伊南房州通往還を歩く 第六回 2日目 和田浦-館山 その6 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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伊南房州通往還(房総東往還、単に房総街道、とも)の最終区間として小湊から館山までを5月1日~2日の二日間に分けて歩いた歩き旅の記録、2日目のその6(初日と併せ通算でその16)です。

 

今回歩いた区間は↓。

歩いた距離は神社仏閣などへの寄り道は含めずに44~45km程度でした。

 

その5では、とうとう館山市内に入り、先を急いでいると解体乃至改装中のパチンコ屋を見て世の栄枯盛衰を思い、儚い気持ちになったところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

しばらく進んで行くと地名を示すバス停がありました。シンプルに「薗」。この「薗」という字をググってみると、「囲われた庭/果樹を植えた畑/菜・花・草などが植えられた地などの意味」とありますので、区画された農地が多い土地柄だったのではないかと推測しました。

 

その先、国道から左に逸れてV字状にループを描いて国道に再合流する地点があるのでそちらに入ります。

 

明治初期の古地図で言うと↓の〇で囲った区間に該当します。家の密集しているところを避けるように道が通っていたようですが、国道ではここをほぼ直進するよう造成したのですね。

 

まごうかたなき旧道部分ですが、道幅とカーブ以外はさして特徴もない旧道を進み、、

 

国道に再合流します。

 

再合流した先に地名を表す標識があり、こちらにもシンプルに「薗」と書かれていました。あっ、左端に偶然横向きになって空を飛ぶ鳩が写り込んでますね。

撮った時は全く気にしていませんでしたが、電柱で後方にある種苗店の字が隠れてしまっています。「タロー種苗」? まさかとは思うが何やらいけない種を取り扱う「タブー種苗」なんてことはないだろうな、と思って地図を見てみると、隠れていた文字は一文字ではなく「タイヨー種苗」でした(^^;)。

 

しばし直進する国道を進むと、遥か前方に右カーブが見えてきます。

 

国道が右カーブするところ左に逸れる(実際は直進)のが伊南房州通往還の旧道です。ここはやや距離の長いV字を描く旧道です。

 

平屋看板建築の"∧にサ"の屋号のある山本園という廃店舗がありましたが、店の正面は木戸で塞がれてから久しい様子ですが、奥には比較的新しい二階建ての住宅もあり、クルマも停まっているので、住居としては現役なのですね。

 

その先街道左脇に比較的新しそうな石の道標がありました。

読み取りに苦労しましたが真ん中に刻まれているのは「莫越山神社参詣道」でした。左下は「左一里〇〇町」とあるようですが、町名と思われる〇〇は読み取れませんでした。莫越山神社とは、ここからは余り近くない南房総市にある神社のようです(館山市立博物館のHPに記載あり)。尚、この少し後でこの標識の手がかりがもう少し出てきます。

 

その先で斜めに交わる変形の丁字路を右に進みます。因みに左方向に進むとすぐにJR内房線の九重駅=館山の隣の駅、があります。

 

↑の写真で右端に写ってる茶色の建物は加登屋商店。袖看板には「地酒 九重」と書かれてます。九重駅のすぐ近くという場所柄ですから買いてある通り、この辺りの地酒を商う酒屋と思われます。後方には立派な母屋や蔵があったようですが、造り酒屋の設備はありませんでした。

この建物、撮った時は余り意識してませんでしたが色々オーバーハングしてたんですね。

 

更に旧道はカーブをして国道への再合流地点に向かいます。

 

その先で、左から合流してくる道があり、かつすぐ横っちょが踏切り、すぐ先は国道との合流点、と渋滞する条件がフルに揃っている地点があり、理屈上避けられそうにない渋滞が発生してました(^^;)。

 

国道にぶつかったら左方向の館山方面に向かい、しばらく進んで行くと、国道から左にそれものすごく短いループを作って国道に再合流する細道があります。

 

Googleマップではこれが伊南房州通往還だとは示されてませんでしたが、このわずか計数十mくらいしかなさそうな部分を明治の古地図で見ると、、↓の〇で囲った部分に該当することが分かりました。

こういうのは調べて見るものですねえ。

 

狭い道ですが、元々街道筋だったせいか、奥にも住宅があります。

 

カーブを曲がったらわずか20~30mほどで国道に再合流。

 

国道に再合流して暫く館山方向に進むと、「城山下」という如何にも歴史的な由来のありそうな名をしたバス停がありました。

 

その場でササッとググってみると、街道から見て左方向奥のあの山あたりに稲村城があったようです。

リンク先のWikipediaにもありますが、この稲村城は、南総の雄、里見氏の居城で、後の里見氏の飛躍に関係している城だったようですね。五百数十年も前、今の群馬県を本拠地とする本家筋の新田家から離れこの辺りを拠点に里見氏が発展したことを思うとなかなか感慨深いものがあります。

 

景色が少しずつ地方都市周辺部のそれになってきました。


前に見えている丁字路状の部分で左折をして、再び旧道に入ります。

 

長いループを描いて進む旧道。すぐ近くには内房線の線路が走り踏切りがあるので、ちょっと見に行ってみます。

 

「稲   踏切」とありますね。和田浦付近で「和 一号踏切」、江見の近くで「江 一号踏切」があったのでこれは稲村の稲の字だけを踏切名に取り入れたのですね。

 

踏切りで単線の内房線を跨いで館山方向をしげしげと眺めて激写します。

 

踏切りから街道に戻り緩やかなカーブを描く旧道部分を進みます。旧道が一部駐車場的に利用されていますね。

 

更に進んで行くと、旧道は残っているのですが、個人所有の敷地に入ってしまうようだし、現に左の建物から出て来た人に「胡散臭い奴だな、誰だお前?」みたいな目で3秒ほど見られてしまったので、右折して迂回し国道に出ることにします。

 

国道に出るところで左に曲がりますがよく見ると〇で囲んだところに何やら石標が、、

 

あっ、さっき見たのと殆ど同じ内容で「莫越山神社参詣道」 「右一里十九町廿八間」とありますね。そっか、さっき見た、これとよく似た道標も、左側に刻まれていた〇〇町は町名ではなくて距離のほうだったのですね。スッキリしました。

 

迂回すると、先程入れなかった旧道部分の延長線上に当たるところに横から入れました。

元々このまま進んでいたのが、今は国道との間に茂みができて途切れてしまってる様です。

 

またしばし国道を進んでゆきます。トタン被せ屋根の母屋らしき建物の手前右側の建物は蔵なのかちょっと微妙なところですが、二階の窓はすべて✖状に貼ったテープで補強されているようですね。

 

その先で伊南房州通往還は国道から右に逸れる区間があると分かっているので、折を見て脱兎の様に国道を渡り、↓の地点で少し登り坂になっている旧道に入ります。

 

この旅もかなり終盤に近くなってきましたが続きはその7でご紹介します。

 

(あと2回つづく)