伊勢参宮道で伊勢詣り Day4の2 | らんまるの街道歩きブログ

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10月3日(火)~6日(金)に四日市近郊の日永の追分から伊勢神宮まで続く 伊勢参宮道を歩いた旅の模様、4日目の旅記録のその2です。

 

歩行ルートは↓。寄り道などを含めて歩いた距離はだいたい10~11㎞くらいだと思います。

 

その1では、外宮にその別宮にお参りした後、内宮に向かったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

再掲3枚目の写真のところを左に曲がって進むのが伊勢参宮道の順路。今では太い車道同士を連絡する裏道みたいになってますが、本来はこれがメインストリートだった訳だ。

 

ほんの50mほどで↓の変則的な交差点に出たら、やや右折気味に前方に進みます。

 

上の写真で右側に駐車場が写っていたのは「祖靈社」という施設で、ガイドブックにも名前しか載ってないので、帰宅後調べてみると、神式の葬儀「神葬祭」=神道でのお葬式の会社でした。

伊勢神宮のお膝元なので、なるほどこういう会社もあるんだなぁ。

 

その駐車場の端、2枚上の交差点の写真で、オレンジの矢印のちょうど先端辺りに見えているのがこちらの両宮常夜燈の石柱です、、というかこれ自体が常夜燈ですね。

伊勢神宮関連の街道沿いでは外宮・内宮双方への信仰の篤さが如実に分かる、この両宮常夜燈を見かける機会が多いですね。

 

朝日に輝く伊勢参宮道!「健やか薬局」などはいかにも現代チックですが、道筋は昔っぽい!

 

更に祖靈社の駐車場の端っこあたりに「濱田國松邸跡の石柱が立っています。

 

この濱田國松さん、戦前の衆議院議員だった方ですが、なかなか骨のある方のようで時の寺内陸軍大臣と繰り広げた「腹切問答」で有名な方、なんだそうです。すごく簡単にまとめると:

 濱田「最近 軍部の言論弾圧ひどいわ!」

 寺内「軍部への侮辱か?」

 濱田「侮辱なぞしてない!速記記録見て もし自分が侮辱してたら切腹するが、さもなくば

    お前が腹を切れ」

 の応酬の後、両者にらみ合い!

だったそうで、時の廣田内閣の総辞職に繋がるというものだったとのこと。内容の是非はともかく、カネと権力しか眼中にない今のセンセーどもにこんな気骨のある人は皆無でしょうね。

 

と、いう話はおいておいて、先に進みましょう。最近の住宅の多いエリアを通りますが、もう少し進むと、かつて、今は無き「江戸文化歴史検定」で勉強した「間の山」(あいのやま)に差し掛かるはず。

「間の山」というのは、外宮と内宮の間にある山(というか峠)で、かつては遊郭的なものもあった場所です。まあ旧東海道の品川宿にも、品川の丘の上から生臭坊主が飯盛女と遊びに来てたそうなので、畢竟 人類の歴史はいつも「聖と俗が隣り合わせ」なんでしょうねえ( ̄▽ ̄)。

 

なんてことを思いながら住宅と商店が混在するエリアをずんずん内宮に向けて進みます。

 

こちらは元々スクエアな店舗だったのを、少し無理気味に手前側を増築でもしたのかな?

板壁の、「微マンサード」な切妻屋根の母屋部分と手前の斜めった部分の質感にずいぶんと違いがある気がしました。

 

そのすぐ先で近鉄鳥羽線の高架を潜ります。左側方向100mちょっとの所には、伊勢市駅から数百メートルしか離れていない宇治山田駅があります。

前方の緩く右カーブしてるところが少し上り坂になってますね。間の山にしては近すぎる気が。

 

ああ、なるほど橋がありましたか!あれは勢田川に架かる小田橋と言うそうです。

 

橋のたもとに「歴史の中の 小田の橋」という解説板があり、かつて伊勢参宮で行き来した人がたくさんいる様子が描かれていました。ここは山田宿の入口だったそうです。間の山自体が宿場だったのですね。

今、この瞬間に自分ひとりしかいないのが不思議なくらいの賑わいだったんですねえ。

 

そのすぐ近くに、伊能忠敬測量の地の解説もあったらしいのですが見落としてしまいました。

だいぶ前、まだ中学生だった姪に「叔父さんってあちこち歩いて伊能忠敬みたいだね」と言われたことがあるし、まあいいや(≧∇≦)。

 

橋の欄干も昔風で良いじゃないですか!

 

何となく前方に見えているクルマの先あたりから峠道になりそうな予感!

 

その先に、参宮街道と間の宿の「ご当地アイドル」或いは「大道芸人」だった、お杉・お玉の説明がありました。

 

その下には、間の宿の遊女お紺と医者の孫福斎の比翼塚の説明があります。これは後に歌舞伎のネタになった遊郭での刃傷沙汰ですが、後に舞台となった遊郭の「油屋」跡を通るのでその時に触れようと思います(もう書いてありますが)。

 

急に周りの建物が街道っぽくなってきました。蔵、幅広妻入りx3みたいな感じですね。

 

明らかに上り坂になり、いよいよ間の山に差し掛かりました。この坂は尾部坂といいます。

 

昔はもちろんアスファルト舗装もない道が上り坂が続いていた訳ですね。

 

と、民家の脇に見つけました。「間の山 お杉 お玉」の碑。

この辺りに小屋を建てて、二人で三味線や胡弓を弾き、客から投げ銭があると躱したり、何なら撥で受けたりしたそうで、全国でも超有名な二人でした。今で言えば、「こまどり姉妹」!、、はちょっと違うかな(;・∀・)。

 

なお、この二人は東海道中膝栗毛にも登場し、喜多さんが投げ銭ではなく、何と石を投げたところ、撥で見事に打ち返されΣ(゚Д゚)、弥次さんの顔面直撃!というエピソードがあります。

 

ずっと登りという訳でもなく下り坂にもなったりします。これってまた後でここで下りた分も含めて登ることになるんだろうなあ。

などと思っていると予想通りすぐに上り坂に(゚^∀^゚)゚アッハッハ!

 

おや、民家の軒先にこんな粋なものが!!

赤紫に染めた「古市参宮街道」の文字。説明が遅くなっちゃいましたが、「古市」とはこの間の山の遊郭地帯のこと。

 

さらにその先でなかなか記念になるバス停を発見しました。

バス停って古い地名がまんな残っていたりするので、私の歩き旅でも激写率の高いものの一つですが、ここは「倭町(やまとまち)」!「大和」ではなく「倭」なところが、古代を感じるようでいいなあ、これ。持って帰りたいくらいです(≧∇≦)。

 

既に疲れてきたのでここでちょっと「微糖休憩」。

休憩早いな!と自分でも思いましたが、前日ゴール直前に足の血豆が悪化したりしているので、無意識に足をかばったりしてちょっと疲れやすいかも。

 

ということで次回に続きます!