速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(五)東京速成学館 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 その後の速成学館については沢氏のほかに、丸山幸子氏が「花袋と短歌(武井米蔵「京遊日記」)―東京速成学館をめぐる諸問題―」『田山花袋記念文学館研究紀要』(16号、33頁、2002年)に於て論じている。丸山氏は数件の文書を引用されているが、先の調書の次に位置するのが二十年初頭に東京府に提出された一連の書類である。これは規則改正、及び学科改正に関する願書で、一月二十九日に提出され、最終的に二月十五日に受理されたものと思われる。


 この願書では校名が「東京速成学館」となっており、住所は上六番町十二番地である。提出者は東京速成学館々長兼創立者の玉井喜作。住所は現在の番町文人通と大妻通の交わるあたりと思われる。玉井の住居も兼ねていたであろう。願書では学科(科目)を先の独乙学、物理学、化学、数学に、英語、画学、漢文読書を加えた七科としている。
 

 丸山氏は、この東京速成学館が先の速成学館が移転改称したものであるという沢氏の推測に疑いを残すとするが、理由として改正前の科目に花袋が学んだ筈の英語がないことを挙げている。また願書では校名、位置が「従前ノ通」であることも指摘されている。従前のとおりであればこの「東京速成学館」は上六番町のにあったはずで、三番町の「速成学館」とはおのずと別物であるという理屈である。「速成」という語は当時よく用いられたようで、速成を冠した校名が他にいくつかあることも理由であったかもしれない。
 

 確かに軽々に結論するのは穏当ではないが、両者の枠組みが酷似していることは否定できず、やはり両者は同一で単に校名住所を変更したのみであった可能性は大きいのではないか。修学内容が「府下私立専門各種学校調査」の後、この願書に多少先立って改変さていたかもしれない。また、表向きはドイツ語を教授していたはずだが、花袋も後に述べる武井米蔵もドイツ語には触れていないことから、実質的には英語教育が主流であった可能性もある。ドイツ語を教えるべき校主の玉井が高等中学の学業にも精勤していたとすれば、手が回りかねたのかもしれない。


 これよりやや後の二十一年二月に刊行された『官立私立東京諸学校一覧』(伊藤誠之堂)にも上六番町の「東京速成学館」の内容が掲載されている。教授する七教科は届け出と同様であるが、独逸学科と英学科に分かれ、課程には本科別科撰科があって、本科の修業年限は二年となっている。


 さらに丸山氏の調べによると、学館は二十年六月に同区下六番町十二番地に移転した。現在の番町文人通、菊池寛や有島兄弟旧居跡からやや西に行った当たりであろう。論考に転載された図面によれば、百八十坪の敷地に七十坪の建屋があり、教場が三室でそれぞれ十三畳半、十畳、六畳、他に生徒控室六畳、及び四畳半の寄宿所二室があった。勝手には校主の家族が住んだであろう。これが正しいならば先の『官立私立東京諸学校一覧』の住所は古いままになっていることになる。


 翌明治二十一年六月に「東京独逸専門学校」に改称するという届が玉井によって提出された。この時にはすでに札幌農学校勤務が決まっていたようであるから、経営を人に譲ったのかもしれない。一方でこれに先立つ三月に「東京女学校」設置願も提出されるなど、目まぐるしく状況が変転していたようである。このあたりの事情は湯郷氏によれば光市の資料から分かるようでもあるが、泉氏も詳しくは触れられていない。