長期企画 東海道歩きその22 国府-男川(2) | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2015年4月4日(土)の旧街道歩き第22回のその(2)です。

その(1)では、岡崎市の本宿の入口に差し掛かった辺りまでをご紹介しました。

この日の歩行ルートは↓の通り

 



その(1)で最後にご紹介した冠木門の150Mほど先の新箱根入口という交差点の更に100Mほど先で旧東海道は国道1号から左に逸れて旧道部分に入ってゆきますがその分岐部分に「左 東海道/右 国道1号」という道標と、間の宿であった本宿の案内板があります。
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旧道に入って100Mほど進むと左手に法蔵寺というお寺が表れます。このお寺は徳川家康公が幼い頃手習いをしたお寺という事で、早速入口の左手側には、家康公(というか、竹千代)が草紙を掛けたという御草紙掛松がありました。

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この辺はさすがに家康公の生まれ故郷ならでは、ですね。

来迎橋という橋を渡って奥に進むと石段があり、その上に山門が見えています。
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既にちょっと疲れちゃっているのですが三河者としては家康公に縁のあるお寺は絶対に見ようなどと思って何とか登ります。本堂は決して巨大なものではありませんが立派なもので、お賽銭箱にも葵の御紋がしっかり入ってます。

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しかもこの法蔵寺、更に境内の奥の墓地の方になんとあの新撰組の局長、近藤勇の首塚があるというではありませんか。山門の屋根の下にあるベンチで5分ほど休憩してから首塚を見に行きます(本堂の前を左に上がる道です)。
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板橋で斬首された近藤勇の首は京都の三条大橋の西に晒されていましたが、それを同士が持ち運びここに埋めたのだとされています。ともあれしっかりとお参りをし、山門から階段を下ります。

階段を下りると右側(入ってくる時は左側)に賀勝水という井戸がありました。日本武尊がこの井戸を使ったとか、竹千代が手習いの習字にこの水を使ったと言われているとのこと。
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街道に戻り百巣中メートル進むと、左への道があるT字交差点に本宿の陣屋跡の案内板があります。もともと柴田勝家公の子孫がここに居たのを後に冨田家が手に入れたそうで、今も敷地は
冨田医院という病院になっています。陣屋の建物が↓。

 


陣屋から街道に戻り300M強ほど進んだ右側の民家の前には日本橋から78里目の本宿一里塚の跡碑が立っていました。

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一里塚から300Mほど進むと左側に、黄色で比較的見つけやすい長屋門があります。宇津野家の長屋門です。東海道は長屋門は余り無いと聞いていたのですが歩いていると意外とちょいちょい
見ることができ、これはこれで得した気分です。

そのすぐ先で曲尺手状に右折⇒左折をして再び旧東海道は国道1号に合流しますが、その先のルートを考え、合流する沢渡交差点で国道の右側に移っておきます。沢渡交差点から700~800Mも進んだところで、国道から右下に下りてゆく細くて短い階段があるのでここを下りてゆきます。
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↑の写真で右側に見えるところを下りる訳ですね。

すると旧道部分に入ったのか車も少なく比較的のどかな街道歩きが楽しめます。その辺りも格子のある家が多く旧街道気分満載!

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国道1号から分かれて1kmほども歩くと再び国道に再合流。先を考えて国道の左側に移って歩きます。少し国道を歩き進むと手ごろなラブホテルらしきものを見かけたので何となく「掴んで」みました。
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今思い出すと、この辺りを歩いている頃が一番疲労を感じていたのでわけの分からない遊びをしたのだと思われます。今度このやり口でもうちょっとちゃんと撮ってみようかな、と思います。

そのホテルの少し先、喫茶店の手前を少しだけ左に入ると、またしても雰囲気良さそうだけど急な階段のある神社入口が見えます。
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山中八幡宮といい、国道に合流する前にそういえばその説明板があった気がしますが、上述の通りちょうど疲労のピーク時でもありこちらも割愛。こんなに省いていいものか。。

街道に戻って右側を見ると少し遠くに名鉄の舞木検査場という施設があり、折りよく名鉄の赤い電車が走っていたのでパチリ。

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もう少しだけ電車が右方向に進んでから撮れば良かったかな。

そこから300Mほど進むと旧東海道は右にカーブする国道から逸れて旧道に入ります。
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旧道に入るとすぐに藤川宿の東の棒鼻があり、更に車道から逸れて細い道に入ります。
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広重の絵と同じ棒鼻が復元されている様で、超感動!



棒鼻から少し進むと旧東海道はまた右折⇒左折をする曲尺手(かねんて)を通過し、旧道の味わいの深い通りが続きます。

ひとしきり歩くと古くからあると思われる雅な建築の人形屋さんを見かけ激写します。
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藤川宿の中心が近くなってきた感じですね。

人形屋から50Mほど進んだところの右側の民家の前には問屋場跡の標柱が立っています。
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こちらの藤川宿も宿場の保存が素晴らしい様ですね。

更に100Mほど進むと街道右側に真新しい門や復元された高札場が見えてきました。
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ここは藤川宿の森川本陣のあった場所で、今は本陣公園として整備され、高札場なども復元されている様です。

奥の方ではむらさき麦が栽培されていますがその畑の石垣は本陣のものであったとの事。
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本陣公園を出るとき、左側(本陣公園の斜向かい)を見ると雅な建物があります。
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こちらは銭屋という屋号の商店だったところで、軒先に「うだつ」があるのが貴重です。

 


少し進むと本陣公園のすぐ先の右側に立派な門が!
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こちらは「桶屋」という屋号の脇本陣のあったところでこの門はこの宿場を襲った火事の際にも消失を免れ現在も残っている貴重な脇本陣の門だとの事。

脇本陣から500~600M進むと藤川小学校があり、その前に藤川宿の西棒鼻がありました。
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色々楽しませて貰った藤川の宿場もここまでです。

棒鼻の少し先の左側には79里目の藤川一里塚跡碑がある筈でしたが、中年ボケのせいか見逃してしまい残念!

西棒鼻から500Mほど進んだところの左側に追分があります。25
 

ちょっと見づらいですが近寄ると確かに吉良道と彫られています。26
吉良は、あの吉良上野介で有名な吉良氏の出身地ですが(今は愛知県西尾市吉良町)、海の近くにあり、海産物などを運ぶルートだったのではないかと想像されます。

道標のすぐ先に名鉄の踏切があり、そこを超えるとまたしても素晴らしい松並木が現れ、疲れも少し軽減した気になります。

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このブログでも何度もコメントしましたが、旧東海道はあちこちに松並木が残っていて本当に素晴らしいです。宿場以外の場所で旧街道を最も強く感じられますね。

松並木が終わるとまた国道1号に合流します。合流後1㎞ほど歩いたところで、国道から左に逸れてゆく道があり、それが旧東海道なのでそちらに進みます。
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国道から分岐した後、少し太めの車道を横切ると(車通りが多いので注意が必要)、左側に残り松が見えてきます。
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ここもかつては両側に松並木がそろって壮観だったのでしょう。

上の写真の残り松を過ぎて600~700Mほど進んだところでかなり交通量の多い県道46号を越えてさらに真っ直ぐ進みます。(県道46号はものすごく車が多いので交差点まで行って渡った方が
良いかもしれません)

すると乙川の手前にまた残り松らしき松の木が見送ってくれます。31
さっきの写真のところからずっと並木が続いていたのかも知れませんね。

かつてはこのまま真っ直ぐのところに橋が掛かっていましたが今は国道1号に一旦戻り橋を渡ってから川向こうでまた旧道ルートに戻らねばなりません。橋を渡って、旧道方向に向かい、少し江戸方向に逆戻りして旧道をたどります。

かつて橋があったところからすぐの左側には大平水神社があります。

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ちょっと遠くから、それでも丁寧にお参りして先を急ぎます。

水神社からすぐの辺りに、用水が流れていますがそこにはこの看板が何枚も立てられています。
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そろそろヘビも冬眠から覚めそうな時期なのでちょっとだけ怖くなり(そういう時に限って周りに人影が無いのです)、そそくさと歩きます。

ほどなく旧東海道は国道1号を斜めに渡る交差点を通って今度は国道の右側に入ってゆきますが、交差点から150M弱くらい進むと、街道右手の交番の少し手前に文化四年(1807)の常夜燈がありました。
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静岡と愛知は本当に常夜燈が多いですね。江戸から平成まで暮らしを見つめている感じです。

常夜燈から100Mほど先、斜め右後ろから道路が合流してくるY字的な交差点の股に当たる部分に道標が残っています。
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正面に「つくて道(作手道)」、右側に「東海道」とありますね。作手(つくで)とはここから北東方向にある、愛知県内の地名ですが旧街道時代にこの地点で東海道から道が通じていたんですね。

その道標から70Mほど先、↓の交差点にたどり着いたら右折。36
西平藩陣屋跡、という標識がありますね。これは実はあの大岡越前守に所縁の史跡です。大岡越前守忠相が一万石の大名になってから明治になるまでここに大岡家が代々治める西大平藩の陣屋があったのです
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門の中は快適な公園状になっていてゆっくり過ごせそうないい場所でした。

街道に戻り200M弱進むと、街道左手には日本橋から80里目の大平一里塚があります。ここは跡碑ではなく、左側(西側)の一里塚が現存しており、ゴール間近に嬉しいイベントとなります。38

 
正面からもう1枚激写!
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そのすぐ先、比較的幅の広い車道に突き当たったところでこの日の旧東海道歩きはおしまい。
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車道の向こうに見えているところが次回のスタート地点です。

左折して1㎞ほど西の方向に進み、名鉄の男川駅から知立に出て、そこから名鉄三河線で実家のある豊田市に行き、とうとう街道歩きのついでに帰省をしたのでした。東海道を歩いていればそりゃいつか実家近くを通るのはもちろん分かっていましたが、日本橋から22回も歩けばここまで来られるものなんですね。

それにしても今回の区間は楽しかったですね。江戸から続いた旅籠の大橋屋は言うに及ばず、それ以外も旧街道の風情のある道をかなり長時間歩き、すっかり江戸の旅人気分になれました。

まだまだ義父のお見舞いも必要ですしそんなにすぐに次は歩けないかもしれませんが、ぼちぼち進めて行きたいと思います。

2015年4月6日(月)