僕の遅道 其ノ佰拾陸 奥州街道(陸羽街道)69. 仙台宿⇒82. 一関宿 6/9 | ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

2009/11/02 慢性膵炎および仮性膵嚢胞で入院&手術をしました。
退院後は膵炎での脂質を抑えた食事などを紹介していますが内容は、
マンネリ化しやすい制限食のバリエーションの積りです
独身の男性にも作りやすいよう心がけています

三本木北町一里塚が見つからずに
まもなくR4に合流と言うところで

あ、アレって
もしかして・・・ ヽ((◎д◎ ))ゝ 一里塚じゃない?


と、思ったんですけど
一里塚とはどこにも書かれていませんね (;^_^A​


国道側に回ってみても・・・

やっぱり
書かれていません ( ̄ー ̄;


実は資料にも№99の ”三本木北町一里塚” は
痕跡なし、位置不明となっているのですが

距離的にも国道との合流付近にあったようなんですね (;^_^A​

もしかしたら
再現ではありませんけど

一里塚を偲んで
あのような塚を作ったのかも知れないですね (^^ゞ​ 実際は不明


現在時刻は12時半
タブレットをナビとして使用しながら充電を開始して約2時間


おぉぉ~
思った以上に優秀ですよ (^o^)v


一里塚跡(?)を過ぎると間もなく ”多田川” にかかる
”多田川橋” を渡ります ( ̄ー ̄; 390.1のキロポストだ


多田川橋を渡ると
同じ大崎市ですけど ”古川” 地区に入ります


1kmほど進むと国道が左にカーブし
右に入るのが街道ですよ


国道から旧道に入って1.8kmほどにあるT字路
ここに№100の ”稲葉(古川)一里塚” があったんだそうですよ (;^_^A​ 痕跡なし


一里塚跡から800mほどで
大きな柳のある小さな橋があります


この橋が ”緒絶橋” と言うんですね


実は芭蕉たちも石巻から
この御絶橋を目指していたんですけど・・・

奥の細道には
こんな風に書かれていますよ

おくのほそ道 二十八        
石巻の章段
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、

人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。

「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、

数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。

思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。

漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。

袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。

心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。

其間廿余里ほどゝおぼゆ。



十二日、平泉に行くことを心に決め、姉歯の松・緒絶の橋などを伝え聞いたので、

人の通った跡もまれで、猟師や芝刈りなどが行き来する、
どこともわからない道を行ったところ、ついに道をあやまり、石巻という港に出た。

大伴家持が「こがね花咲」と詠んで
天皇に奉った金華山を海上遠くに望み見ることができる。

湾内には、数百の廻船が集まり、人家が隙間なく建ち並んで、
かまどの煙が途切れずに立ち上がっている。

思いがけず、このような所に来てしまったなあと思いながら
宿を借りようとしたが、そのような人はさらさら見つからない。

ようやく貧しい家で一夜をあかし、
夜が明けてまた知らない道を迷いながら歩いて行く。

袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原などをよそ目に見て、
遥か先までのびている堤の上を歩いて行く。

心細い感じがする長い沼に沿って、
登米という所まで来て一宿し、平泉に到着した。

その間、二十里ほどと思われた。


つまり

12日(新暦六月二十六)にいよいよ平泉に向かおうとして
道に迷って石巻に着いてしまったと言うんですね ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

簡単な地図ですえkど
赤丸の部分が間違えて迷ってしまい


赤い線で奥州街道に戻るつもりだったと言うことなんですね (;^_^A​

しかし
曽良随行記にはそうは書いていないんですね

曽良随行日記
一 十日 快晴。松島立(馬次ニ 而ナシ。間廿丁計)。
馬次、高城村、小野(是より桃生郡。弐里半)、石巻(四里余)、仙台より十三里余。
小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニ 而咽乾、家毎ニ湯乞共不レ与。
刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方へ壱町程立帰、同道シテ湯を可レ与由ヲ頼。
又、石ノ巻ニテ新田町四兵へと尋、宿可レ借之由云テ去ル。
名ヲ問、 ねこ村(小野ノ近ク)、コンノ源太左衛門殿。如レ教、四兵へ尋テ宿ス。
着ノ後、小雨ス。 頓而止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。
奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠 嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。
帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。


矢本の宿で飲み水を求めて難儀していたところ
通りすがりの侍、今野源太左衛門に助けられ

当夜の石巻の旅宿まで紹介されたと言うんですね

矢本は松島から5里(約20km)にある
石巻との中間点ですから

初めから石巻を目指していたんでしょうね

そもそも  ”測量学” も修めたゼネラルマネージャー役の曽良がいて
そこまで道に迷うだろうか?
僕の遅道 其ノ玖拾伍 奥州街道(奥州道中)
第1走2日目 5/6 境神明社⇒白坂宿 2015-07-03 (別窓で開きます)


芭蕉の著書のフィクションの部分と言って良いでしょうね

過去の記述にも旅のトラブルとして
宿の様子などをちょっと大げさに書いたり

泊地を別の地にしたりしていますから
曽良随行記と併せて読むと面白いところですね α(・_・)

とは言え芭蕉は枕詞の旅として
この地も目指していたのは間違いないでしょうね


緒絶橋のかかるこの川は
緒絶川と言い

平安時代に嵯峨天皇に寵愛された ”おだえ姫” が都を追われ
会えずに過ごす毎日を悲観しこの川に身を投じたという悲恋伝説が残っているんですね

平安時代には緒絶橋の名は悲恋の歌枕となったんだそうですよ

上の写真は ”左京太夫道雅” の歌碑とですけど

この右の柳の横には芭蕉の句碑も建っていますよ

しかし、松島街道ではなくとも
石巻から現在の県道r108を通れば

”古川宿” の東側から
この緒絶橋に来ることはできたはずですから

緒絶橋に寄るよりも
石巻から北上して登米などに寄る用事があったのでしょうか?

こう言った奇行が
芭蕉の隠密説など産んでいるんですね α(・_・)


緒絶橋から川を覗いてみると・・・

あっ! 魚がいますよ ヽ((◎д◎ ))ゝ


色からして
”婚姻色” の現れた ”オイカワ” みたいですよ

ちょっと
この緒絶川のほとりを歩いてみましょうか (;^_^A​ Angriff 改押して


300mほどで
どうやら小学校ですかね


えっ!
”尋常高等小学校” って・・・ ( ̄□ ̄;)!!


尋常高等小学校って言うのは
戦前の学校制度で

現代は小学6年制と中学3年制の
9年間が義務教育ですよね

明治の前半には
”尋常小学校” の4年制が義務教育でしたけど

”高等小学校” の4年制が
義務教育ではなかったので授業料を徴収していたんですね

これを6年制の義務教育にステップアップする準備として

”尋常小学校” と ”高等小学校” の2年制の間に
”尋常高等小学校” の2年制を設けた時期があるんですね

年代によっては
尋常小学校と高等小学校を併設して尋常高等小学校としていた学校もあるんですね

いずれにしても
この小学校は明治に開校した小学校ですけど

実はこの小学校は
”古川城” の跡に建てられているんですね ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


古川城は中世のころには
”大崎氏” の家臣だった ”古川氏” が居城としたことに始まり

やがて伊達政宗の重臣
”鈴木元信” が居をかまえた城でもあるんですね

元信の没後は伊達藩の直轄地となり
城は廃止されていたと説明されていますよ

大正デモクラーの思想的指導者だった
”吉野作造” の生地でもあるので

ゆかりの学舎と案内板には書かれていますよ

そろそろ宿場に戻りましょうか

それにしても
風情のある建物ですよねぇ~ :*:・( ̄∀ ̄)・:*:


街道側から見ても
シビレルくらいに良い雰囲気 (≧∇≦)b


直進して100mほどのT字路を左に行くのが街道で
ここが74番目の ”古川宿” の入口になりますよ о(ж>▽<)y ☆


古川宿の名の由来は
2kmほど北を流れる ”江合川” の本流が流れていたんだそうですけど

川が進路を変え一部の残った川筋が
先の緒絶橋のある緒絶川

江合川の古い川の上にできた町並みなので
古川なんだそうですよ

さぁ~
右に曲がって宿場に入りますよ ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ


右に曲がれば宿場の中心地の
”七日町” になりますが

宿場らしい面影は全くありません

強いて言えば
間口が狭く、奥行きの長い建物が

当時の宿場の様子を物語っているだけですね

古川宿は、大崎平野の中心に位置し、古代には
”多賀城” の前線軍事拠点である ”玉造軍団” が置かれていたと言います

中世には ”大崎氏” の拠点であったと言います

大崎氏は、室町時代、足利尊氏によって
奥州総奉行に任じられた ”斯波家兼(しば いえかね)” に始まります

家兼は大崎地方6郡を領して、大崎氏を名乗り
感応2年(1351年)に名生城を築城

以後240年にわたりこの地を治めていた名家なんですね

近世の古川宿は、旧古川城下町を整備し宿場としたものだ。
文化年間(1804~18年)の家数は約100軒

300mほどにある ”十日町交差点” を左折するのが街道

十日町交差点を左折して ”十日町” に入りますけど
やはり街道の面影はありませんね (;^_^A​


400mほど進むと ”北町交差点” がありますけど
国道R108との交差点です

R108号線は ”石巻別街道”、”羽後街道”、”矢島街道” とも呼ばれているんですね

陸羽街道は直進ですので
宿場を出てそのまま1kmほど直進すると・・・

なんかの石碑がありますと ヽ((◎д◎ ))ゝ


下がってみると
桜の木で見えないんですけど (;^_^A​


”明治天皇観農遺蹟碑” って刻まれていますよ


観農ですから
農作業をご覧になったんでしょうね

明治9年(1876年)の巡幸記念ですけど
観農遺蹟は、初めてかも知れない

100m程先に ”八幡神社” がありますけど


”八幡太郎” とも呼ばれた ”源義家” が
前九年の役に凱旋したときこの境内に騎馬を留め

護持していた石清水八幡の神符を納めて
勧請したものと伝えられているんですね

あ! ちなみに
源義家は頼朝・義経の ”高祖父”

つまり曾祖父さんのお父さんですから
お祖父さんのお祖父さんですね α(・_・) 4代前ね

まもなく ”江合川” にかかる ”江合橋” が見えてきますよ


寛文6年(1668年)、始めて橋が掛けられたのは
現在の江合橋の少し上流側とのことです

街道は江合橋を渡って
すぐに左に曲がりますよ


左に曲がって
しばらく川沿いに進んだあと、街道は右カーブしています


カーブの部分を抜け
直線になってしばらく

用水路でしょうかね
小さな川がありますけど

この辺りに№101の ”休塚一里塚” が
あったんだそうですよ


街道は用水路に沿って
右に曲がります


その先、正面に得る新幹線の高架を左に進むのが街道になりますよ

そのまま600Mほど進むと
Y字路がありますけど

真っ直ぐの道が県道r15(古川登米線)陸羽街道
左が旧奥州街道の陸羽街道になります


ちょうどこのY字路の角に
何やら石碑がありますよ ( ̄ー ̄; お墓?


”聖骨伝眞居士” と刻まれた供養碑ですけど
追分石の役割を兼ねていて

裏には ”東田尻、西古川、北荒谷” と刻まれていると言いますけど
確認はできませんでした (^^ゞ​

旧道は一度国道に出ますけど
斜めに交差していて少し先で再び左に曲がります


国道を渡って200mほど
数件の商店のある辺りが

75番目の ”荒谷宿” の入り口になります

荒谷宿は戸数50弱で
旅籠も商人宿が1軒だけの小さな宿場だったそうですよ


こちらの郵便局が
本陣に当たる ”庄屋跡” なんですね


小さな宿場だったそうですけど
宿場の雰囲気は残っていませんねぇ~ (;^_^A​


庄屋跡の郵便局から400m
”田尻川” が見えてくると宿場の終わりなんですけど・・・


あれ?
おかしいなぁ~

ここに来る前に
目印があったはずなんですけど (;^_^A​ 見落とした?

いえね
ちょっと寄り道したいんですけど

どうやら
目印がなくなったみたいなんですよね (;・∀・)

まぁ~
方向的には田尻川の600mほど上流ですから

田尻川にかかる本町橋を渡って
上流を見渡すと・・・

あの森の辺りかな (;^_^A​


なんて思って本町橋から戻って500mほど
上流の方向に進むと・・・

再び田尻川にかかる橋が見えてきます


この橋は ”稲荷橋” と言って
目的の稲荷神社にお参りするための橋なんですね (≧∇≦)b

稲荷神社と言っても
旅の安全祈願をしようって言うわけじゃないんですよね (^^ゞ​

見えてきた稲荷神社は
”斗瑩(とけい)稲荷神社” って言いますよ


とけい
って言っても

σ(・_・) 趣味の時計とは違いますよ

実はこの稲荷神社は
文治3年(1187年)に源義経が奥州平泉へ下向の際

北陸路を通り鳴子を経て荒谷に至り吉野の山によく似た斗瑩山に立ち寄り

静御前遺愛の鼓の調べに聞き入っていた時
どこからともなく白狐が現れ

『鼓は自分の亡き母の皮でつくったもの、ぜひ返して頂きたい』
と、涙ながらに申し出て、斗瑩山の岩穴に入り込んだので

義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を捧げ
一向の武運長久を祈願したと言うんですね α(・_・)

実は、この白狐こそが左衛門尉四郎忠信に姿を変え
義経公東下りの先達を務めた狐忠信と ”義経千本桜” の歌舞伎に有名ですね

実はそれだけじゃないんですよ

この境内に
子供の頃の ”千葉周作” が住んでいたと言うんですね Σ(・ω・ノ)ノ!


宮城県気仙沼に生まれたと言われていますが
訳あって家を出た父の ”千葉忠左衛門成胤” が

5歳の頃の周作を連れ
境内に家を建てて住み

村の見回り役をしていたらしいんですね ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

って言うことは ”於兎松(おとまつ=後の周作)” お坊ちゃんは
この境内でわんぱくに育ったんですね (;^_^A​


その10年後、父の忠左衛門は周作を連れ
千葉県の松戸に移り住み ”馬医者” を開業したんだそうですよ

さぁ~ 元に戻って進むと
国道R4を斜めに横断しますよ


ちょうど赤い車のいるところが
横断して進む旧道ですね

旧道に入りましたけど・・・


ちょ、ちょっと用事ね ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ

実はこの旧道は800mほど国道の東側を並行しますけど
3ヶ所だけ国道につながっているんですね

で、最初の通りから国道に出ると・・・ (;^_^A​ まだ越してなかった


旧道に入る時に399.6kmのキロポストが見えたんですよね (^^ゞ​

あ! あれかな?


あった、あった
400kmゲットですよ ヽ(^。^)ノ


反対側を見ると・・・

おぉぉぉぉ
もう、仙台から47kmも走っていたんですねぇ~ Σ(・ω・ノ)ノ!



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これまでの街道等の実走行距離
中山道707.58km・東海道712.01km・
甲州街道308.88km・三州街道(伊那、飯田街道)247.46km・
東海道姫街道75.45km・下田街道77.99km・
足助街道(三州街道と重複)28.41km・
壬生街道(日光西街道)55.74km・

日光街道51.74km(含共通部182.21km(一部地図測定)
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)

日光街道・奥州街道共通編130.47km(一部地図測定)
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(奥州道中)159.59km
奥州道中/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(仙台道)197.85km
仙台道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(陸羽街道)
陸羽街道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道現在の延長距離(日本橋から仙台宿)487.91km

番外編 2013年冬の東北333.67km・番外編 日光御成街道67.52km・
番外編 三鉄全線再開記念183.51km・

番外編 芭蕉の足跡 日光⇒那須野編96.65km
番外編 芭蕉の足跡 喜沢追分⇒今市59.58km
おくのほそ道 芭蕉の足跡/Google My Map (別窓で開きます)

日光例幣使街道 138.49km
日光例幣使街道/Google My Map (別窓で開きます)


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風評被害をなくしましょう               地震速報

                     

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