すでに7か月半も前のこととなる昨年の10月8日(土)に善光寺街道歩き旅の第2回として、上田から屋代までの区間を歩いた旅の第二弾、その15です。
当日の歩行ルートは↓。
街道復帰までの道のりや寄り道なども含めて歩いた総距離は23.5km前後だったようです
ガイドブックは山と渓谷社の『ちゃんと歩ける 伊勢参宮道 善光寺街道』です。
その14では村上義清の奥方の逸話の残る笄(こうがい)の渡し場跡をじっくり眺めた後、泉徳寺というお寺に立ち寄ったところまでをご紹介しました(↓再掲)。
街道に戻ると、街道右側奥にはなかなか圧迫感のある岩の崖が聳えていました。
草木に埋もれかけている二階建ての住宅に哀愁を感じて激写!
千曲川からも少し離れてしまい、しばらくは崖くらいしか見どころのない区間が続きます。
千曲川の対岸の山に何やら漢字と温泉マークの看板が。
一番右上、小さなお堂の下の文字が「石」に見えてしまったため「石倉上山」で検索しても全然ヒットしなかったので、この写真をGoogle画像検索したら0.5秒でわかりました。「戸倉上山田温泉」だったんですね。とっても良さそうなのですがさすがにあそこまで登って湯に浸かる時間はないので、しぶしぶ先に進みます。
岩の崖がずっと続いています。
けっこうな斜面に家がたくさん建っていますね。斜面に並ぶ家々もほぼ必ずシャッターを切ってしまうなあ。
何かの作業場のような場所にオーバーハングしている形状の岩が覆いかぶさっていて、他人事ながらちょっと怖くなってしまいます。
ちょっと落盤があれば下の方に写っているトタン屋根の構造物などかなり危ない気がします。
崖上の公園?の崖っぷちに立っているおそらく何かの記念碑か仏様、の背中側。
おっ、長らく歩いていた坂城町を出て千曲市に入りました。
そろそろこの日の行程も6割ちょっとくらいにはなってそうです。
舟つなぎ石、千曲川を渡るときに船をつないだと言われた石だそうで、10M←とありますが国道の反対側にあたり、かつ住宅の裏にありそうなのでパス!
そのすぐ先で街道右側で並走していたしなの鉄道の踏切を渡り、国道から離れます。
「北国街道踏切」かと思いきや「岩崎街道踏切」!千曲川沿いに岩崎という町があるそうなので、そこまで続く道ということでしょうね。
踏切から上田(軽井沢、日本橋)方向を振り返って激写します。
こちらは長野方向。
踏切のすぐ先のY字路は左側の平坦な道を進みます。
Y字路の分岐点の横に道祖神や庚申塔が並んでいたので、激写してから先に進みます。
むっ!こちらの「昭和食品有限会社」は茅葺トタン被せ屋根スペックのようですね。かつ厨子二階の家のように見えます。
そろそろ上戸倉の宿場に入っていそうなものですが、あまりその雰囲気はありませんね。
元々小さな宿場で、すぐ隣の下戸倉宿との合宿で、月の内22日以降を上戸倉宿が分担したそうです。
ほんとうにこの街道、こうした「茅葺トタン被せ屋根」の民家を見られる機会が多いです。
やたらと二階部分がコンパクトな特殊な住宅です。
うーん育ちまくった植物が平屋の屋根より高くなってますねえ。
寂れてしまった家々も多い宿場です。そろそろ玉井家の本陣跡があるはずですが、、
ん?本陣跡、これ?
そうでした。本陣跡の看板もゴミ捨て場と思しき構造物の金網に括り付けられています。
ちょっとリスペクトが足りない扱いに思えてしまいます。こちらの玉井本陣は幕末に本陣家を小出家に譲ったそうで、その後没落してしまったのかもしれませんね。
何となく玄関回りの形にひかれて激写してしまった民家。
こちらの家は玉井家が勤めた問屋場跡です。先ほどの本陣と姓が同じだし、近い親類なんでしょう。
この斜向かいに上戸倉宿のクライマックス的な建物がありますが、この続きはその16でご紹介します。
まだしばしつづく。