらないイラクで支援を続ける。年の半分をイラクやヨルダンで、半分を日本で過ごす。日本にいる間は対テロ戦争や平和をテーマにした講演で各地を飛び回り、イラク支援のカンパを募っている。
 
 新千歳空港を抱える北海道の玄関口であり、「自衛隊の町」でもある千歳市で生まれ育った。陸上自衛隊の二つの駐屯地と航空自衛隊の基地があり、自衛隊員とその家族が人口約9万5千人の約4分の1を占めるとされる。
 
 小学生の頃、クラス名簿の父親の職業欄には「自衛官」がずらり。四十数人のクラスで、父が自衛官でないのは高遠ともう1人だけだった。
 
 「歩いている脇を戦車が通り、砲弾の音が響いてくる。それが、ふるさとの原風景です」。演習場で夏は虫を捕り、冬はスキーをした。地元で自衛官は「自衛隊さん」と呼ばれる存在。人質事件の後、「なんでよりによって自衛隊の町の私だったの?」と運命を呪った。
 
■30歳で店閉め海外へ
 
 やんちゃもした中学、高校時代。心をわしづかみにしたのは洋楽だった。聴きあさり、バンドで歌ううちに自然と英語が好きになった。
 
 両親の古い友人で、米国で黒人の経済的自立を支援していた故・田尻成芳(せいほう)に勧められ、千葉県柏市にある麗沢大学の外国語学部英語学科に進んだ。時代はバブル末期。都心のディスコに繰り出し、夜通し遊んで始発電車で帰ることも。国際寮で海外からの留学生と生活をともにし、米国への短期留学も経験した。
 
 就職活動で、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊に応募したが、不合格。東京のソフトウエア会社に入ったものの、「私のやる仕事じゃない」と、1年で辞めた。
 
 米国で田尻のカバン持ちを数カ月間やってから帰国。千歳市にある親族のビルでカラオケ店の営業に乗り出す。24歳。家族に「30歳からはやりたいことをやる」と宣言して始めた。
 
 パーティールームを設け、自衛隊員に営業して回り、宴会やお見合いパーティーを呼び込んだ。それなりに充実した毎日だったが、休みを取って友人と訪れたベトナムでストリートチルドレンと触れ合い、心を揺さぶられた。
 
 宣言通り、2000年、30歳で店を閉めた。向かったのはインドのコルカタ(カルカッタ)。故マザー・テレサの修道会の孤児院でボランティアをした。インド西部地震の被災地や、タイやカンボジアのエイズホスピスにも赴いた。
 
 01年9月11日、米国で同時多発テロが発生。米軍に報復攻撃されたアフガニスタンに向かうボランティア仲間もいたが、戦場が怖くて足がすくんだ。
 
 そして03年3月20日、イラク戦争が始まった。「米国による武力行使の開始を理解し、支持する」。小泉首相の発言に大きなショックを受けた。こんどこそ戦争に正面から向き合おう。インドで瞑想(めいそう)修業を受け、心を整えた。
 
 その年の5月、初めてイラクに入った。=敬称略(吉川一樹)