年齢を重ねると、歴史や建造物を何が理由で結果として今に残ったのか、
新たな驚き探しのようになり興味が出るのは不思議です。
学生時代に習ったことが真実かと思えば、でも実は、
鎌倉幕府が1192年開幕じゃなかったり、
貧しそうな縄文時代が、実は裕福で平和な1万年以上も続いた文化的な時代だったり、
日本初の歴史書の古事記や日本書紀や、鎌倉時代の吾妻鏡も、当時権力者の藤原氏や北条氏の正答性を謳った偏った編纂紙だったり。
聖徳太子さえその成果や本人の実在性で、教科書から消えてたり。
習ったことが嘘っぱちかも知れないことが最近、DXを利用しながら次々暴かれていることも理由でしょう。
150年以上前の過去なんて、リアルタイムに見た人は今、誰もいないしね。
増してや勝者の目線でしか残されない史実。
何が真実なのか、資料や遺跡をDX技術で、より真実に近い歴史へとどんどん塗り替えてほしい。
最近、個人的に興味にもっているのは、卑弥呼後の空白の150年、藤原不比等、に続いて九州大宰府。
何故か好きな司馬遼太郎さんが大宰府について書いてないので、大宰府か菅原道真について読みやすい本をと探したのが、
「泣くな道真」と「吼えろ道真」の2冊。
①そもそも、大宰府って何?
本の作者の澤田さんは、
大宰府は、
西の遠の朝廷と讃えられる殷賑の地にして、西海道九国三島を支配下に置く総督府
とまず書きます。
更に、
軍備・糧食など豊かな財物を蓄える大宰府は、
日本の西の要であるとともに、事あるごとに都に牙を剝いてきた穏健ならざる地でもあるのだ。
と。
きっかけは660年頃。
朝鮮の百済が、唐と新羅連合軍に攻められ日本に助けを求めます。
日本は朝鮮に遠征派兵(白村江の戦い663年)しますが、大敗します。
そして701年に博多湾から約16㎞も離れた場所に軍事・外交目的で作られた水城。
それが大宰府。
鎌倉時代の元寇(1274/1281年)の襲来も博多湾でしたが、
少し離れすぎからか、鎌倉時代に大宰府は無くなったようです。
大宰府に菅原道真が左遷されてなければ、後世に名も残らなかったのかもしれません。
都で次々に疫病や災難が重なり藤原時平まで亡くなると、亡くなった道真さんの恨み怨恨だと人々は噂します。
その鎮魂のために大宰府天満宮ができ、大宰府の名前が残りました。
②怖がられた菅原道真って誰
菅原道真は、西暦845年に奈良の普通の学者一族の生まれの才人。
有名な歌は、東風吹かば にほいをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ。
その才を天皇に認められ右大臣にまで登用されますが途端に、左大臣の藤原時平に大宰府に飛ばされます。
どう見ても冤罪で901年に大宰府に左遷させられ、2年後に大宰府で亡くなります。
時代は、藤原家が天皇をも言いなりに従えるような摂関時代。
不比等(700年頃)の頃から道長(1000年頃)の全盛期を経て1070年頃の藤原家排斥まで、
その絶対的権力を300年以上維持した藤原家のいつもの普通の、優秀危険反抗因子の潰し戦術なのでしょう。
でも死罪相当の罪状なのに、左遷程度で済んだのは、
道真が余程のこじ付けでしか飛ばせない、何も失敗しない傑物だったか、
復権したいが母も妃も藤原家で雁字搦めの天皇の、止むを得ない尻尾切りだったのでしょうか。
本では、その左遷されてからを史実を織り込みながら、
道真さんの大宰府での日常がそんなに残されていないのか、輸入献上品の不正問題2つ絡めて、
賢く優しい人間らしさを前面に出して、どこかのんびりと、
道真さんの姿を読者に伝えます。
もし司馬さんだったら、有ること無いこと想像力で広げて主人公を強烈に表現したのでしょう。
でも澤田さんは、史実を曲げたくない歴史家なのか、想像部は他人(側近)の視線を使って道真さんを表現する手法でお茶を濁しているようです。
作者の澤田さんは、
道真さんは、左遷の恨みで天変地異や疫病の原因と恐れられたり、受験生の学問の神様とか、
そんな程度のレベルの人じゃないぞ、と本音では思っているのでしょう。
「泣くな・・」、「吼えろ・・」、と作者の道真さんへの思いのような書名ですしね。
「吼えろ・・」では、そのリスペクトの片鱗で、
上司に忖度する側近に、
鋼を思わせる鋭さでしかし静かに、職員の不正冤罪の誤り懸念を、
人は他者を救うことも助けることもできない。人を救うのはただ1つ、己自身のみじゃ。
と諭しながら語ります。
それはつまり作者が、
道真自身の冤罪にも、泣かず挫けず、吼え戦って、都に返り咲いて欲しかったんじゃないかと思います。
歴史教科書で教えることの全てが正確ではないのが、最近の歴史的発見は証明しています。
つまり過去は変わらないけど、その姿は見方や立場で多面性を持ち、正しく伝承することは難しい、と。
個人的には時代が違うとはいえ頭の良さで出世した人だから、
冷徹(cool heart)でバッサバッサと現場を切ってきた今でいえば企画系のtop downの人でしょうし、
現場からは何も知らない癖にと嫌われ恨まれ、
天皇には全く逆らわず、
ライバルになるであろう藤原一族には一瞬たりとも弱みは見せなかった、
全ての己の出世戦略・戦術で成功した人と想像します。
だからこそ右大臣になったとたん待っていたかのように左大臣藤原時平に冤罪で飛ばされたと。
はたして何が本当の史実なのか。
情報が少なく、本で書く思慮深く優しい道真さんと鎮魂のため天満宮に祀られるまで怖れられた道真。
頭の中で何か大きさがずれてバランスが取れない気がします。
福岡県って北九州市しか行ったことが無いし、
博多に行って、観世音寺の鐘の音を聞きながら大宰府跡や太宰府天満宮や博物館を巡り、伝えようとしたものを確認したくなった2冊でした。