ノド乾いたなぁ~

あ! あれって
もしかしたら・・・


やっぱりそうだ
古くは弘法大師が身を清め衣がえをしたという ”衣がえの清水” ですよ ヽ((◎д◎ ))ゝ


実はこの付近に奥州街道№45の ”境明神一里塚” が
あったらしいんですけど痕跡もなく不明なんですね

芭蕉たちも
この清水で休憩して白河関に向かったと言います

ちょっと下りてみましょうか (;^_^A 飲めるのかな?


意外と小さな清水なんですねぇ~ ( ̄_ ̄ i)


簡易水道か何かを取水しているようですけど
ちょっとゴミが多いなぁ~ (;^_^A 吸い殻とか


まっ
もう少し行けば何か自販機でもあるでしょう ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘

あった
自販機だぁ~ O(≧▽≦)O ちょうど旗宿に行く入り口だ


とりあえず飲み物を補給して
旗宿へ進みましょう~ ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ


芭蕉の時代にはすでに廃墟となっていた白河関ですけど
東山道にあったことだけは判っているんですね

言ってみれば
白河関を越えるまでが長い序章

おくのほそ道には
心許なき日かず重るままに白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。
いかで都へと便求しも断(ことわり)也。中にもこの関は三関の一にして,風騒の人心をとゞむ。
秋風を耳に残し,紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。
卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする


とありますから
白河の関を越えていよいよ ”奥の細道の旅” に入る覚悟が見受けられますね

そして、曽良はゼネラルマネージャーとして随行していたわけですけど
事前の情報収集で白河関は旗宿周辺らしいと把握していたようですけど

確信は持てていなかったようです

旅の道々でも情報を収集していたようで
寄居村の町はずれを右に曲がれば旗宿に行くこともできると随行日記に書いていたわけですけど

二所ノ関の経緯も調べていたから境神明に立ち寄り
方角を確認して最短距離を取ったと思えるんですね

実は、曽良の学んできた学問の中には ”測量学” もあったんですね ( ̄□ ̄;)!!

すでに先輩が随行員として決まっていたにもかかわらず
急遽抜擢されたのも測量学を学んでいことも大きな理由だったんですね

だからこそ晩年には
幕府派遣の第4回諸国巡見の ”巡見使” 随員にもなったんでしょうね

さて、境神明から旗宿に行くには
奥州街道から西に曲がって行きますけど

この道は途中でふたつに分かれています
芭蕉たちが北側を通ったのか南側を通ったのかは不明なんですけど

一般には
この道で白河関を訊ねながら進んだと言われています

つまり
あっちをウロウロこっちをウロウロしたと言うんですね

σ(・_・) 一直線に北側を通ったと思います


曽良随行日記にも尋ね回ったようには書かれていませんし
意外とアップダウンが激しく時間的にも

それに現代ではですけど
この道に民家はほとんどありませんからね (;^_^A ずっとこんなだ


それでも道々二人の会話は
第三の神明社だったでしょうね

曽「先生、鳥居がありますよ、あそこじゃないですかね?」


芭『曽良よ、いくらなんでも、こりゃ小さ過ぎないかぁ』


なんて会話だったかどうかはわかりませんけど
小さいからってバカにしちゃ罰があたりますよ

だって・・・
ほらね、あやかりたいでしょう ( ´艸`) お金呼ぶんだから


北側を一直線に進んで来ましたけど
突き当りになりました

って言うことは
左右に通る道は ”旧東山道” ですね ( ̄□ ̄;)!!


右に進んで旗宿を目指すと
ふたたび突き当りに・・・

って言うことは
芭蕉たちは翌日この道を左方向に旗宿から白河に向かったんですね


さぁ~ もうひと息だぞぉ~ ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ

ありゃ、そろそろ旗宿って言うところで
大きな桜の木が見えてきましたけど・・・ ヽ((◎д◎ ))ゝ あれはもしや


あっ! やっぱりそうですよ ( ̄□ ̄;)!!


これが ”庄司戻しの桜” ですね (=⌒▽⌒=)


曽良随行日記には
(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。
 判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)


(籏宿のはずれに庄司 戻しといって、畑の中に桜の木有り。
 判官<義経>を見送った後に戻り酒盛した跡である。土中に古い土器有り。寄妙に拝す)

曽良もここを見て
もうじき旗宿と知ったでしょうね O(≧▽≦)O

この辺りが ”旧東山道旗駅宿” ですよぉ~ (^O^)/


え! 宿場じゃないのかって?

宿場と言う呼び方は江戸時代に入ってからで
参勤交代のための ”本陣” が置かれるようになってからが普通で

それ以前は駅逓事務を取扱う ”駅(駅家)” が配置され
早馬によるリレー形式で繋いでいく駅伝制が導入されたんですけど

旅行者にとっても宿泊所や休息所がなければならないので
単に ”駅” と呼ばず ”駅宿” と呼ばれたりしたんだそうですね α(・_・)

最悪でも15時に旗宿に入りたいと
思って少しオーバーして走りましたけど

オーバーしたまま
予定を少し回っていますからまぁまぁの合格点ですかね


え! 本当に旗宿に入ったのかって?

だって・・・

ほら
バス停もありますよ (;^_^A


あ! 道路工事中ですかね
たぶん3時の休憩中なんでしょうね ε=ε=ε=ε=┏(; ̄▽ ̄)┛ ご苦労様


つ、ついたぞぉ~
ここが ”白河明神” ですね (;^_^A たぶん


芭蕉たちは4月20日の朝8時半頃に
那須湯本を発って山道を20km下って ”芦野宿” に到着したのはお昼すぎだったでしょう

芦野宿から12kmほどで ”境神明” ですから
午後3時過ぎに境神明に参拝して ”衣がえの清水” で休憩後の午後4時に旗宿に向かったとすれば

距離は約8kmのアップダウンの激しい山道ですから
旗宿に到着したのは日没前後の午後7時頃だったんでしょうね

翌日の事を曽良はこう記しています

曽良随行日記
一 廿一日      霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。
 町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。
 古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。
 ソレヨリ戻リテ関 山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。
 聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由。成就山満願寺ト云。
 籏ノ宿ヨリ峰迄一里半、麓ヨリ峰迄十八丁。
 山門有。本堂有。奥ニ弘法大 師・行碁菩薩堂有。
 山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。真言宗也。本堂参詣ノ比、小雨降ル。
 暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。
 中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案 内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。
 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。
 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。

〇白河ノ古関ノ跡、籏ノ宿ノ一里程下野ノ方、
 追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。

一 廿一日      霧雨降る、午前7時半頃止む。宿を出る。
 町より西の方に住吉神社と玉島神社を一所に祭るお宮有り。
 古の関の明神ゆえ「二所の関」の名が有ると、宿の主人が 言うので参詣する。
 それより戻って関山ヘ参詣。行基菩薩が開基。
 聖武天皇の御願寺、正観音の由。成就山満願寺という。
 籏宿より峰迄一里半、麓より峰迄十八 丁。
 山門有り。本堂有り。奥に弘法大師と行碁菩薩を祭る堂有り。
 山門と本堂の間に、別当の寺有り。真言宗。本堂を参詣のころ、小雨降る。
 暫時止む。 これよ り白河ヘ一里半余り。
 中町の左五左衛門を尋ねる。大野半治の道案内あり。
 黒羽で借りた小袖と羽織や書状を左五左衛門方に預け置く。
 矢吹(西白河郡矢吹町) へ午後3時半頃に着き、宿借る。白河より四里。
 今日昼過ぎより快晴。宿に「宿次道程の帳」(道中案内の類の書物か)有り。

〇白河の古関の跡、籏宿の一里程下野(栃木県)の方、
 追分(那須町内)という所に関の明神有る由。相楽乍憚(等躬)の伝也。是より丸の分同じ。

旗宿の宿の主人から聞いた白河明神(白川神社)には
古くからの関所があったとされるので ”二所の関” の名がある

そう教わって参拝したのがこちらですね


実際には芭蕉たちが訪れた約50年後に、陸奥白河藩第3代藩主の
”定綱系久松” によって古関跡と認証された旗宿の明神なんですね
(定綱系久松は江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫)


あれは何の案内でしょう?


へぇ~
この山どころか周辺の森も含めた大きな公園になっているんですねぇ~


え、と、
ここが現在地で関所跡は・・・ (;^_^A 遠いなぁ~


あ! あっちには
昭和34年(1959年)から5年がかりだった発掘調査の案内ですね


なんか
ものすごい緊張しますね (((+_+)))

ちゃんと襟を正して鳥居をくぐってみましょうか ( ̄ー ̄; 襟ってティーシャツだし


ってか、あの藤
ものすっげぇぶっとい ( ̄□ ̄;)!! 右の杉の横ね

あ、いかんいかん
もっと厳かにですね (^^ゞ


おくのほそ道 十二
白河の関の章段

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。

いかで都へと便求しも断也

中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。

秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。

卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。

古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

【卯の花をかざしに関の晴着かな】 曽良



落ち着かない日々を重ねているうちに白河の関にさしかかり、
ようやく旅に徹する心構えができてきた。

平兼盛が、どうかして関越えの感動を
都の人に知らせたいと詠んだのももっともである。

数ある中でもこの関は奥州三関の一つに数えられ、
風雅を求める人が心を寄せているところだ。

能因法師が詠んだ歌の「秋風」という言葉の響きや、
源頼政の歌の「紅葉」を思い浮かべながら青葉のこずえをながめていると、
実に趣き深く感じられるものだ。

卯の花が真っ白に咲いているところに茨が白く咲き添って、
まるで雪の中、関を越えているような心地がする。

むかし、竹田大夫国行がこの関を越えるとき、
能因法師の歌に敬意を表して冠をかぶり直し、
衣服をととのえて通ったいうことが藤原清輔の「袋草紙」に書きとめてあるということだ。

【この関を通るとき、古人は冠を正し、衣装を改めたというが、
私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう。】


奥の細道で白河の関の章では芭蕉は句を詠まず
曽良の句が載せられているんですね

いろいろな説があって
関所跡が見つからなかったショックで詠まなかったとか
絶景を目の当たりにし絶句する古くからの手法だとか言われていますけど

いにしえの幻の関所跡
謎めいておいた方が楽しいと思いませんか?

あ! これが ”定綱系久松” によって
ここが小関跡だと認定された ”古関蹟の碑(こかんせきのひ)” ですね


あれ?
奥にメチャでっかい木があるみたいですよ o(^▽^)o


ほらほら
でっかいでしょう?


え! デカさが分からないって?

ちょっと離れていますけど
横の人と比べてどうです? ヽ((◎д◎ ))ゝ


鎌倉時代前期って・・・
1,200年ころですから・・・ ( ̄□ ̄;)!! 樹齢800年っ!


あれ?
この石碑はなんだ?


あ、案内もあったんですね (^^ゞ


えっ! 義経が平家討伐の時に
この神社で戦勝祈願したんですって ヽ((◎д◎ ))ゝ 兄ちゃん助けに行くぞぉ~


なんかメチャ不真面目でごめんなさいね (^^ゞ 根が真面目じゃないし

なんてバカやってないで
そろそろ街道に戻らないと・・・ ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘

コースを奥州街道に戻そうと走り始めて気が付きました
さっきの道路工事は ”除染作業” だったんですね


ここまで来て
なんか気が重くなってきました

そうです
ここは福島県

4年前の3.11震災では原発事故を起こしていたんですね (´・ω・`)

震災そのものより、原発事故によって避難している方の方が
はるかに多いのも事実なんですよね α(・_・) 避難者の過半数が福島県

ここから福島第一原発までは直線で80km以上あります

実際に危険な数値かどうかはわかりませんけど
県内を除染すると言う福島県の方針ですね

除染したから安全とは絶対に言っては欲しくありませんね

原発そのものの処理が終わっていないんですからね

日本国内での発表はあまりされていませんけど
”核戦争防止国際医師会議” ドイツ支部の今年6月10日の発表では

『福島の小児甲状腺がん症例数が100件以上に
 22,000人以上の子供たちに 見つかった 新たな嚢胞と結節』 と言うものがあります

5月18日、福島県の甲状腺検査の最新結果データが公表され
その間、急速に成長した腫 瘍や、または転移が見られた甲状腺がん症例のある
計103人の子供たちが手術を受けなければならなかった

それに付け加えて23人に甲状腺がんの"強い疑い" が
あるとの診断が下されているんですね α(・_・)

まだまだ震災は終わってはいないんですよね (´・ω・`)

さぁ、今は ”僕の遅道 奥州街道(奥州道中)” です
さっさとゴール目指しましょう ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ


来る時は北側のコースで来ましたけど
帰りは比較のためにも南側のコースを走っています

しかし・・・
久々にキツイ上りですよぉ~ εミミミ┌(;*´Д`)ノ


あ、ちょ、待て待て
どっちに行けば良いんだ? ( ̄□ ̄;)!!


実はこの道
左の細い道が本道で右は北側につながる道なんですね (^^ゞ GPS受信できないし

あれ? 今、気が付きましたけど
おくのほそみちって石碑(コンクリート製)があったんですね (;^_^A あちこちにあった


うっわ~
短いけどすっごい上りだ (T▽T;) 足痛いし


で、なんとか上りきったら
見覚えのある景色で、間もなく奥州街道に戻れました ( ̄▽ ̄)=3っ


あれ?
なんの史跡でしょうかね?


どうやら奥州街道26番目の ”白坂宿” の
入り口を示す常夜灯などに混ざって ”戦死の碑” なんて言うのもありますよ


さぁ
いよいよ白坂宿ですよぉ~ (^O^)/


案内もなにもありませんけど
こちらが ”本陣跡” だそうです


住まわれているのは本陣の子孫ではなく
代わってしまったんだそうですが跡地には間違いないそうです

少し進むと旅籠屋さんだったお宅があります (;^_^A 建物は現代のものですけど


こちらのお宅の表札をみると・・・ Σ(・ω・ノ)ノ! 旅籠の屋号


史跡の案内も何もありませんでしたから
宿場の代表はこちらの ”白坂郵便局” にお願いしましょう


さぁ
次の宿場はいよいよ白河宿ですよ O(≧▽≦)O


ってか
順調に進めるのでしょうかね (;^_^A あと一息

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