長期企画 東海道歩きその22 国府-男川(1) | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2015年4月4日(土)

6週間ぶりの東海道歩きです。病気の義父の状態もまずまず
安定してきたのと、愛知県の実家の母親とも話す要件があったので
前回ゴールの国府から岡崎市の男川までの21.5kmほどを歩き、
そのまま実家に泊まってきました。

この日の歩行ルートは↓の通り



6:26東京発のひかり号で東京を出発し、豊橋で名鉄に乗り換え。01
あと2分で国府に着くという時にとんでもない事に気づきました。
さっき豊橋駅でトイレに行った時にスマホ忘れてきちゃった!」です。

乗っていたのは特急だったため国府まで止まらず、国府に一旦着いてから急行電車でまた豊橋に戻りスマホ探しに。幸い、親切な方が駅員さんに届けて下さっていたのでほどなく見つかりましたが(どなたか分かりませんが本当に有難うございました!!)
国府に向かう電車の本数も決して多くはないので、国府に到着して街道歩きに出発する時間がジャスト1時間遅れに。ま、見つかっただけ超ラッキーですので文句はありません。
というか、歩き出す前に気づいてよかった。。

さてそんな訳でようやく国府駅に到着し、少し西にある新栄二丁目の交差点に着いたら東海道歩きのスタートです。
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新栄に二丁目から数分歩くと右手に大社神社がありましたのでまずはお参りをすると共にこの日の無事の他、家族の健康、娘の学業成就、商売繁盛などを相変わらず欲張りにお祈りしました。03

神社を出たほんの少し先、右手の蒲郡信用金庫の植え込みに日本橋から76里目の御油の一里塚跡碑を発見。
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一里塚跡から百数十メートル進むと県道366号を超える交差点に出ます。
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以前見附宿(磐田)近くで東海道と姫街道の追分をご紹介した事がありますが、この交差点がその反対側の追分となり、ここで姫街道は東海道に再合流しているのです(写真向かって右が姫街道)。近くに寄ってみると、姫街道の道標の他、秋葉道、国幣小社砥鹿神社道常夜燈などがあり、盛りだくさんな交差点となっています。

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そこから少し進むと音羽川を渡る橋があり、川の両岸には桜が咲いており見事な景観!
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その後暫く旧街道っぽい道幅と湾曲の道が続いた後↓の写真の地点で旧東海道は右折して、その後100M弱で左折する曲尺手(かねんて)状になっています。御油の宿場が始まっているのですね。
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この交差点の手前右側には、明治時代に日本に来られていた医師、ベルツ博士の妻の花さんの実家がこの付近にあったという案内板があります。
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塗装がはがれかかっているのが気になりますね。

同じ交差点の左奥の桜が咲いていた場所が御油宿の高札場跡との事で案内板が。10
今まで見てきた中で一番風流な高札場跡だと思います。

その交差点を右折して少し進むと、右側の民家の横には問屋場の跡碑が建っています。
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そのすぐ先がT字状の交差点になっているのでそこを左に曲がります(上述の曲尺手ですね)。曲がってすぐの左側には鈴木半左エ門本陣跡の石碑と、御油宿場の説明板がありました。
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その斜向かいには、愛知県民なら知らぬものはいないイチビキ醤油の第一工場があります。私も子供の頃は醤油といえばイチビキ、パンと言えば敷島(関東ではPasco)、ソースと言えばコーミ、でした。

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そこから暫く進むと松並木が見え始め、右側の松の手前には東海道中でも有名な御油の松並木の碑がありました。

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ここから先の松並木は見事!の一言ですが、車の通行量がかなり多く、結構飛ばしている方も少なくないので、同じところを歩かれる方は十分にご注意下さい。
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松並木が終わると小さな川を渡り、そのすぐ先のT字型交差点の右側には次の赤坂宿の東見附の跡碑があります。

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さっき御油の宿場を通ってきたばっかりなのに、赤坂宿はかなり近接していたのですね。 ともあれ、この赤坂宿には東海道中でも私が最も見たいものの一つがあるので、いよいよ歩く足にも力が入ります。

道はやはり宿場の雰囲気が残っており歩いていてもとても楽しく進めます。
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上の写真の位置から少し進むと、左側に神社と大きな木が見えてきます。神社は関川神社といいますがこの大樹は・・・

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楠で、樹齢は800年だとか。江戸の旅人もこの木を見上げて歩いていたかと思うとしみじみ街道歩きの醍醐味を感じます。

更に進むこと数分、街道右側の民家の軒先に看板がぶら下がっているので見てみると問屋場跡の説明板でした。
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どうやらこの辺りから宿場の中心に近づいている様です。

その斜向かい(左側)にある立派な格子戸の門はここにあった松平彦十郎家の本陣跡です。この本陣はとても大きく、422畳もの大きさであったそうで、私が今これを書いている6畳間の70倍って事ですね。
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そのすぐ先がT字交差点になっていますがその手前右側には高札場が復元されています。
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その向かい側(交差点の向こう側)には赤坂宿のお祭りの解説があり、そのすぐ前にはかつて廓の老舗であった尾崎屋がかつての宿場風情を伝えてくれています。

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更に進む事50M,街道左側に私が見るのをずっと楽しみにしていたものを発見しました。
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慶応二年(1649)から366年続いた旅籠、大橋屋です。

私がここを歩くほぼ三週間前の2015年3月15日、この大橋屋は旅館としての営業を終えられました。できれば中に入りたいと思っていたのですが見ると見学は可能であった様なので中にお邪魔します。
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ついこの間まで現役だった旅籠の姿に感動しながら、さらに中を拝見します。
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階段を上がると、ふすまで仕切る事のできる3つの部屋がありかつて江戸の旅人も宿泊した旅籠の部屋を見る事ができました。

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昔はこの一部屋にも何組かの旅人が相部屋で泊まったそうです。あぁ、できれば一度宿泊してみたかったなぁぁ。

お二階の部屋を拝見して階段を降りようとすると、大橋屋の御主人がちょうどお掃除で出てこられたところでした。

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階段を下りて少しお話することができ貴重なお話を伺うことができました。少し奥に行って天井を見る様に言われたので見てみると、焦げた俵の様に見えるものが梁に乗っていましたが29
これは366年前にこの旅籠が立った時に乗っけたものがそのままになっているのだそうです。すごいもんを見てしまいました!

この大橋屋は、豊川市が土地を買い取り、建物は寄付をされるのだそうですが、それでもまだ丹念に掃除を続けるご主人の姿が非常に強く心に残りました。

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大橋屋を出て暫く歩くと街道左側にある公園の一角に「よらまい館」という休憩所がありました。
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久しぶりの長距離歩きだし、腰痛もよくないし休憩したいのはやまやまでしたが、何せ出発が一時間遅れてしまったので先を急ぐことにします。

このよらまい館の斜向かいの街道右側には赤坂の陣屋跡の案内板が立っていました。
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1kmちょっとくらい進んで街道が左にカーブするあたりで少し街道から左奥に入ったところに榮善寺というお寺の参道があります。
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良さそうな風情なのですが、久しぶりの街道歩きなせいかまだ大して歩いていないのにずいぶん疲れてしまっているので先を急ぐこととし、街道に戻ります。

そこから400Mほど先の小さな川にかかる橋の手前左側に小さな石碑が。見ると「一里山庚申堂道標」という事でした

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下の方が埋まっちゃっていてどうもよく読めずに残念です。

その橋から300Mほど進むんだところにあるのが日本橋から79里目にあたる長沢一里塚の跡碑です。

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かなりのどかな場所なので、どうせなら一里塚も残してくれればいいんですけど、なかなか難しいでしょうね。

そのすぐ先の右側が長沢小学校ですが、その外壁には長沢城跡の説明板が建っていました。
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ちょうど西三河と東三河の中間辺りに相当するこの地にあったお城だそうで、案内板の左上には当時のお城の見取り図的なものも掲載されていました。
 

私の生まれ育った豊田市は西三河なので、この先正に自分の出身地域である西三河地方に入ってゆく訳です。

相変わらず旧街道らしい道幅の道が続き、何となくかつての街道時代の風景が想像できる様な気がします。
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街道の右手方向に国道一号が見え隠れするようになって来る頃、道路の右側に観音堂跡があります。
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御堂はなくなってしまった様ですが今でも敷地の奥に小さな観音像が立っているので丁重にお参りをして街道に戻ります。

その先、関谷という交差点で国道1号に合流し、2㎞弱も歩くといよいよ豊田のすぐ隣にあたる岡崎市に突入!

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22回も地道に歩くとこんな実家近くまで来れるもんですねぇ。。

そのすぐ先には本宿の碑と説明文が設けられています。本宿は元々、後に紹介する法蔵寺の門前町として栄え、東海道五十三次が整備されて以降は間の宿として繁栄したとのこと。
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この碑のすぐ先には冠木門が設けられており、なんとはなしに国道ながら東海道としての記憶が残っている感じ。

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この少し先で本宿の中心だったところに入ってゆきますが長くなっても来ましたのでここまでをその1として、その2に続けることとします。

2015年4月5日(