栗ヶ沢城跡を訪ねる その2 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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5月16日()に、松戸市の小金原という街の栗ヶ沢城の跡地まで行った、城郭巡り散歩記事のその2です。

 

当日の歩行ルートは↓の通り。

歩いた距離は全部で14kmくらいでした(地図は前回と比べて色々書き足しました)

 

その1は、栗ヶ沢城の端っこが見えた位のところで終わってしまった(↓再掲)ので、続きをご紹介します、。

 

さてこの小金原にある栗ヶ沢城ですが、私のブログでも度々出てくる坂川富士川(前ヶ崎城の西を流れていた川)流域の、北向きに突出した標高二十メートルくらいの舌状台地にあった戦国時代の城です(この辺り説明文が前ヶ崎城とよく似てきます)。

 

何と探してみたらWikipediaに栗ヶ沢城の説明を書いた奇特な方がいらしたようですが、やはりこちらも高城氏が築いた城だったようです。松戸は千葉氏系ではありますが、正確には高城氏王国ですね。

 

で、その栗ヶ沢城は、以前散歩した幸谷城(武蔵野線の敷設などで地形ごと痕跡が無くなりかけてたあの城跡です)などと同じく、住宅地を作る時に相当地面を削ってしまっているので、地形の凸凹くらいでしかその跡を追えません。

 

その地形の凸凹を追う話ですが、まずはこの栗ヶ沢城跡付近の古地図と航空写真を見てみることにします。

まずはいつもガイドブックにしている「東葛の中世城郭」(千野原靖方:崙書房出版)から転載した古地図。

左(西)側のやはりちょっとキノコっぽい形状の舌状台地(縦書きで北之内と書かれている場所)が城跡、右側のちょっと短めの台地(万福寺のあるところ)は「殿内」という字名が残っていたことから、館はこの辺りにあったのではないか、とガイドブックの著者は推測しています。

 

私個人がそれを深めたり、異論をはさんだりする材料はないので、それを正として考えると、だいたいで囲んだ辺りが城跡とそれに関連したエリアと考えられます。

 

この辺りは完全に宅地化されており、地形がだいぶ湮滅してしまっているので、古地図と、必殺技の米軍航空写真(↓)を併せて見てみます。大体古地図と写真の辻褄は合ってるみたいですね。

 

ちょっと一部型崩れしましたが、地形を見ながらカシミール上に描いてみました。

この西側(左側の半島と、その東の小さな半島、そしてその間の細い谷津を中心に歩きます。左の台地の先端はもうちょっと長くても良かったかも。。

 

で、まずは冒頭に再掲した写真に戻りますと、ここは久保下という交差点です。久保下は上の方に載せた古地図、中心から左下辺りにその地名が見えていますね。城からは少し外れてますが、城と同じ舌状台地の入口にあたる訳です(↑のカシミール図、黄色い)。

 

カシミールで分かる通り久保下から東に進むとまだ上り坂です。

上り坂を登ったところ、↓の地点でちょっと寄りたいところがあるので右折して南に向かいます。

ちょっとピンボケしてしまった(-_-;)。

 

右折するとまた少し登りになっていますが坂を登ると左側に神社があります。

高木村の村社、茂呂神社です。

 

横っちょからでも入れますが、ここは村社だった神社のようなので、ずっと南まで進み、参道入り口まで回ってからお参りする事に。

 

一の鳥居を潜ると左側には庚申塔が並んでいます。

 

更にその奥には阿夫利神社や冨士嶽神社の石標が。

他には聖徳太子を職能神として信奉するという太子講の石標も何基か立っていました。

 

拝殿でお参り。「なるべく城の痕跡が見つかりますように」(^^;)。

 

茂呂神社の横っちょ(西側)の脇参道から外に出ると、私のやってきた西の方角は少し先の建物が明らかに低いところにあって、自分が台地の上に立っているのが如実に分かりました。

上のカシミール図でいうと左寄りに”小金原(五)”と書いてある辺りの谷津地形が見えているのでしょう。

 

先ほど久保下から坂を登ってきた道に戻り、再び東に進むと、また下り坂があって、その先の登り坂との間に谷間が出きており、ここからが本格的な城跡散歩スタートになります(カシミール図地点)。

前もってネタバレしますと、あの谷間、左(北)方向から伸びてきている谷間(谷津)の先っちょになります。

 

いいタイミングで信号が変わったので上の方からその谷間(谷津)を激写。

左側が城跡のある台地(今回も勝手に「栗ヶ沢城台地」と呼びます)、右側が万福寺のある台地(やはり勝手に「万福寺台地」)となります。細い入り江の様な谷津ですから、北に向かって下がっていく訳ですね。

 

まず少し右側の「万福寺台地」に入った右折して台地の形状を確かめに行くと、いきなりかなりの勾配の登り坂。

入り江から東側の「万福寺台地」に乗り上げる道という訳ですね。

 

この道は勾配が大きすぎて、坂の上側から階段を少し登って玄関に辿り着くと、母屋の辺りでは道路までかなり高低差ができています。

 

「万福寺台地」の凸具体も確認できたので、谷津に戻って北方向に進みます。ブロ友さんにも質問頂きましたが、この道は「あめりか風通り」という名前ですが、たいへん恐縮ながらアメリカに短期留学や何度とない出張で行ったことのある私は、未だアメリカ本国とこの通りの共通点は見いだせていません(^^;)。

※2020年8月3日追記:コメントでご指摘を頂きました。このあめりかふう通りは「アメリカ風」ではなく「アメリカ楓(ふう)」という楓の品種が植えられた通り、とのことでした。たいわんふう通りも同様とのこと。ご指摘有難うございました。そして知らぬこととは言え、御気を悪くされた方がいらしたらお詫びいたします。

通りを作ったときにこの通り沿いに実現したかったイメージの話でしょうね。左側に並んでいる住宅の後方(写真でいうと更に左側)辺りに谷津の崖があったと思われます。

 

右側は道路沿いすぐのところで高くなっています。

割とここからすぐ東側に「万福寺台地」が盛り上がっていたのでしょう。

 

谷津東側の万福寺に寄ります。

ここもすこし坂を登って低い台地に上がる感じです。

 

おっ、かなり近代的な本堂ですな。お参りしましょう。

 

お参りを済ませたら、谷津の道路に戻って、下りてきた方(南)を見上げます。

ただの坂道に見えていてもそんな地形的な理由があったりするんですねえ。

 

万福寺のお向かいの西側(「栗ヶ沢城台地」側)の坂道は、またえらい急な勾配になっています。

こちらから向こう(西)に向かって二列目の住宅との高低差がやたら大きいですね。恐らくあそこが谷津の西側の崖の痕跡ではないかと見当をつけます。

 

そのすぐ北側でもう一度「栗ヶ沢城台地」を見ると、、

やはり住宅二列目~三列目くらいで急に高度が上がってる様に見えますね。

 

再掲しますがカシミールで見ても、

西側の台地は道路より少し西方向に抉れているので概ね想像通りかと思います。この小金原の住宅地の地形をここまで一生懸命分析したのは地元の歴史や城郭研究の方くらいでしょうから、全国でもそんなにたくさんは居ないでしょうね(^^;)。

 

それに対して東(右)側は、高低差が道路際まで迫っており、その点もカシミール図で一致しています。

元はもっと高低差あったのでしょうが、今は1mちょっとくらいになっています。

 

その先の信号交差点で左折して、いよいよ「栗ヶ沢城台地」に乗り出します。

この辺りは西に向かって広がっている谷津があった筈なのですが、ちょっと分からなくなってしまっていますね。

 

こちらの「栗ヶ沢城台地」は、対岸の「万福寺台地」よりも高さが残っていると見えて、かなり上がってますね。

このまま上がっていきたいのはやまやまですが、坂を登り始めてすぐのところで左(南)に曲がりちょっと寄り道します。

 

左折後しばらく坂を登り、

 

右(西)に曲がると、目標物の淡島神社があります。

Googleマップを見ていると住宅地の真ん中に淡島神社があったので、興味を持って見に来ました。

 

淡島神社が祀る淡島神って主に女性に関係するものだと以前何かで読んだことがあったので、なんでこんな住宅地に淡島神社があるんだろう?と思って来てみた訳です。

社は小さいですが、キラッと光るご神体もきれいで、地元で大事にされてそうな神社です。なぜここに淡島神社があるかは分かりませんでしたが、縁あってお参りさせて頂きます。

 

お参りした後、ちょっと寄り道をしてから元の登り坂(4枚上の写真)に戻りますが、続きはその3でご紹介します。

 

(まだつづく)