昨年12月9日に、旧東海道の関宿から、前回シリーズの伊勢参宮道の津宿までを結ぶ伊勢別街道を歩いた記事のその7です。
当日歩いたコースは↓。
歩いた距離は寄り道含めて20kmちょっとくらい。
その6では椋本宿のクライマックスともいえる旅籠の角屋や廃店舗などを愛でたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
椋本宿も後半に入っていますが、日光が強くて写真撮りづらいなあ。
肥料店の渋ーい看板がありますが、ここが店舗って訳ではなさそうですね。
ここから先はこんな風↓に厨子二階だんんだか、屋根裏部屋付きなんだか判別の難しい民家が無限と言って差し支えない程にありました。全部掲載するとシリーズ全50話とかになりかねないので、時々載せることにします(^^;)。
その先の街道左側にあったお堂は「延命地蔵堂」。
大事に安置されているお地蔵さんは正徳五年(1715)のもの。
ガイドブックの解説には「この地の人々の寿命が短いため延命地蔵尊を祀り、堂裏に講の田を設けて収穫した米で維持管理をした」とあります。人々の切実な願いを一身にに受けて大切にされ続けて来たのでしょう。
微か~にS字の湾曲をしている伊勢別街道。この近くに次の街道遺構がある筈ですが、、
と、上の写真で前方右側に写っていたこちら(↓)の小ぶりな平屋民家はもう荒れてしまっていますね。△状に架けられた木材で軒を支えているように見えます。
土壁で瓦も古く、破風もしっかりしているので、元々はしっかりした民家だったのではないかな。
と、その先、民家の前の少し凹んだところに探していた街道遺構がありました。
横山池の横にあった物と対になる、下の仁王経碑です。京から見ればこちらの方が遠いので「下」になる訳ですね。
この塔の下に、仁王経の経文を一つの石に一文字ずつ書いたものが埋まって、宿場内に悪いものが入るのを防ぐ役目が果たしている訳です。12191文字ですからえらい作業ですね。
供えられて間もないようなきれいな花があるので、ずっと大事にされているんでしょう。
その先で伊勢別街道は、つかず離れずずっと一緒に進んできた県道10号に再合流します。
ここから先はしばらく単なる県道歩きの状態が続くので省略しつつ進めます。
しまむらの看板の向かいにある民家も厨子二階だか屋根裏部屋有構造なのか微妙な気がします。
しまむらを過ぎて暫くしてから、椋本宿方向を振り替えると、山が聳える良い景色でした。
三重を歩いているのに、またしてもちょっとだけ善光寺街道などをフッと思い起こさせます。
街道脇の畑に椿が咲いていたので和もうと思って接写!
高速道路高架の土手に、ほんの一角だけの紅葉があったので何となくの一枚。
その先の信号交差点は、伊勢自動車道の入口の真横で、こういうところってかなりクルマ優先の通行ルールになっているので注意して渡りました。
真横を見ると、妙に存在感のある木があったので激写します。
國分酒店、の側面には古びたコーラとスプライトのロゴがあって懐かしい感じでした。
そのすぐ先にあった廃車2台。
左のセダンは日産のグロリアじゃないかな。
5,6枚前の写真で、ほぼ真後ろを向いて撮ったのと同じ山です。おそらく鈴鹿の方の山々なのかな、と思います。
その先で伊勢別街道は右カーブする県道から左側に逸れていきます。クルマ通りの多い県道なので、少し手前で脱兎の様に左側に渡りました。
街道沿いの民家は現代のものですが、まあ道筋的に街道っぽいと言えば言えなくもない感じです。
普通のミカンよりも少し大きめの柑橘類。冬なので夏みかんではないですが、品種は分からず。
その柑橘の足元のお地蔵さん。こちらも花や水がきちんと供えられています。
この家並み、宿場ではないにせよ、立場か間の宿くらいであったような感じです。
ポケットからガイドブックを出してみると、やはり立場(たてば)のあった、かつての高野尾村という集落でした。何でも、以前はもっと山の神や地蔵が並んでいたのに、明治政府の合祀令で軒並み移設されてしまったそうです。
立派な松の木ですねえ。家がほとんど見えん(;・∀・)!
暫くはこんな感じで趣のある高野尾村を通って行きますが、この続きはその8でご紹介します。
つづく