久佐賀義孝及び周辺(六) | 醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 翌明治二十一年一月二十九日:この日付の「上申書」「証書」は前々項に述べた前橋一件に関する。上申書は佐藤から木島宛で、前橋の件の反省と謹慎後はまたお引き受けを願うというものである。但書として他教からは教導職は受けないとも述べている。証書は同じような反省の弁を保証人石井栄助連署でやはり木島に提出したものである。


 同二月十八日:これは少講義高山照光が御嶽教に報じた「御忠告」に対して御嶽教が木島に宛てた照会(詰問)である。御忠告は、教職を剥奪(停止)されたはずの佐藤が未だに前橋に居て、木島並びに御嶽教への誹謗を続けているという密告というか、注進である。ただしこれを発した高山は木島の配下であると思われる。幹枝教会の幹部は、安五郎の佐藤照泰もそうだが、皆な「照」の一字をもらっている。そうだとするなら、高山がまず注進すべきは木島であって、直接御嶽教に訴えるのは木島の差金ではないか。木島側に佐藤を追放する理由が生じたものか、あるいは単なる厄介払いだろうか。


 同二月二十八日:「証書」と題した詫び状である。佐藤本人と保証人石井栄助が木島に宛てたもので、伝授の折紙(書物の意か)を剽窃翻刻模造した場合は処分を受けると言っている。先の本文記述とは順序が逆だが、これは秘書の無断複製のことを言っているのかもしれない。おそらくその筆写を持って神習教に投じたのだろう。日付不明だが、四月上旬と思われる時期に御嶽教管長鴻雪爪宛てた次の文書がある。


 明治二十一年:標題なし。謹慎中の四月五日に佐藤が神習教から大講義を拝命した。不都合であるから解職してほしいと訴えている。一月の上申書にも弁明があるように、以前からそんな話が燻っていたのだろう。
 

 同四月八日:「御受確証」佐藤差出木島宛である。神習教については何も触れず、詐ってはいない、違背の時は処分を受けるというのもこれ迄通りである。しかし結局は袂を分つことになる。
 

 同九月二十九日:ずいぶん日が開きその間の事情は不明だが、木島はこの日付で御嶽教管長に対し佐藤の処分を求めた。
 

 その後はまた書籍の盗み出しを依頼したとか、悪事を暴いて新聞に広告したとかいった話が続くが、それも二十三年までで本書出版の二十七年に至る間については空白と言っていい。その空白の間に久佐賀義孝も登場して、新聞広告をも舞台として応酬を繰り広げるのだが、これはまた稿を改めたい。