2018年6月10日(土)に房総往還の青堀から佐貫町までの区間
17KM弱を歩いた記事のその3です。
歩行ルートは☟(クリックすると大きな地図にジャンプします)。
その2では、JR大貫駅のすぐ脇で、内房線の線路で途切れた
街道のルートを確認したところまでをご紹介しました(☟再掲)。
途切れた街道の先も確認できたので、そのままUターンして街道の
続きを歩きます。南に進むとそのまま国道465号に入ります。
やや寂しい感じの街並みが続きますが、時折「元名主さん?」と
思しき立派なお宅も見られます。
やがて進行方向に橋が見えてきます。
これは岩瀬川にかかる岩瀬橋。
雨の後のせいか水が茶色いですね。泥が流入しているのでしょう。
その川の横(街道左奥)にはなかなか雅な物件が立っていました。
錆びた看板に「キリンビール」の文字。背景に迫る、「ぽこっ」とした
感じの房総半島独特の山がいいコントラストです。ちなみにこの道も
国道465号の別ルート。
街道に戻り、道なりに進むと内房線のガード下を潜ります。
このガードは「佐貫街道ガード」という名前でした。
その先で銅葺きの戸袋のある民家の一回が床屋になっている、
珍しい物件を派遣しました。
後になって床屋を始めた感じなのかな?
☟の交差点で房総往還は国道から離れ左折します。
だいぶ疲れも溜まっていますが、左折した先はけっこうな登り坂。
「登り坂だと?中山道で鍛えた私は負けない!」などと近隣の人が
聞いたら不審に思われるであろう不敵な発言をして進みます。
やがて☟の地点に差し掛かります。
房総往還の進路は直進して踏切を渡るのですが、右に見えている
辨天山古墳を見に行きます。
説明板。
この辨天山古墳は全長87.5Mの前方後円墳。後円部の高さは7.5M
ほどの規模で、その上には出土した竪穴式石室の天井部分が
展示されています。出土品などから五世紀後半のものではないかと
考えられている、とのこと。
そのすぐ隣にあるのは小久保藩陣屋跡、小久保藩邸後・藩校跡の
案内板。なんとこの小久保藩、明治元年の徳川宗家駿河転封と
入れ替わりに、遠江・相良藩の田沼意尊(おきたか)が入って、藩邸や
藩校 盈進館を建てたのですが、明治四年の廃藩置県で廃藩されて
しまったもの。
やっぱり房総半島には江戸の有力な幕臣の家系が入ってることが
多い気がします。
辨天山古墳のおおむね全景。
上に登れるようになっているので、昇ってみます。
遠くには東京湾観音の背中が見えます。
海の方に目をやると、かねてから見たいと思っていた、景色が。
浦賀水道越しに三浦半島が見えとる!
後円部の上には石室の天井石が見えています。
左右にぽこっと飛び出た突起が出ているのは、石を運ぶときに
縄を引っ掛ける突起とのこと。
街道に戻って踏切を渡り、辨天山古墳を振り返ってみます。
木が大きく育って普通の山の様ですね。
その後しばらく道なりに進んで行くと、今や珍しくなってきた
昭和の住宅を見かけました。
昭和30年代~40年代前半くらいを思い起こさせる景色です。
その先で大貫中学校、大貫小学校を左に見て進んで行くと、
左側に房総独特のぽこっとした山と、正面方向に小さく東京湾観音が
見えています。
拡大モードにして東京湾観音の後姿を激写。
道なりに旧道を歩いて行くと、左側の崖下に祠が。
この辺りは岩石質の崖なのかなあと思っていたのですが、露出
している岩をこすってみるとガリガリ削れたこと、鉱物などの混入も
無いことから普通に砂岩なのかな、という感じでした。
のどかな旧道を進んで行きます。
「のどかな」と書きましたが、この辺り長らく人気がなく(空き家とか
ではないのですが)、ちょっとだけ怖くなってきて、何となく横溝正史の
小説に出てくる地方の村を連想してしまいました。
(この地区にお住まいの方、失礼な事を申し上げ、申し訳ありません)
その先の二股を右に進むのが房総往還のルートですが、その先は
曲がりくねった旧道風情の道。右側は細い沢が流れています。
沢沿いに進んでゆくと、長らく廃棄されていたと思しき、橋があり
びっくり。
興味はありますが、「渡らない勇気」が勝りパスしました。
入って行くと蛇とか出そうですしね。
いよいよこの日の旅も終盤に差し掛かりますが、つづきは
その4でご紹介します。
(つづく)