浜町川、神田大下水、龍閑川を歩く 3/6 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2018年2月3日()に、隅田川と神田川を結んでいた運河だった

浜町川、浜町川から神田方向に伸びていた神田大下水、

浜町川と日本橋川を結んでいた龍閑川(神田堀)で暗渠散歩を

楽しんだ記録の3/6です。

 

当日の歩行ルートは☟(大きな地図はこちら

歩いた距離は6.6㎞ほどでした。

 

2/6では日本橋川に残る龍閑川への分岐水門を見たのち、

龍閑橋の親柱を見に行くぞ、というところまでをご紹介しました

(☟再掲)。

 

実際の親柱が保存されているところには割と詳しい案内板が

あります。

まだ龍閑橋が現役だった頃の写真と、地図が掲載されています。

 

かつての姿の写真が残っているのは貴重ですね。

 

実物の橋桁と親柱は柵に囲まれて写真が撮りづらいのですが

何とか頑張って全景を入れてみます。

2枚前の、現役時代の姿と重なるフォルムですね。

 

この橋桁と親柱の、向かって左後ろに伸びている細い道が

龍閑川の跡なのでそちらに進みます。

 

流路跡に入ってすぐの右側に雅なお家がありました。

こちらはなんと舞踊のお稽古場、とのこと。

盆栽が粋です。

 

その先でJRの高架を潜り、神田ステーションホテルの横を

通ってゆきます。

この龍閑川、決して幅広のものではありませんが、今でも

千代田区と中央区の境を形成しており、向かって左側が

千代田区、右側が中央区となります。

 

両側に高い建物が続き、薄暗い感じの暗渠道ですが、ちょくちょく

飲食店なども並んでいます。

 

その先で再び旧中山道(国道17号)に突き当たりますが、その

手前の左側には、ここで龍閑川に架かっていた今川橋跡の碑が

立っています。

中山道をゆく旅人もここでこの橋を渡った訳ですね。

 

中山道を越してから、振り返ってみます。

流路の遥か向こうには、大手町の高層ビル群が見えています。

 

中山道の東側でも、龍閑川沿いにレストランなどが並んでます。

 

その先の右側に小さな両社稲荷神社がありました。

江戸時代から付近の方々に親しまれてきたお稲荷さんの様です。

 

神田に近い方に比べ、何となくですが少しずつ暗渠っぽく

なってきている気がします。

 

更に進んでゆくと、国道4号+首都高1号に突き当たる少し

手前に福田稲荷神社がありました。

京都の伏見に稲荷神社が建ってから、わずか2年後にはここに

勧請された、というなんと1300年以上の歴史を持つ神社です。

残念ながら社殿は「ピシっ」と扉がしまっており、中を窺うことが

できません。

 

更に進むと国道4号と首都高に突き当たります。

その手前には龍閑川埋立記念碑が立っています。

写真に見えている歩道橋で道路を超えて東側に渡ると、

龍閑川に架かっていた橋の一覧資料がありました(貴重!)

そうか、ここには地蔵橋という橋が架かっていたのか。

 

地蔵橋の先では、流路も真っすぐではなく自然な湾曲が見られ、

マンホールの数も俄かに増え、暗渠らしさが増してきます。

 

左右にある苔むしたコンクリは護岸、、かな?

何となく水辺に関係しそうなものではあります。

 

雰囲気の良い民家もちらほら見受けられるようになってきました。

 

けっこう大きな湾曲なども見え、川跡らしさが更に増します。

 

その先で超える車道の名前は「大門通り」

 

この大門通りという名称、はここに吉原遊郭があったことの名残

なんですね。今の吉原って時々「新吉原」という名称で呼ばれるのを

聞いたことがある方も多いのではないでしょうか?

江戸開府まもなく、葦(よし)の茂る原だった今の人形町に遊郭が

建てられましたが、あまりに江戸城に近い、ということで

今の吉原に移動した(=新吉原)というということで、

この大門通りには、遊郭の大門があったのですね。

もっとも実際の人形町はもう少し南なのでちょっと遠いかも

しれません。

 

遊郭があったであろう方向を見て激写します。

 

更に龍閑川跡を進みます。民家の前に割と大きな木が立って

いたりしていい感じだなぁなどと思いながら進みます。

だいぶ暗渠らしい道ですよね。

 

いよいよ気分も高まって参りましたが、ここまでを3/6とし、

続きは4/6にてご紹介します。

 

(つづく)