

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.697
2013/8/8









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■□【1】鎖国と開国の相克-1
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「鎖国」と聞くと、多くの人が江戸時代の「鎖国」を思い浮かべるようです。
けれど日本の歴史を振り返ると、実は「鎖国」と「開国」が交互に起こっています。
古いところでは、推古天皇の頃(推古8(西暦600)年)から、推古26(618)年(推古26年)まで行われた遣隋使があります。
有名なところでは、小野妹子が有名な「日出処の天子」の国書を持参したのが第2回の遣隋使です。
遣隋使は、推古26年に随が滅んだことによりなくなり、次いで支那に建った王朝である唐への遣唐使がはじまりました。
遣唐使は、寛平6(894)年までの264年間続きます。
廃止したのは菅原道真で、理由はいくつかありますが、一般には唐が末期となり、支那の国が荒れ、交易をする意味がなくなったこと(唐は907年に滅亡し、支那は五代十国に分裂した)が理由とされています。
遣唐使を取りやめた日本は、以後、日本人が国の許可なく異国に渡ることを禁じた「渡海制」をひき、さらに唐や宋などの商船に対すしても、前回の来日から次回の来日まで、最低10年の間を空けることとする「年紀制」を定めています。
要するに日本は「鎖国」したわけです。
これを再開したのが平清盛の父、平忠盛で、彼は民間貿易としての日宋貿易を本格化させています。
平忠盛の時代は、12世紀初頭ですから、日本は約100年「鎖国」していたことになります。
一般に平家は水軍を中心とする武力をもって朝廷に大きな権力を築いたとされていますが、実際に忠盛が朝廷内で出世し、清盛の時代に源氏を倒して「平氏にあらずんば人でなし」という時代を築いた背景には、この入宋貿易によって得られた巨額の資金がものをいったとされています。
その日宋貿易も、1185年の平家滅亡により、事実上停止となります。
鎌倉幕府は、南宋末期まで支那との交易を行っているものの、あくまで幕府管理下で、細々とこれを行っただけであり、宗が滅び、元が起こると、日元貿易は、あるにはあったけれど、その規模は極めて小さなものにまで縮小しています。
そして次に日本が国として支那との国交を開くのは、応永8(1401)年の室町幕府三代将軍足利義満による「日明貿易」の時代となります。
つまり、日本は216年間、再び「鎖国」していたわけです。
もっとも、国交のない「鎖国」状態の中でも、いわゆる密貿易はあったし、また村上水軍や五島列島などの島民を中心とした倭冦は、1300年代から度々支那や朝鮮半島に押し掛けてもいます。
ただしこれは、国としての公式な交易ではないので、ことについては後述します。
日明貿易が開始された背景には、この私的交易団である倭冦が、度々明を荒したので、国家として公式かつ安定的な交易を開始しようとしたことが背景にあったとされています。
実は、これは不十分な説明と思うのだけれど、そのことも、後述します。
日明貿易は、フランシスコ・ザビエルが来日した天文18(1549)年まで19回行われましたが、このとき、割り符を利用して互いの国の正式な派遣船であることを証明したことから、この交易を「勘合貿易」とも呼んでいます。
当時の交易の様子については、たとえば宝徳年間に明に渡った商人の楠葉西忍の記録によれば、明で250文で買った絹糸が、日本に持って来ると5貫文(5000文)の値で売れ、
反対に日本で10貫文で仕入れた銅が、明で40?50貫文で売れたそうです。
さらに、刀剣類や漆器などは、やはり2?30倍の値段で売れた。
貿易は、それだけボロ儲けできる商売だったわけです。
ところがこの日明貿易は、開始からわずか10年で一時中断しています。
なぜかというと、この日明貿易を行うにあたり、足利義満が「朝貢」形式を採ったからです。
これを不服とする人々が、交易の継続を拒否した。
交易が再開されるのは、天文5(1536)年ですが、これ以降の交易は、国家としてのものというよりも、周防国(山口県南東部)の大内義隆による個人貿易の色彩が強いものでした。
その大内氏も、弘治3(1557)年に毛利元就に討たれて滅び、以降、明との交易は公式なものは停止となり、倭冦による民間交易だけが続くことになります。
つまり日本は、156年間の開国の時代を終わり、ここで三たび支那に対して「鎖国」したわけです。
ところが一方で、この時期になると、今度はスペイン、ポルトガル、そして東南アジア諸国が、新たな交易相手として登場します。
信長を筆頭に、各藩はこぞってこれらとの交易を盛んに行ない、ヨーロッパにまで使節団が派遣された(天正少年使節団)ことはみなさまご存知の通りで、さらに家康の代になる慶長6(1601)年以降になると、ベトナム、マニラ(フィリピン)、カンボジア、シャム、パタニ(タイ)などと正式な国交関係を樹立し、盛んに貿易が営まれるようになりました。
東南アジアの各町には、日本人町が作られ、なかでも有名なのがタイのアユタヤで勇名をとどろかした山田長政です。
おもしろいのは、この時期(慶長11(1607)年)には、家康がガレオン船まで建造していることです。
ガレオン船というのは、よく西欧の海賊ものの映画などに出て来る大型帆船で、4?5本の帆柱を備え、舷側に大砲を揃えた、あの外洋航海用の大帆船です。
おもしろいのは、日本はこの直前である文禄元(1592)年から慶長3(1598)年まで、朝鮮征伐で明、朝鮮の連合軍と戦っていたことです。
秀吉の死後、日本は朝鮮から撤兵(慶長3)していますが、その一方で、東南アジア諸国やスペイン、ポルトガル、オランダ等と、盛んに貿易をしていたわけです。
ところが、寛永16(1639)年になると、日本は南蛮(ポルトガル)船入港禁止令をひき、鎖国します。
つまり、1401年にはじまる日明貿易から、東亜、西欧との交易にいたる開国解放政策は、238年で幕を閉じ、以降、嘉永7(1854)年の日米和親条約締結までの215年、日本は四度の「鎖国」に踏み切るわけです。
ここまでの流れをすこし整理すると、次のようになります。
600?894 ( 264年)開国 遣隋使、遣唐使
894?1100 (約100年)鎖国
1100?1185(約 85年)開国 平家全盛期
1185?1401( 216年)鎖国
1401?1557( 156年)開国 足利幕府
1557?1868( 311年)支那に対して鎖国
1639~1868( 229年)鎖国 江戸幕府
1868?2012( 144年)開国
これ以前にも、開国解放と鎖国は、度々繰り返しているようなのですが、要するに民間部門での私的交易や、細々と行われたであろう大陸との交流は別として、公式に行われた交易は、時代とともに鎖国政策と開国解放政策が時代とともに交互に行われてきた歴史が、日本にあるわけです。
ではなぜ、こうした開国解放と、鎖国政策が時代とともに大きく揺れ動いたのでしょうか。
海外との交易が、交易をする者に巨額の富をもたらしたことは、上にご紹介した楠葉西忍の記録がこれを証明しています。
またよく見かける七福神は、冒頭の絵にあるように、みなさん宝船に乗っておいでです。
これなども大陸から帰還する船が、都度、巨額の富を日本にもたらしたことをモチーフにしたものとされています。
ひとつはっきりといえるのは、なるほど開国解放政策の時代には、大陸からの多宝物がたくさん日本にやってくるというプラスの面がある一方で、おそらくは、人的交流もさかんであったであろうということです。
実際、それぞれの時代、随や唐、宗や明などから、多数の人格高潔とされる高僧なども来日し、帰化しています。
しかも、交易は、巨万の富をもたらした。
けれどものごとというものは、作用があれば必ずあるのが反作用です。
プラスの面があれば、同時に必ずマイナスの面が起こる。
おそらくは、交易が盛んになるにつれ、多数の帰化人、渡来人の中には、ろくでもない連中も多数来日したであろうことは、容易に想像がつきます。
実際、遣隋使、遣唐使が盛んだった時代には、世が荒れ、国内治安が乱れ、白村江の戦いも起こり、遷都が繰り返されています。
治安が良く、政治的混乱もなく、世が安定していれば、遷都の必要などないのです。
にも関わらず、住み慣れた都を捨て、改めて都を遷さなければならない。
それには、それを「せざるを得ない」何かがあったであろうことは、誰にでもわかることであろうかと思います。
菅原道真が遣唐使を廃止したあとも、国内の混乱は続きました。
そしてこの頃から、民間部門で力を持ちはじめたのが、武士団でした。
なぜ、民間に武力が必要だったのでしょう。
必要があるから、武士が生まれたのです。
必要がないなら、武士は生まれません。
武士の始まりを、平安貴族の荘園(農園)の警備員たちに求める説があります。
果たしてそうでしょうか。
日本人の感性として、たとえば日本人の日本の銀行の本店にいるガードマンが、頭取を殺害してその銀行を乗っ取るという発想をするでしょうか。
むしろ、日本人が、あえて民間武装止む無しという行動に走るのは、関東大震災のあとの治安の悪化の中で自然と武装した自警団が生まれたこと、あるいは、終戦直後の混乱の中で、在日朝鮮人達の横暴に対してヤクザが武装して立ち上がり、警察署などを守ったことなどがあげられます。
もともと日本人というのは、縄文時代の1万7000年間にわたって、「人が人を殺すことをしない」、むしろみんなで力を合わせて何かを作る、築くことを是とした民族です。
1万7000年というのは、ものすごい年月です。
なにせ、関ヶ原の戦いからでさえ、まだ412年しか経っていません。
一世代がだいたい25年、百年で4世代が交替するとすると、関ヶ原からで16世代です。
計算上は、700年前の鎌倉時代の一組のカップルから、日本のいまの人口(1億2700万人)が誕生する。これが28世代です。
それが1万7000年というと、680世代というとほうもない期間です。
その長い期間にわたって、全国津々浦々、なんとか貝塚とか、なんとか遺跡とか、縄文時代の古い遺跡が日本中に数万カ所あるけれど、そのどの遺跡からも、野うさぎなどの小動物を狩る矢じりや、道具としての石斧、あるいは土器や土偶などは数限りなく見つかっているけれど、対人用の武器が出土していないのです。
つまり、日本人は、縄文の昔から、人を殺すことを良しとしなかったのです。
※明日のメルマガに続く





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