徳光由美子です
前回の続きです!
先日、日本の神々について
日本最古の書物『古事記』から学んだのですが
改めて〝なにも知らない自分〟を思い知りました
日本史や古文で触れたものの
さわりであったりテストに出る箇所だけ
50代の私でさえそうなのだから
(しかも国文科卒で!!)
学校カリキュラムのぎゅーぎゅーさを
改めて感じましたね
じゃあそれのなにが
〝ビジネスマインド〟なのかというと。。
ずっと不思議だったことがあったんです!
企業で毎朝、神棚に手を合わせたり
社屋の、例えば屋上とか敷地内に
神社がある会社のことが。
私自身は経験がないけれど
友人にはそういう会社に勤めていた人がいて
仔細に儀式についても聞いたことがあり
朝のおつとめとでも言えばいいのか
当時の私はルーティン化したその内容を聞いて
「大会社なのに古い!?」
「創業者の、会社のエゴなのでは?」
なんて内心思っていたのです。。
社会人になったばかり
20代初めとはいえ今にして思えば
無知で生意気だったな。。
これ全然違っていて!!
それはまさに〝神道〟の教え、
考えそのものだったのです
神の坐すのが〝神社〟
人の坐すのが〝会社〟
そこに住む人が
「社(やしろ)」に集い
「会う(逢う)」一族であるという考え
からきているそうなの
同じ社(やしろ)を守る一族として
命がけでけで働き、
同じ釜の飯を食べたら同族とみなし
愛を持って氏子のごとく雇用し守った、
それが日本の終身雇用だったのだとか。。
それに神棚に手を合わせるというのは
神様への〝感謝〟と〝畏れ〟の
気持ちなのですよ
日本人はこの世にあるもの
自然や植物、動物に至るまで全てに
霊威が宿っているという
八百万(やおよろず)の神を信じいて
自分ひとりでは何事もなし得ない
生かされてここにいるという感覚を
大事にしていたのですね
古代から連綿と。。
なのにいつの間にか
それを忘れてしまった。。。
どうも「強いものこそ正義!」とする
グローバル経済の潮流も関係してるみたい
そして終身雇用は崩れ
〝敬う〟気持ちとか
人間には到底なし得ないこと、
あとは神のみぞ知るというか
人事を尽くして天命を待つみたいな
これ以上は人の力が及ばない領域があることを
忘れてしまったかのように
見えるものしか信じない
そんな流れになってきましたよね
神様に手を合わせることで
目には見えないけれど畏れ敬う
心の拠り所として存在として祀るのだと
感じました
会社に神棚があり神社があるということは
創業者、あるいは社長の自己満足などではなく
社員を仲間として、
責任を持って守るべき存在として
愛を持って見ているからなのだと思ったのです
日本を代表する大企業の、
なかでも世界的企業のある会社は
毎年、退職した社員のみならず
その家族まで亡くなったら企業の神社に
合祀しているそうなの
その話を聞いてジーンとしたわ。。
もし父がOBでそんな風に扱われたら
家族としては父の人生を肯定してもらえたと
誇らしく思うし
そうまでしてくれた企業に感謝しかないなって。。
三好先生が教えてくださったのですが
神は人の敬により威を増し
人は神の徳によりて運を沿う
神様は人に敬われることにより
神様となり
人はその敬いによって
運をエスコートしてくださる
そういう意味らしいのね
「運がいい」
「運が向いてきた!」
なんて私たちはよく口にして
「私、よくがんばったー!!」なんて思うけど
それは自分の手柄じゃなく
神様がそっと手を携えてくれたのだと
そういう見えない力が後押しをしてくれたと
感謝できるかどうかが大切なんですって。。
それと追い風の、イケイケどんどんな時に
「よっしゃこのまま進め!!」なのか
「こんなことして大丈夫なのか」と
感じ立ち止まれる省みる心とか
ものごとへの歯止めというか
〝畏れる〟気持ちとか(これ企業の倫理観なのかな!?)
人の力なんて小さなものであるという
悟りとか。。
そんな事ごとを心のどこかに留め置かないと
色々な意味で暴走してしまうのだろうなとも。。
先生はね
終身雇用がなくなり
グローバル社会の到来とともに〝実力主義〟が
当たり前にまかり通るようになったけど
〝強くあれ〟はいいこととして
合理性の名の下に切り捨ててしまった
たくさんのものの中に
時代が変わっても不変の、
大切なことがあるのではとおっしゃってたわ。
って大丈夫かな!?
私かってに超訳してないかな
この勉強会での学びが今後の私を
耕してくれると感じています😊
また来月の勉強会が楽しみ〜♡
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