『万延元年のフットボール』再読 | ゴキゴキ殲滅作戦!

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大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年)を読了しました。著者の代表作の一つで、ノーベル文学賞の受賞理由ともされる名作です。大学時代に読んだものを、長い時を経ての再読。

 

万延元年(1860年)、四国の森の中の寒村から発生し城下町まで迫った百姓一揆の首謀者の兄を曾祖父とする、蜜三郎(=「蜜」)と鷹四(=「鷹」)の兄弟。

 

「蜜」は親友の奇怪な自死と、脳に障害のある息子の誕生によって、妻とともに絶望の中にいる。そこに、安保闘争に敗れアメリカを放浪した「鷹」が帰国して、「蜜」と妻に四国の村に帰省し、「新生活」を始めようと提案する。

 

一揆の指導者たる先祖を英雄視する「鷹」は、故郷に戻ると地元の若者を集めてフットボールの訓練をして・・・という物語。

 

サルトルは「美」を定義して「存在の濃密さ」と言ったが、大江ほど「濃密」な「世界」を描ける作家も稀だろう。そうした印象を生じさせるのは、「語り手」=「蜜」に対して事物や他者が持っている「抵抗感」だ。坂、雪、凍結などによる道路の歩きにくさ、話者の肥満と不器用さからくる肉体的な疲労と痛み、村の住民による嘲笑と妻の拒絶。それら(+文章自体の読みにくさ)が相互に作用して、ありありとした現存感をたたえた「世界」が立ち上がる。

 

「蜜」と妻と「鷹」とが抱える心の「闇」。現在と万延元年(さらには村の起源たる戦国時代←周囲の森に潜む悪霊は「チョウソカベ」=長宗我部と呼ばれる)とを行き来する、重層的なストーリー。大女ジンや隠遁者ギーなどの奇妙な人物は、「シンボル」や「アレゴリー」といった用語に還元できない複雑さを持って造形される。

 

戦後の日本文学を代表する傑作と言ってよいでしょう。「文学」を語るのなら読んでいなければならない一冊です。