2011年8月7日 ここのところしばらく水戸街道の北方面ばかりを
追求していたので、気分を変えて今日は南方面を進める事にして、
以前到着した綾瀬⇒北千住を歩くことにしました。
今日は北千住側だけになりますが、音に聞こえた千住宿を見るのは
とても楽しみです。本日歩いたルートはこちら。
午前8時前に綾瀬駅に到着、古隅田川を辿りながら旧水戸街道ルート
まで南下するとそこは水戸橋です。水戸街道歩きの偉大なる先達の
ブログやWebを拝見すると、この橋が水戸橋と呼ばれるのは、
①ほとんどの川を橋ではなく、渡しで渡っていた当時、水戸街道中で
唯一の橋だったから、とも②ここに出た妖怪を水戸光圀(水戸黄門さま)が
退治し、後々まで橋を守るために自らの水戸の名をつけたから、などなど
諸説があるようですが、
いずれにしても見事な太鼓橋(丸みを帯びた形状の橋)ですね。この橋を
渡ると、古くから創業されていると思われる材木屋さんなども見られ、
ひなびているといえなくもありませんが街道情緒もまたたっぷりです。
その後旧街道は荒川の土手に突き当たってしまいます。
いまさら私が解説するのも何ですがこの荒川という大きな河のこの部分は、
元からここにあったのではなく、正式名「荒川放水路」といい、明治時代に
大正から昭和の大工事で人工的に作られたものなので、かつての旅人はすんなりと
上の写真の方角と陸地を行き来できてた訳ですが、残念ながら今は大きな河が
流れてしまっており同じ事ができません。ここで下流の堀切橋を渡るか、上流の
千住新橋を渡るかの選択になりますが、事前に調べたところ千住新橋経由の方が
だいぶ距離をセーブできそうなのでそちら廻りのルートにします。
(荒川放水路ができる前の本来のルートはこういう感じだったハズです)
日差しは強くとも川べりの道は、川風が少しあって比較的気持ちよく、また
向こう岸をみれば東京の新シンボル、スカイツリーも見え、とても気分の
良いお散歩です。
結構大回りになりますがそれなりに気持ちよく荒川を越え、JRの鉄橋の方に向かって
歩くと江戸時代から、「骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎ」と江戸中に
その名の轟いていた(と、先達の書いておられる)名倉医院があります。
伝統の貫禄たっぷりで、とても広い敷地でした。厳密には名倉医院は旧水戸街道のルート
ではないので、ここから旧水戸街道のルートに復帰する意味もあり、
近くにある清亮寺を目指します。
ここには、かつて枝掛けの松という松があったそうで、街道の方にまでかかって
いたそうですね。
上の写真がかつての槍掛けの松で、なるべく同じ方角から撮った(つもり)なのが
こちらになります。
清亮寺をみたところから、千住宿の中心地に取って返します。
JRの高架線をくぐってしばらく歩くと、日光街道と水戸街道の
分岐である追分にたどり着きます。
「東へ旧水戸佐倉道、北へ旧日光道中」と書いた道標が交差点に立って
います。この日光街道もいつか踏破するつもりです。
その道標のある追分の交差点のたたずまいはこのような感じです。
ここから千住宿のメインロードを北千住駅方面にまっすぐ歩く事になりますが
この通りがまた、街道歩き・歴史めぐり的にすばらしい。
昔からの伝統的な建物でいうと、地漉紙問屋であった横山家(伝馬屋敷)、
絵馬屋さんだった吉田家
などなど江戸からそのまま存続している建物が風情を今に伝えています。また、
江戸からではありませんが、名物のかどや(だんご屋さん:今日まで夏休みで
食べられませんでした、ショック!!)
また高札場跡が公園になっていたところでは、かつての高札の様な
形を模して、高札場の説明がされていました。
この様な感じで、千住宿、見所満載といえます。
駅のほど近く、無料で休憩できる「街の駅」で北千住の観光パンフを
頂き、さらに冷たいお茶をご馳走になりました。生き返りました。
本当にありがとうございました。
さらに駅近くまで進むと全く遺構は見られませんが、千住宿の本陣跡の
石碑がとてもちんまりと立っています。
千住宿全体としては結構いろいろなものが残っているのですが、本陣跡は完全に
商店になっていました。残念な気もしますが各地の本陣を全部保存する訳にも
いかないので、時代の流れで仕方のないところですね。
本日の歩行距離5.195km、運動量としても歴史めぐりとしても充実の一日でした。
2011年8月6日アップ