新年 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します<(_ _)>。
さて、年越しになった。10月3日(火)~6日(金)の伊勢詣での旅、旅程2日目(10/4)の旅の模様その9です。ガイドブックは『ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺街道』。
Day2の歩行ルートは↓。今回は街道遺構が多いので、立ち寄りポイントの記載は殆どしていません。必要に応じて記事を書きながら書き足していきます。
年末に投稿したその8では、伊勢参宮道から右に分かれ奈良まで続く奈良街道との分岐点、「月本追分」に到着したところまでをご紹介しました(↓再掲)。
大きな道標と常夜燈が右側の民家の前に見えています。
それでは道標などの詳細な説明を。軒先まで届くほどでっかい道標。
「月本おひわけ 右いがご江(伊賀越え)なら道」
右さんくう道(参宮道)」と堂々と刻まれています。
「道標右方向ばっかじゃん!裏側も見たいんだけど?」と思われましたよね?
狭くて写真に撮るのが難しかったですが裏に回って激写しました。「左やまと七在所順道」
常夜燈もちゃんと激写しておきましょう。
そしてこの道が奈良まで続いている奈良道。香良洲道や奈良道、伊勢別街道等々、伊勢参宮道から分岐する道を歩くだけでも、1,2年は楽しめそうですね。関東でも未踏の街道だらけですが、伊勢参宮道に繋がる道を立体的に歩くのは、遠征費が嵩むことを除けばいい考えかも!
そして現代の解説版と石標も記念に残しておきましょう。
伊勢方向から見た追分。赤いラインが歩いてきた伊勢参宮道、黄色が奈良に向かう奈良街道!
ちょっと古そうな建物がカーブの曲がりばなの右手に見えています。
すぐ先の街道の左折方向の橋の袂に道標がありました。また「からす道」の案内です。
「まだここからなら香良洲神社へのお参り間に合いますよ!」みたいな感じでしょうかね。
さらにその橋を渡って街道を外れてもう少し左側(東側)に進むと、勅使塚という遺構が。
何でも源氏追討祈願のために、伊勢神宮に赴く勅使 大中臣定隆が、伊勢國一志駅で亡くなり埋葬されたそうで、それを元にこの塚が建てられたそうです。
その時代ですから源氏追討の祈願はかなり重要な仕事だったと思いますが、そのミッションの途中で倒れてしまったのは無念だったことでしょう。少し丁重にお参りをして街道に戻ります。
街道に戻るとすぐその先に、4枚上の写真で前方右側に写っていた立派な家があります。
恐らく、ですがガイドブックにあった「からす道」の道標の近くにあった曽原茶屋ではないかと思います。強飯、田楽にサザエのつぼ焼きが名物だったといいます。
ちょくちょく曲がりながら、小さな川に沿って進む伊勢参宮道。
途中で見かけた民家の庭が凝ってました。花壇の手前はピアノの鍵盤、花壇には花のほか、白雪姫の七人の小人が、、あれ?6人しかいない?
↓の地点ではY字路状の分岐を左に進みます。真ん中にあるガードレールにはちゃんと、、
「参宮街道←」の案内がありました。浮世絵があったりして良いなあ。
浮世絵付きの案内、のすぐ左側にある電柱のそのまた左に燈籠と道標があります。
燈籠は「太一」と刻まれています。寄進した人の名前?
こちらが燈籠の左隣にある道標で「右 津みち 左 さんぐう道」とあります。
ガイドブックにはさらに「山神」とありますが撮り忘れてしまったようです(´・ω・`)。
あ、あそこを右に曲がるんだな。
曲がり角には、中道公会所(公民館のようなものかと)があり、その敷地にはいろんな石造物があります。
まず道標!「右さんぐう道」
後ろの方に石造物群が見切れていますが、それらは
右から金毘羅大権現、あとは山神さん二基ですね。
えーと、こちらは「天白村中道、、青年団」か!かなり昔の青年団が造ったものの様です。
ちなみに、街道が右折するところを直進(↑の写真の青年団石標のところを直進)すると、「養命寺跡」があり、青面金剛像庚申塔、大日如来像、六地地蔵がある、とガイドブックにあったのでそちらに向かいましたが見つかりませんでした。「ストリートビューの術」を使うと、んな↓墓地があったので、その敷地内だったかも知れませんね。
公会所のところを右折して進んで行くと、すぐ先に左側に折れる細道がありますが、そこで四日市方向を振り返ると、「左からす道」の道標がありました。
ここからも香良洲神社に行けるんですね。
ちなみにこちら↓がその香良洲道。またボケてしまった(-_-;)。
ちなみにこの時は気づいていませんでしたが、今回の旅の終了と同時にカメラがおシャカになってしまったので、すでにカメラもおかしくなっていたのかもしれません。。
さらに松阪への旅は続きますがこの先はその10でご紹介します。今後はもう少しゆったりペースで更新する予定です。
つづく!