「台湾の声」【日台関係基本法の制定を急げ(上)】台湾の法治・自由・民主主義を守る責任 | My Flame

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【日台関係基本法の制定を急げ(上)】台湾の法治・自由・民主主義を守る責任 


【日本時事評論:平成25年8月2日(第1781号)「天録時評」】

 わが国にとって台湾は、経済や安全保障面はもちろん、歴史的にも、また価値観を共有する点から政治、文化的にも極めて重要な存在であることは言うまでもない。さらには、中国が東シナ海、南シナ海から西太平洋の制海権の確保をめざして、軍拡を続けており、今後、台湾の重要性は一層高まっていく。台湾の帰趨は台湾の人々が決定するのはもちろんだが、台湾の自由や民主主義が、台湾の民衆が望まない形で奪われる事を許してはならない。軍事的に中国に併合されることを抑止する責任を、わが国は歴史的にも負っているのである。しかしながら現在、わが国と台湾の間には国交がない。密接な関係がありながら、政府間交流は一切絶たれている現状を改善すべきだ。共産党独裁の中華人民共和国の支配下にはなく、選挙による民主的な政権交代が行われている台湾の存在を認めて、友好関係を強化するための日台関係基本法の制定を急ぐべきである。(4、5、8面にも関連記事)

◆日本人として

 多くの日本人にとって、台湾が世界の国々の中で、最も親日的であることは周知のことだ。一昨年の東日、本大震災の際には、人口約2300万人の台湾の人々が寄付した200億円を超える義捐金が寄せられたことで、改めて多くの人々が台湾の人々の親日度の高さを驚きと共に認識すると同時に、深く感謝した。実際、台湾に行けば、日本の文化をよく知り、流暢な日本語を話す人々から、若い日本人よりも礼儀正しく、温かいもてなしを受ける。

 われわれは台湾を訪れ、人々の親切なもてなしを当たり前のように享受している。しかし、それらの親日的な人々の事や台湾の事をどれほど知っているだろうか。日本語世代と言われる70歳代から80歳代の人々の親日の裏側には、各人それぞれの苦難の人生がある。
(8面参照)

 わが国の台湾統治にも、光と影があり、多くの台湾民衆の血が流れたことも歴史上の事実であるが、治安が安定し、社会は発展を遂げていた。しかし、日本敗戦により訪れた中国国民党の統治時代は、まさに台湾人にとって受難の時代であった。まずは台湾の歴史を振り返ってみよう。

 日清戦争の結果、日清講和条約(下関条約)が明治28年(1895)に締結され、台湾がわが国に割譲された。日本統治の最初の20年間、台湾総督府は軍事力を全面に打ち出し、厳しい武断統治を行い、抗日運動などを力により徹底鎮圧していった。明治35年(1902)末頃にはほぼ全土を制圧した。大正4年(1915)に起こった「西来庵事件」では軍隊が出動して鎮圧したが、これをもって武力闘争時代が終焉したと言われている。

 1915年からの20年余りが同化政策の時代であった。明治32年(1899)に第4代台湾総督の児玉源太郎が、民生長官に抜擢した後藤新平は、教育や社会インフラの建設、産業振興などにも力を注いだが、学校や公共施設の利用などで、日本人と台湾人の徹底した分離政策を行った。その後、政策を転換し、台湾人を完全な日本国民とするために、日台共学制度や共婚法などを施行し、台湾人への差別を減少させるための政策を行っていった。

 昭和12年(1937)に、盧溝橋事件を発端として支那事変が激化すると共に、台湾の重要性が増し、皇民化政策が展開された。日本語の使用を徹底する国語運動では、各地に日本語講習所を設ける一方で、台湾語、客家語、原住民語の使用を抑圧、禁止した。また、兵力を補うために、昭和16年(1941)に志願兵制が実施された。募集定員約1000人に対し、45万人もの人々が志願し、翌年も約1000人の募集に対し志願者は60万人にもなったという。なかでも先住民族からなる高砂義勇隊は、南方戦線のジャングル地帯では日本人以上の勇猛さを発揮した。昭和19年(1944)には徴兵制を施行したが、約21万人(軍属を含む)の台湾人が日本人として大東亜戦争に参戦し、約3万人が死亡した。

◆白色テロの犠牲に

 敗戦により、わが国は台湾の領有権を放棄した。ただちに蒋介石率いる国民党軍は、何らの法的根拠なしに台湾を占領した。中華民国は台湾の領有を宣言し、台湾人の意思に関わらず、国籍は日本から中華民国に変更され、本省人と呼称されることになった。日本の企業や私有財産はすべて接収され、国民党は膨大な資産を入手することになった。同時に一部の国民党官僚による横領が横行し、台湾社会は混乱した。

 当時、大陸経済は破綻状態であり、台湾の米や砂糖などあらゆるものが不当に安く買い上げられ、中国に輸出されたために、台湾では物価が急騰し、失業者が急増した。国民党軍兵士の強奪や乱暴狼藉、官吏の腐敗ぶりは、日本の統治を経験した台湾人にとっては耐えられないものであり、治安の悪化と共に不満が高まっていた。そんな中、昭和22年(1947)に二・二八事件が発生した。たばこの取妙締まりに端を発した暴動は全島に拡大、官庁や警察署が襲撃された。

 この暴動鎮圧のために派遣された国民党軍は、基隆港と高雄港に上陸するや、機関銃を用いて、武器を持たない台湾人の無差別殺戮を始めた。さらに台北から屏東、そして東部へと、約2週間で台湾全土を鎮圧した。様々な残虐な行為も行われたが、多くの知識人が逮捕され、とりわけ日本の教育を受けた知識人が意図的に粛清された。その後も戒厳令の施行と国民党政府による不当逮捕、拷問、処刑という白色テロのもとで、台湾人からあらゆる権利が奪われた。
                                 (次号に続く)