らんまるの日光街道歩きその09 小山⇒石橋(前編) | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2012年4月25日(水)

スチャラカ社員丸出しで、会社から有給を頂き、じっくりと小山から石橋までの区間を歩きました。今回は街道を道なりに歩く以外にも神社仏閣を多めに見たり、色々なところを見て歩いていたので、歩行距離は19.348km、ルート地図は前編後編の2つに分けました。

※使用していた地図サービスの終了で参照できなくなっていますm(__)m。


水戸街道の石岡⇒奥谷に次ぐ長距離ウォークです。

8:32AM、前回ゴールの小山駅に到着すると、ほんの少し旧街道を戻って、前回近くで見ていなかった小山宿の脇本陣跡を再度じっくりと見ます。
01小山脇本陣玄関
玄関だけとはいえ、本当に立派ですね。今では玄関以外は妙なトタン状になっていた様ですが、脇本陣全部が残っていた昔日の姿はどんなに立派だったでしょうね。

この後は、やはり前回の小山到着時に回れていなかった小山市役所方面に進みます。市役所が見たい訳ではなく、市役所の敷地内にある、小山評定の記念碑や、小山御殿の跡が見たいという事です。

駅から西方向に向かい「評定通り」を超えて、かつて小山御殿のあったあたりに辿り着くと、早速説明のボードが迎えてくれました。

02小山御殿説明


小山御殿は、徳川将軍家の日光参詣道中の休憩/宿泊所だったという事ですね。敷地の遠景はこんな感じです。
03小山御殿跡

今度は市役所の敷地そのものに入って、小山評定の記念碑を見に行きます。記念碑は八重桜の傍らに立っていました。

04小山評定の地
市役所の敷地という本来殺風景になりがちな場所ですが八重桜に歴史的遺構のペアリングでとてもgoodですよね。

更にこの奥には説明の石碑も立っていました。
05小山評定由来
歴史が大きく動いた瞬間の現場ですね。

さて、前回見逃したポイントはここらあたりとして、旧街道に戻り、北上を開始します。数百メートルで左手に元須賀神社という神社の参道入口が見えます。前回ご紹介した須賀神社が元々あったところでしょうね、これは。
06元須賀神社
やはり参道はかなり長いものになっています。個人的に長い参道というものはなぜか結構好きです。

そこから約数百mほど先でしょうか。ファミリーマートの少し先に
興法寺という極めて立派なお寺がやはり左手に現れます。

07興法寺01
天台宗のお寺で慈覚大師円仁が嘉祥二年(849年ですね)に建立したのが始まりと言われているそうで、日光街道そのものよりもはるかに長い歴史を持つ「超」のつく名刹です。本堂の立派なことといったらありませんし、

08興法寺02
本堂のみならず伽藍全体も、妙に華美だったりは全くせず、ひたすらに良い意味で立派なお寺です(成金的な香りが全くしない、といえば分かりやすいでしょうか)。いつもの通りしっかりとお参りをして街道に戻ります。

興法寺からおおよそ1kmくらい進むと、踏切を超えますが、こちらはJRの両毛線の踏切です。踏切の名前というものは結構街道名がついていたりする事も、経験的に分かってきましたが、てっきりこの踏切は「日光街道踏切」か、もしくは「日光・奥州街道踏切」 (6:4で後者の予感)などと思っていたのですが、笑うくらい大外れでした。
09両毛線踏切
『第一奥州街道踏切』ですか、、、負けました。それにしても「第一」ってことは、第二や第三もあるって事になりそうですが、この第一って奥州街道に掛ってるの?それとも踏切に?(1st奥州街道にかかる踏切、なのか、奥州街道にかかる踏切の第一なのか(後者なら奥州街道第一踏切、にすべきですが)。

ま、とにかく性格的に細かいことは気にせずに先に進みます。


その後1.5km弱くらいだと思いますが、日光街道と壬生堂の分岐点(追分)が見えてきます。これがその写真です。

10壬生道追分
電線工事で見にくいのですが、写真の左斜め前に向かって伸びていくのが壬生道という街道です。日光街道は後で書きますが、真直ぐに伸びている方向の車道は日光街道ではありません。

この壬生道との追分地点に道標や石碑群があると聞いていたので写真左手(別れたばかりの壬生道の右側、道路の又部分)の方に進んで石碑・石仏を探すとすぐに見つかりました。
11壬生道追分石碑群

すっかり満足して日光街道に戻ります。日光街道は、2枚上の写真でまっすぐ伸びている車道から斜め右に伸びる細い道です。

12旧道入口
上の写真の右側に伸びていく道がそれですね。こういう旧道は大歓迎です。これだけ細ければかなり車の通行も少ないですし。

旧道に入ると眼前に広がるのはこんな風景です。
13喧騒を離れた旧道
尚、かつての旧道がこんなに狭かった訳ではないと思われます。と、いうのも、後ほど一里塚をご紹介しますが、左右の一里塚の間隔はもっと広いものだからです。恐らく明治維新以降の土地区画整理などで、道筋は残ったものの、狭められてしまったのではないかと考えています。

さて旧道に入って1kmも歩いた頃だったと思いますが、左側に林が、右側に正体不明な盛り土の見つかるところがありますが、ここが99.999%間違いなく、この辺りにあったとされる「喜沢の一里塚」です。

向かって左の塚は林の中で、比較的本来の形を保っています。14喜沢一里塚左側


右側のものは、住宅地の隙間になんとなく正体不明な盛り土として残っているという感じで、左の塚があるので、まぁこれが右側なのだろう、といった風情です。
15喜沢一里塚右側(跡)
見方によっては「こんなになってもよくぞここまで残した!」とも言えますか。

その一里塚からしばらく10分ほど歩くと、旧街道は東北新幹線の高架線路にぴったりとくっつき、暫く並走する形になります。
16新幹線に寄り添う旧道

並走区間は取り立ててみるべきものは無いかな、と漠然と思っていたのですが、良い意味で間違いでした。歴史的遺構はありませんが、まずはこれ。
17倒れたトイレ
そう、建築現場などにある仮設トイレですが、広場に転がっています。
なんとなく「ジオラマ」効果で撮ってみたものです。

さらにこの先には「アイディア賞」もののゴミ捨て場がありました。18荷台のゴミ捨て場
遠目に見て、妙なところにトラックが捨ててあるな、と思っていたのですが、よく見るとトラックの荷台をそのまま排水路の上に乗せてゴミ捨て場としたものだったんですね。超のつきそうな粗大ゴミをゴミ捨て場に使う、素晴らしいと思います。

この先で旧街道は暫く一緒だった新幹線の高架線路から分かれます。
この写真の地点がその分岐地点となります。
19ここで斜めに入る
 

向かって左斜め前に伸びていくのが旧道で、やがて旧道は数百メートル先で国道4号と合流し、ちょうどその辺りから、新田宿に入ります。
20国道4号に合流
上の写真が4号との合流地点です。

新田宿の始まりとは言うものの、正直国道を歩いていても、全く宿場跡という間隔の無いエリアが続きます。
21新田宿
せめて野木宿や間々田宿の様に何か説明看板でもあれば、と思いますが仕方ないですね。とはいえ、この600mくらい先には、一応新田宿の本陣の跡は残っています(説明はありませんが)。それがこちらです。

22新田宿本陣跡
本陣を勤めていた青木家に、今も本陣の門が残されています。内側の建屋は現代のものですが敷地の広さなどはさすが本陣!といった感じでした。個人的には、水戸街道の取手、中貫や稲吉の
本陣を見てしまってからと言うもの、街道歩きの最も大きな楽しみは本陣と脇本陣見学となってしまっているきらいがあるので、門だけでも残っていてくれて嬉しいです。

更に嬉しいことに、暫く歩いていると旧家っぽい、敷地の大層大きなお宅の庭には何がしか雅な建物が見えます。よく見ると「

23いい感じの蔵
このお蔵は年代ものですね、こりゃぁ。屋根の上の方が崩れているのは恐らく昨年3月の震災でしょうか。

 


先ほどの本陣門から200~300m先の国道右(東)側には橿原神社、というこの時期それはそれは参道の美しい神社がありました。見てください。

24橿原神社参道
この桜(八重桜が主でした)のトンネルが参道となっていて、こりゃぁもう参詣するしかないな、と。葉っぱは出ていますが本当に見事な桜でした。
25橿原神社参道の八重桜アップ


こちらの神社、元々星宮神社だったのが橿原神社に変わった様です。
26橿原神社本殿
本来はもう少し東になったのだけれども、新幹線が敷地を通ってしまうので今の場所に移転したのだとか。。

美しい参道を街道に戻って100mほど進むと、旧道は国道4号を左側に逸れるルートに入ります。実際は滑らかに左に進むのですが、一部旧道が消失してしまっているので、銅市(どういち)という会社の横から旧道に復帰することになります。


旧道のルート(推測も含むのですごく正確、という訳ではありません)は概ねこんなルートを辿っていた様です。このルート図を拡大して頂くと比較的詳細なルートがお分かり頂けるかと。

(地図サービスの終了で参照できませんm(__)m)

銅市さんのところから左に入ると、「ドーイチ」と書いた倉庫があります。27旧道の入口
向かって左に木が生えていますが、その後ろには石碑・石像群が。
28石碑群

 

すなわちこの石像群の右側に旧道が走っていたという事で、もしかしたら今正面に見えている箇所よりも左側であったかもしれませんね。ともあれ倉庫の中は歩けないので今ある道筋を進みます。

右手に見える団地のところで昔はほぼ行き止まりに近かったらしいのですが、今は遊歩道が延びている様でした。
29旧道は続く

もしかしてこのままずっと先にある小金井の一里塚跡くらいまで繋がっているのでは?と淡い期待をかけて歩くと、サンデリカという会社の横で、、、あれ?

30旧道行き止まり
ぷっつりと道が途絶えました。仕方ないので少し柵を乗り越えて他所様の駐車場を通り抜けさせて頂き、無理やり向かって左側にある道路に出ます。


若寿司というおすし屋さんあたりで、上の写真の方向にまっすぐ伸びる旧道と合流している様です。そこからは旧道もスムーズにまっすぐ伸びているので、ひたすら歩くとやがて突き当たりにぶつかりますがよく見ると、、

31旧道突き当たり向うに一里塚
意味ありげな大木が1対見えますね。

 

これは例のアレだな、と思って近づくとやっぱりこれこそが貴重な街道の遺構である、小金井の一里塚!でした。上の写真の畑の土の部分が丁度旧街道と重なるのだと思いますが中を通る訳にもいかないので、左から迂回して近づいてみます。

32小金井の一里塚
これは北側(日光側)から南側(江戸側)を振り返って取った写真ですが明確に旧街道の幅が分かる、大変貴重な場所ですよね。元々一里塚というのは方形(四角形)の塚の上に榎を植えるのですが現存している一里塚の殆どは、方形の塚が風化で磨耗して円形になってしまっています。向かって左(東)の塚は、榎の他、クヌギも生えてしまった様ですね。かつてはこの一里塚の間を通って、現在の国道4号に合流する形で旧街道が走っていたそうです。

この時点で11:45頃、そろそろお腹が空いてくる頃だな、と思っているとこの一里塚のわずか15m前方にマクドナルドを発見したので、クーポンを使って、ペッパーレタスバーガーを美味しく頂きました。


ここまでを前編とし、後編に続きます。

2012年4月27日(金)アップ