2018年3月3日(土)に、房総往還の八幡宿から長浦までの区間を
歩いた記事のその4です。
当日の歩行ルートは☟(ルートラボの大きな地図はこちら)。
歩いた距離は諸々すべて含めて19㎞ちょっとほどでした。
その3では、継立場だった姉崎の街で蔵のある家などを見かけて
けっこう上機嫌になったところまでをご紹介しました(☟再掲)。
しばし進むと、左側に八坂神社があります。
わずか数段ですが、この石段はかなり急でした。
境内にある天王さまの大イチョウです。
冬枯れの姿でもなかなか堂々たる姿。秋は銀杏の臭いがけっこう
強いかもしれませんね。
イチョウの説明板。
ちなみにこの神社の裏山はかつて椎津城があったところ。
リンク先のWikipediaにありますが戦国時代にはこのお城をめぐる
攻防戦がかなり展開された様です。
街道に戻り300Mほど進むと右側に瑞安寺があります。
中央下部に見えている「百番札所」碑の左側は道しるべに
なっていました。
「是よりちばてら四里八丁」と刻まれています。まぬけなことに
右側面を見るのを忘れてしまいました(´□`。)。
また境内には戊辰戦争時に徳川義軍に参加した鶴巻藩士の
墓碑も残されていました。
街道に戻るとしばらくはあまり風情のない道行きが続きますが、
街道と並走し始めた内房線の踏切などに行ってみると、海方向の
工業地帯の景色がよく見えたりはします。
かつてはこの内房線の線路辺りが波打ち際だったといいますので、
工業地帯造成のためにずいぶんと埋立をしたのですね。
こんな感じの県道歩きが続きます。
歩道も無くなってきてちょっと心細い感じ。
少しずつ路肩も細くなってくるのですが、単にそれだけではなく、
捨てられたごみが路肩に溜まっており、それに上乗せで、崖地形に
よる、湧水があいまって歩きにくい箇所が多数。
この区間は、この県道を生真面目に歩く価値はないので、内房線の
向こう側を走っている東京湾岸道路=国道16号を歩いた方が
たぶん安全で快適だと思います。
クルマもひっきりなしに通ります(このあと6台続きました)
さっきみたいな、湧水+ゴミ地帯があると、車の固まりが通り過ぎる
のを待たねばならず少々面倒でした。
その先で市原市を抜け、袖ケ浦市に入ります。
看板がすごく汚くて危うく見落とすところでした。
歩きにくい路肩をなんとなくやり過ごして進んでゆくと、中古車の
販売店に飛行機を発見。
風が少々出ていたのでプロペラが回っていました。
並走している内房線はけっこう頻繁に電車が走っています。
一か所路肩が菜園(?)になっている場所がありました。
これもクルマをやり過ごしてから白線の外に出て歩きます。
暫くしてようやく歩道が復活し、そのすぐ先には「亀寿司」という
ビジネス旅館(??)がありました。
看板にある通り、工事現場などで働く方の長期滞在がメインの
お宿の様でした。元寿司屋が商売替えをしたといったところかな。
その先左側に成龍寺というお寺があります。
ものすごい急こう配の参道なので(碓氷峠の疲れもあり)、お寺までは
上がりませんが、このお寺の辺りにはもともと久保田城があった
ということです。久保田城は、武田氏の氏族、真里谷氏(武田氏の
Wikipediaの「上総国などにも庶流」がそれ)の城だった、前述の
椎津城の出城。
坂の途中から海方向を見てみます。
もう少し高くまで登らないと海は見えない様ですが、体力が尽き欠け
ここで断念。
街道に戻り800Mほど先にある、信号のない横断歩道を右側に渡り、
内房線の踏切を超えると、弘法清水があります。
江戸時代は、海中なのにこの辺りで真水が湧いていたそうです。
説明板☟。
またそのすぐ横には水神宮、金毘羅社や出羽三山碑などが
ありまました(☟は水神宮の参道)。
街道に戻ると、遠くにはこの日ゴールの長浦駅が見えてきました。
長浦中学校の入り口を超えてすぐの左側には旧長浦村の役場跡が
あります。その敷地内には明治時代と思われる境界石がありました。
この日最後の街道風情的な遺構です。
ほどなく長浦駅に到着。
道路左側にあるエスカレーターで上に上がって県道を渡ると
そのまま駅改札に通じています。
最後に、駅舎の窓越しに海方向を見ると、少しだけ海が見えました。
これで房総往還歩きの第3回終了です。
それにしても前週の碓氷峠越えの疲れがあんなに残っているとは
思いませんでした。途中の休憩も、摂取した休憩アイテムも
いつもよりもだいぶ多めになり翌日の日曜日もへろっへろでした。
今年は50歳にもなりますので、大掛かりな歩きをした翌週などは
ややマイルドな散歩にした方がよさそうですね(^^)。