らんまるの日光街道歩きその10 石橋⇒宇都宮 後編 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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8月17日(金)の日光街道歩き第10回の後編です。
(前編の内容はこちら。歩行地図はこちらになります)

※使用していた地図サービスの終了で地図が見られなくなってしまいましたm(__)m。

前編では石橋駅から雀宮宿の脇本陣を堪能したところまでの行程をご紹介しました。

脇本陣のすぐ先には、雀宮駅入口交差点がありますが、更にそこから先数百メートル進んだ先の右側(2012年8月現在、道路の反対側はダイソー)には、雀宮宿の名前の由来にもなった雀宮神社があります。

この雀宮神社にはとある伝説が伝わっている様です。その内容はこうです。
藤原実方朝臣を追ってここまできた彼の若妻がここで死んでしまい。また、実方朝臣本人もも落馬で命を落としてしまうが、実方朝臣の魂は一羽の紅雀を化し、愛しい妻が眠っているこの場所まで飛んできたものの、その紅雀も哀れここで息絶えてしまったそうです。
(上のリンクのWikipediaだとずいぶん違うスズメになった話になってますが)


境内に入ると、恐らく氏子さんらしい方が本堂をはじめ勧請された小さな神社全てに丁寧にお参りをされていました。
21雀宮神社
この境内には丁度よく日陰になったベンチがあったので、暫し休憩させて頂き、冷感ジェルを塗り直したりして少し体を休ませた後、再度出発します。境内の奥にはいかにも神聖な雰囲気のあるご神木が気高く聳えていました。

22雀宮神社ご神木

境内を出るとすぐに「東京まで100km」のポストを発見。

23東京から100km
東京から100kmだからと言って何がどうという訳でもないのですが、ここまで徒歩で100km歩いてきたかと思えば嬉しくもなりますね。

さてそこから数百メートル先あたりでドリンクが尽きてしまいました。この時期、この気候でドリンク無しでは、それこそ往時の旅人よろしく行き倒れになってしまいますので、あわてて仏壇屋さんの向うにあったセブンイレブンで本日3本目のドリンクを購入します。

そこから400mほどあるくと、非常に道幅の広い国道121号との交差点が見えてきます。
24大きな交差点

 

信号待ちの間、左の紳士服のコナカの看板の日陰にかくれて少しでも涼を取り、交差点横断!ほどなく街道の左側にはまたしても超広大な敷地が広がり、それが自衛隊北宇都宮駐屯地です。

25北宇都宮駐屯地
上の写真ゲートの向こう側の右奥にヘリが見えていますね。そういえばこの付近から何度もヘリが飛び立ったり、降りていくのを見かけました。

この辺りはこの日の行程のちょうど真ん中くらいかと思いますが、太陽も長時間雲に隠れてくれず、更に足も疲れて来ており、かなりグロッキーになり始めました。

太陽はまだ東(右)よりなので、少しでも日陰に入れる様、道路の右側を歩きます。やがて台新田という交差点の少し手前にようやく休憩できそうな菅原神社がありました。学問の神様なのでまずは丁重に娘の受験合格を祈願した後、境内で休ませて頂きます。26菅原神社

 

ベンチはないので、丁重にお詫びして、本堂の階段の最下段に腰をおろさせて頂き、10分弱休憩します。日陰から西の方を見ると入道雲が見え、夏らしい風情だったので、一枚激写!

27菅原神社から見た空

少し元気を回復し、街道に戻ります。菅原神社から1kmほど歩くと「一里」という交差点に差し掛かります。この付近には、日光街道で26番目の「江曽島の一里塚」があったそうですが、今は左右とも全く見当たらず、交差点とバス停の名前にのみ痕跡が残っています。28一里の交差点

一里の交差点を越えると道幅も広がり、いかにも市街地が近い事を思わせる雰囲気になってきます。一里から数百メートルくらいで川田という大きな交差点がありその少し先で、なんだかんだ言ってここまでずっと一緒だった国道4号とはお別れになり、日光までもう会うことはありません。

29国道4号とお別れ
上の写真で右斜めにカーブしていくのが国道4号、直進するのが国道119号であり、日光街道です。丁度この写真を撮ったあたりで、黄色いブラウスを来て自転車に乗った、私より少しお年上であろう女性に「街道歩き?お疲れさま。今日はどこまで?テントなんかは持ってないの?」と声をかけて頂き、最後に「頑張ってね~」と言って頂きました。きっと街道ウォーカーを見慣れていらっしゃるんですね。一人で5時間も6時間も歩いていると、こういうのが嬉しく感じます。

119号に入ると、ついに日光までの距離表示が見えます。

30日光まで31km
いよいよ日光が射程距離に入って来ました。日光街道が140kmあまりですから、文字通り終盤に入ってきています。

そのすぐ先の橋の下を見ると、川が流れているのではなく、JR日光線の線路が西に向かって伸びています。
31JR日光線
この線路の行く先は、直接ゴールの日光に繋がっているかと思うと、ますますラストスパート感が出てきますね。

国道119号に入ったのもつかの間、不動前というY字交差点で日光街道は、直進する国道から再び左斜めに分岐します。
32不動前交差点
「不動前」という交差点名の通り、交差点のY字の又にあたる部分には不動尊があり、小さいながらも大切にされている様です。

国道119号から分岐して200~300mほど進むと、今度は高架線の下を潜りますが、この線路は東武宇都宮線です。高架を越えてすぐ10mほど先の右側に「蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ)という碑があります。蒲生君平は林子平や高山彦九郎と並ぶ「寛政の三奇人」として有名です。明治2年に、明治天皇が蒲生君平の功績を讃える勅命を出し、こうした碑が建てられたという事です。
33蒲生君平碑

蒲生君平勅旌碑から100~150mほど進んだ先、街道の左側の民家の奥に、それこそジブリのアニメにも出てきそうな大きな木があります。これは天然記念物の大きな欅(けやき)で、なんと
高さ43m(推定樹齢800年)とのこと!遠くから撮っても近くから撮っても、結局この木の雄大さは表現できませんでした。

34大ケヤキ

このあたりを過ぎるといよいよ道も妙に真直ぐになり、城下町の雰囲気が出てきます。日光街道は「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」と名前を変えていきます。大ケヤキから1kmほど進むと向かって右側に雅な感じの松がたった2本だけ、植えられています。

35歌の橋の松
なんでも、万葉の昔、仕丁(律令時代の雑役の仕事の人)が歌を詠み、それが万葉集に採用されたそうで、それにちなんでここにあった橋が歌の橋と名付けられたそうですが、あんまりよく分かりません。

その先右側に「天満宮」があり、ここでも家族の健康や娘の学業成就、商売繁盛を祈ります。
36天満宮

 

ちょうどこの頃から、空はまだ夏空なのに、遠雷が聞こえ始めます。前述の天満宮を出ると、街道から200mばかり西(左)方向に茅葺きの建築物の一片が見えたのでちょっと遠回りして近付いてみます。

すると報恩寺という非常に雰囲気のある良いお寺の山門でした。37報恩寺
こちらでも欲張りにいろんなお願いごとをたくさんして、街道に戻ります。

この先工事中で筋違(すじかい)状になっている交差点を通り、どんどん北に向かいますが、今思えば、あの筋違の交差点、道路幅の拡張工事をしているだけできっと、城下町特有の「枡形」だったのでしょうね。写真も撮らず残念な気もしますが正直ただの工事現場にしか見えなかったのも確かなので、まいっか、とも思います。

やがて街道は「材木町通り」と名前を変え、材木町を通ります。由来の非常に明確な町名ですね。材木問屋が一杯あったと。先(北)を見ると、道は突き当たっています。
38材木町通り

突き当たりが「裁判所前」交差点で、宇都宮地裁のあるところです。ほどなく裁判所前交差点に到着します。
39裁判所前

 

裁判所前の交差点を北側に渡って右折すると、JR宇都宮方面に向かう目抜き通りに入ります(JR宇都宮駅は1km以上先ですが)
40宇都宮駅方向

そこから間もなく、本日のゴールである日光街道と奥州街道の追分です。宇都宮小幡郵便局を過ぎた最初の小さな交差点、北側が追分です。
41奥州街道追分1
写真で見えている赤茶色の床屋さんが目印で、交差点の手前側に案内が立っています。
42奥州街道追分2
ここから左折した北上するのが日光街道、直進するのが奥州街道です。
ここで本日の日光街道歩きはゴール!!

次回はここから北に向かって進路を取ります。
43次回歩く道
ここから次に歩いて行く訳ですがGoogleMapではこの通り清住通りとなっていますが、1つ前の写真では「本郷町通り」という看板が立っていますね。恐らく通りの名前が変更に
なったのでしょう。

100km以上歩いてきた日光街道もあと3回ほどでゴール予定。ここから先は、JRの線路からも東武の線路からも離れて長距離を歩くコースが多くなります。しっかりと事前の準備をして臨んでいきたいと思います。

と、言って普段は終わるところなのですが、この追分地点からJR宇都宮方向に向かう進路は、少し遠回りをすればそのまま奥州街道の最初の1.5kmほどを歩くことになるため、そのまま「奥州街道第0回 日光街道追分から上河原通り」として歩く事にしましたので、そちらもご覧下さい。

2012年8月18日(土)アップ