ボスニア紛争1992年~95年まで続いた。
遠い国ボスニア・ヘルツエゴビナ。
セルビアによる虐殺、長く続いた戦争、
サラエボはかつて冬季オリンピックが開かれた地だ。

私はいつか行きたいとは思っていたが、本当に行けるなどとは思っていなかった。
そこは、サラエボではなく、南に100kmくらい離れたモスタルだった。
事前に勉強すればするほど、恐ろしくなるような地だ。

長い歴史があった。
セルビア正教を信じるセルビア人
オスマントルコにの影響で改宗し、イスラム教を信じるぞボスニア人。
ローマカソリックを信じるクロアチア人。
肌の色、人種、言語はほとんど同じ、しかし宗教が違うところに
アイデンティティを求める。私にはわかりにくい民族の違い。

本当は、それぞれの国として独立していれば、よかったが
そうは、いかなかった苦しい歴史。チトーがそれでもユーゴスラビア連邦として平和に自主管理社会主義で
それぞれの民族の独自性を尊重していた。
しかし、チトー没後と社会主義の崩壊の中
大セルビア主義による支配が強まった。

ボスニア・ヘルツエゴビナは、3民族およそ同じくらいの比率で存在していた。
特に、モステルがそうだった。
ボスニアの独立志向が強まるなから、
92年にセルビア人による大虐殺が始まった。
クロアチア・ボスニア連合でセルビアと戦ったが、
次に、クロアチア人がボスニアとの争いを始め
3民族の殺し合いが始まったのだ。

この人口10万人程度のモスタルの街で、ついこの間までは
ご近所さんだった人々が殺し合いを始めたという。
当時からの人々のお互いへの疑心暗鬼は、想像することすらできない。

そして、ネレトバ川を挟み、クロアチア人とボスニア人が両側に別れて住んでいた。
(そして今も、同様に別れて住んでいるという)
3つの橋をクロアチア川から次々と破壊し
最後に15世紀に建てられた石の橋(スタリ・モスト)まで破壊した。

私たちのモスタルのガイドは、当時5~6歳だったそうだ。
でも、はっきり覚えているそうだ。
「何をどうはっきり覚えているのか?」などと聞く勇気も語学力も私にはなかった。

クロアチア側の石橋の始まりに「Don’t forget」と書かれた石碑がある。

この石橋は、2004年に再建された。その時に、その石碑も創られた。

現在のボスニアには、30%くらいにセルビア系住民がいるというが、
モステルには、ほとんどゼロである。いることができなくなるほど「虐殺の激しさ」があったことが
想像できる。

モステルは、経済的な苦しさはあるようだが、
今は平和にクロアチア・ボスニア人は共存している。

本当に心の中まで平和かは、わからない。なにせほんの10数年前の出来事だからだ。


私たち旅行者にとって、モステルは平和で明るく親切な町だ。
椅子の敷物に使えそうな小さなサイズの絨毯が安かったので、柄を見ながら
2軒のお店で買った。買った後に、

別のお店で、気に入った柄を見つけたが、数は十分だったので
買うつもりはなかった。
店主が「ハンドメイドだから、作るところを見てくれ」と2階に上げられた。
そこには、ボスニアコーヒーの粉が袋ごと置いてあった。
じつは、私たちはコーヒーも探していたので、「どこに売っているのか?」と尋ねると
店主は
「プレゼントしますよ」という。
「いや、もうこんなに買ったのでもう絨毯は買わないので、要りません」と言うと
「日本は、ボスニアのために多くの援助をしてくれた。その御礼に差し上げます」
モステルのバスシステムは、日本の援助で作られたとは、聞いていたが、
だからと言って、そんプレゼントを受け取れないと思った。

正直、世界各地で、値切り合戦で連戦連勝、ケチ世界選手権でトップクラスを自認する私だが、
「それなら、絨毯を買います」と言ってしまった。千円程度の買い物だが。

私の気持ちがわかってもらえるだろうか?
こんな話しを意識しながら、YouTube動画や写真を見てもらえれば嬉しい。